2015年2月27日

『二度生きる』俳壇分裂から海程創刊


『二度生きる』チクマ秀販社 [1994年4月]1500E
帯より・トラック島から生還した海軍主計大尉・日銀マンの信念をもった人生が
ここにある。第1章・出会い  第2章・転機  第3章・日銀之俳諧 第4章・決断
 第5章・再生

俳壇分裂から海程創刊 (二度生きるより)
 これまでは、勤め人金子兜太について触れてきましたが、ここでは主に俳人金子兜太についてお話ししたいと思います。
 
 日本銀行に勤務している間、当然、私は俳人としての活動をやっていたわけです。しかし、それは、勤めと同様、けっして平坦なものではありませんでした。山あり谷ありです。特に、昭和三十六年、現代俳句協会が分裂して、俳人協会が設立されると、前衛と言われた私たちはしばらく俳壇内でも、ジャーナリズムからも冷遇の憂き目にあいました。

 現代俳句協会は敗戦の翌々年、昭和二十二年に設立された、全国規模の俳人の友好団体です。ここでは俳句観の違いを問題にせず、実力本位の交流を本旨とした、自由な集いでした。

 前衛俳句という言葉をお聞きになった方は多いと思いますが、戦後のある時期、私たちは前衛と称されていました。堀葦男、原子公平、鵤津亮、林田紀音夫、佐藤鬼房、鈴木六林男などもいました。前衛俳句の活動のピークは、昭和二十年の後半から昭和三十年の前半にかけての十年間です。

 前衛と言うと、破茶目茶な句をつくって平気な集団のように思われる方がいますが、それは誤解です。俳句で言う前衛とは、そのようなものではありません。むしろ五七五という伝統形式はきちんと守りながら、ひたすら現在に執して書く。したがって、季語だけはもっと幅広い見方をしようというのが、俳句における前衛の考え方だったのです。

俳句が有季定型と言われる中で、定型の方は守るが、有季の方はそれほどきびしくなくていい、ということで、その主張にも、季語は始めからまったくいらないという意見から、季語は基本には違いないが、なくてもいいという意見、季語は絶対に大事だが、ただしおこぼれ的に無季があってもこれは認めるという意見まで、おおまかに三つの見解に分かれていました。

 ところが、なにがなんでも有季を重んじる人たちにとっては、このような考え方自体が我慢なりませんでした。とりわけ、石田波郷、西東三鬼、角川源義といった、私たちより一世代前の俳人たちは危機感をつのらせたのです。

彼らはこう考えました、前衛がこのまま現代俳句協会を牛耳り続けるようでは、有季定型はつぶされ、ひいては、それを固持する自分たちの存在もまた消されてしまうと。

 ちょうどその頃、日本中に巻き起こったのが古典返りの風潮です。昭和三十五年の六十年安保闘争を契機に日本の文化全体がその風潮に傾いたのです。中でもいち早く古典返りをしたのが俳句です。その主張は一言で言うと、俳句は五七五の定型であり、有季でなければならないというものです。それ以外は認めないのです。

そして、この動きはついに、昭和三十六年の現代俳句協会の分裂へと発展しました。彼らは有季定型こそ俳句であるというスローガンを掲げ、俳人協会を設立したのです。

 その人たちは私たち前衛を、俳句の伝統の破壊者と見ました。しかし、ここがおかしいのです。彼らの固執する有季というのは、伝統でもなんでもないからです。俳句に絶対に季語が必要というのは、高浜虚子の考えであって、それ以前は誰もそうは言っていないのです。芭蕉も一茶も言っていません。そのあたりの誤解が俳句の世界には長い間あって徐徐にですが、修正されているような有様です。

  海に降る雨や恋しき浮見宿

 これは芭蕉の句ですが、どこにも季語がありません。浮見宿というのは、江戸から行商に来た男が、秋までの期間、自分の身の回りの世話をやいてくれる、もちろん男女関係にもある女を置いておく家のことです。ここは越後ですが、その家のそばを芭蕉が通りかかり、中から女の顔が見えたので、作ったのがこの句です。日本海に雨が降っている、江戸に帰って行った男が恋しい、そのような内容です。

 しかし、さすがに芭蕉もこれが無季の句なので気にはしたようです。つまり雑の句です。そのため芭蕉は一応遠慮して、これを『奥の細道』からはずしたのだと私は見ています。

 同じように、一茶にも無季の句があります。また、正岡子規に至っては、雑の句は差支えないとさえはっきり言っているのです。芭蕉も、和歌でいう歌枕に相当するものがあれば、季語はなくてもいいと文書に記しています。季語が絶対なければならないとは、芭蕉も言っていません。

 ですから、有季定型をスローガンに掲げた人たちにとっては、古典返りとはいっても、それは芭蕉や一茶に返ることではなく、有季を絶対視した高浜虚子に返ることだったのです。要するに虚子返りです。虚子の言った有季定型を復活させることだったのです。

 では、なぜ高浜虚子が有季定型を主張したのかと言えば、それは俳句を一般に普及させる必要があったからです。戦後の昭和二十一年、評論家の桑原武夫が雑誌『世界』に発表した「第二芸術論」は、まさに虚子の考えと反対でした。俳句なんか文部省の教科書に入れるなとまで桑原は言っているのです。これが日本人の一億総白痴化をつくり出した大本であると。
俳句をやる奴は馬鹿で、こんなものをつくっていい気になって、自分をいっぱしの詩人とさえ思っている。こんな錯覚をさせるから、俳句はだめなんだ、こんな文化風土を作っては日本はだめになると。

 虚子の考えには、これとは逆です。彼は俳句を普及させなければならなかったのです。お弟子をたくさんとらなければなりませんでした。それには芸術性ばかりを唱えていられなかったです。それだと、少数の変わり者が好むだけで、俳句は広まりません。どうしても一般向けが必要です。しかし、その一般の人というのは、虚子から見ると、低レベルです。当時、河東碧梧桐という俳人が人気があったのですが、彼が言うような、俳句は長くなってもかまわない、というようなことを口にすれば、かえって庶民はついてこられないと、虚子は考えたのです。
実際、碧梧桐の句はその内中身が散漫になり、飽きられて、人気も落ちました。それなら自分がやってやろうと、虚子は『俳句の進むべき道』という評論を書いて、俳壇に復帰するのです。

そして『ホトトギス』を文芸雑誌から俳句雑誌へと切り換えるのです。自由にやれと言われると、一般の人はかえって、むずかしいのです。それより、きちっと規則を与えた方が、庶民にはやりやすいのです。
そう考えた虚子は、季語が絶対に必要なこと、十七文字で書くことを指導しました。むずかしいことを言おうとしてもだめですよ、客観写生でおやりなさい。それには自然と気持ちを通わせなさい。

人間のことを書く気になってはだめですよ、それではむずかしくて書けませんよ、そう言い続けたのです。

 もっとも、彼自身は、明らかに字余りの句でも、出来栄えが良ければ取り上げていま。では、十七文字からはみ出てもいいかと弟子が問えば、「十七文字でお書きなさい」と、答えるだけです。はみだしていいとも悪いとも言いません。ここが虚子が世間に長けているところです。けっして危ないことを口にしないのです。

 虚子の話が長くなりましたが、とにかく虚子のつくったそのような世界に俳壇を逆戻りさせようとする動きがあらわれたことが、私には不満でなりませんでした。角川書店の角川源義氏などが中心になって、有季定型をスローガンに俳人協会がつくられヽそこに前述の、私たち前衛より】世代前の俳人たちが参加し、また、私と同世代からも参加する人がいました。
2017年1月 海程
海程創刊
 古典返り派が俳壇の主流を占める結果になりました。我々に対するジャーナリズムの態度もがらっと変わったものになりました。それまではメジャーのジャーナリズムや、当時は唯一の俳句総合誌だった、角川書店出版の『俳句』にも取り上げられるほどだったのですが、ぱたっと私たちにお呼びがかからなくなったのです。他のジャーナリズムも同様
です。その状態は、その後五年間も続き、その間私たちはいわゆるマイナーなジャーナリズムに句や文を発表していました。自分たちの同人誌も結社誌もまだ持っていなかったから、発表の場はそこしかありませんでした。

 そこで、私はこれではいけないと考えました、このままでは前衛と称された俳人たちはつぶされてしまいます。では、どうすればいいか。まず、まとまった雑誌を出さないといけない、前衛の梁山泊をつくらなくてはいけない、急いでそれをやろう。私たちはそう決意したのです。ちょうどその頃、私が書いた『造型俳句六章』に感心してくれていた、実業家の鷲見流一(俳号)氏が資金提供を申し出てくださいました。

そこで、氏の力を得て、私たちはここに新しい雑誌を誕生させました。それが『海程』です。現代俳句協会分裂の翌年、昭和三十七年のことです。

 この時の『海程』は同人誌です。現在のような結社誌ではありません。同人誌と結社誌の違いは、一言で言えば、同人誌が同人だけが集ってつくる雑誌に対し、結社誌は主宰を置き広く一般から句を募集して主宰がこれを選句して成り立つ雑誌である点です。

 当時は、『海程』を結社誌にする考えは微塵もありませんでした。というのも、優秀な俳人だけが集まるのが『海程』であって、そこでいいものを書き、いいものを発表すればいいのだと、私たちは考えていたからです。一般に向けて投句を募るのは結社誌のやるごとで、自分たちはそういう人たちとは違うのだと自負していたからです。一般から句を
集めるのは邪道とさえ考えていました。

  ですから、前述鷲見流一氏に、ある日呼びだされた時も、私はその説を通しました。氏は私の顔を見るなり、「この雑誌は何ですか」と、厳しい口調で言われます。

 「同人の集まりは始めだけで、その内金子選をもうけて、広く一般に呼びかけてやるのかと思っていたら、これじやいつまでだっても同人誌ではないですか」鷲見氏は『ホトトギス』のような結社誌を思い描いておられたのです。私はきっぱり言いました。

 「そんな俗なことはやりません」
 「そうですかねえ。そんなに小っちゃくていいんですか」
 氏はあきれた顔をしています。

しかし、私は自説を曲げませんでした。創刊当時の『海程』の同人は約三十人。そして、ゆくゆくは、「千人同人誌を目指す」ことを私は宣言します。つまり、俳句の世界における歌誌『アララギ』を目標にしたのです。『アララギ』は、茂吉、文明の選歌欄がありますが、同人の数も多い同人誌です。私は『海程』を『アララギ』のような大きな同人誌に
したかったのです。

 新しく同人として迎えるには、同人がみなでその人の資格審査をします。『海程』 の同人になりたい大がいれば、その人の句や文章をみなが見て、「よし、これならいいだろう」あるいは、「これはだめだ」と審査するのです。しかし、実際には、私の独裁がかなりききました。
金子の言うことなら我慢しようという雰囲気になって、私が「あれは同人にしていいだろう」と言えば、みな、「ああ、いいよ、いいよ」と賛成してくれます。そうする内に、優秀な同人が各地から集まり、創刊時三十人だったのが、五年目には百人に達するまでになりました。

 同人誌『海程』が結社誌『海程』に切り替わるのは昭和六十年、今から十年前のことです。私の立場も、同人代表から主宰に変わりました。今後広く一般から句を募り、そういう大を加えて雑誌をつくっていこうという方向に転換したわけです。

 この考えは私の中で突然湧き起こったものではなく、だいぶ前から徐徐に固まっていったものです。しかし、大はそう見ません。俳壇のあちこちから批判の声が上がりました。金子は変節した、金子は裏切った、金子は堕落したと、彼らは口々に言い、また、『海程』の同人にも私を非難する者がいたくらいで才な しかしその手の批判は私には全然こたえませんでした。

というのもヽすでに  きりした俳句観が出来ていたからで、俳句は芸術性だけでは成り立だないことを、私は承知していたのです。俳句には芸術性と一般性の接合が必要で、その接合点を探るのが専門俳人の仕事の一つということです。 そのようなことを私は古典を勉強する内に知るのですが、それを教えてくれたのが一茶だったのです。・・・・


0 件のコメント:

コメントを投稿