2017年2月23日

「種田山頭火」金子兜太 


「種田山頭火」 講談社現代新書 [[1974年11月]
(金子兜太集3にあります)
放浪と行乞、泥酔と無頼の一生を送った漂泊の俳人・種田山頭火に
ついて、実作者の句作体験を通して、「存在者」としての山頭火の
内奥をえぐり、その詩と真実を解明するとともに、現代人の放浪へ
の願望をもあわせ追及した力作。※この年は、略年譜に一茶・山頭
火のテレビ、雑誌座談会多しと記されています。

「山頭火」から抜粋しました

 山頭火の日記風の記録は相当なものである。いま残っているのは、前掲の『行乞記』以後だが、それから十年後、四国松山の一草庵で死ぬ、その四日前まで、彼は書きつづけている。最後のものが『一草庵日記』。

その間、とびとびになっているところもずいぶんあり、風呂敷のまま盗まれたものもあるようだが、一九三九年(昭和十四年)までは、大学ノート一冊を書きあげるごとに、それを福岡県田川で炭鉱医をしていた木村緑平のもとに送っていた。緑平は俳句仲間でもあった。その冊数、二十一。

 しかも山頭火の行乞自体は、現存の『行乞記』の五年前、一九二六年(大正十五年)の四月にはじまっていて、そのときの手記もあったようだ。
それを焼いて、この行乞をはじめたと書いているから、それら焼却分をくわえると、手記の量はさらに増える。それに七冊の句集と、そのなかから自分の好きな句を自選した句集『草木塔』が残っている。

 さらにかなりの量の手紙が、山頭火に関心をもつ俳句仲間や知己のもとに保存されている。くわえて、俳句雑誌などに掲載された文章がある。相当なものだ。「メモ魔」といわれるが、いわれてもしかたがない。

 これら記録類の大方は、現在では財団法人・山頭火顕彰会に属していて、山頭火に私淑し、よき支援者でもあった大山澄太が責任管理している。

 「わたしはぐうたらの呑んべいだが、日記だけは書きつづけ、荷物にはなるし、持って旅することが出来ないので、緑平さんに送ってある。
死んだあとであんただけは是非見てくれよ」と、山頭火は澄太に語っていたそうである。残す意思明瞭だった。

一冊の日記帳に通う心
 これら記録類を集大成して、「定本山頭火全集」全七巻が、一九七二――三年、春陽堂から出版された。監修は 山頭火の俳句の師荻原井泉水国文学者にしてよき理解者たる斉藤清衛。編集は大山澄太と国文学者高国文学漸高藤武馬(以後、便宜上これを全集とする)私か引用する山頭火の手記はすべてこれによる)。

澄太は、「全集」の解説に、最初の手記保管者、木村緑平についてのエピソードを書いていた。山頭火と緑平の、こころのかよいも偲ばれて好もしい挿話だ。

 澄太は緑平のところにいって、手記のノート全部を預ってきて、自分の出している俳誌「大耕」に逐次掲載していたところ、緑平から手紙がきた。

「あの日記帳が私の身辺にないと淋しくてやりきれぬ」――。そこで送り加えしたのだが、もう余命いくばくもなしと自覚した緑平は、ふたたびそれを澄太に戻してきて、保管を依頼した。ところがそのなかに、前にはなかった一冊がくわえられていたのである。

 「この一冊だけはね、どうしても手放せなかった」「山頭火の手記が身辺からなくなっては、たまらぬ思いがする、肌身離さずにいたのだよ」と言っていたそうだが、それからまもなく、八十一歳で死んだ。緑平の句帳に、「其中日記を大山氏に託す」として、次の句が書きとめられてあったという。

  これがお別れになる日記の重さ膝におく
  はらはらめくる日記のなかの山頭火の顔々
  その手垢の跡も山頭火の顔になる
  日記と別れてからの寒い日がつづく

  ・・・・・・つづく


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