2017年2月22日

「放浪行乞 山頭火130句」金子兜太

1987年12月刊 集英社1200円
(放浪行乞は筑摩書房の金子兜太集3にあります)
第1章 放浪以前
第2章 行乞――山行水行
第3章 行乞――鉄鉢の中
第4章 基中一人
第5章 名残の放浪

うしろ姿のしぐれてゆくか
 昭和六年(一九三一)十二月二十二日、山頭火は第三回の行乞に出てゆく。ほとんどは北九州を歩き、やがて山口県にはいり、故郷の地に近づいてゆく。その最初の作として取り上げたいのが十二月三十一日飯塚町(現、飯塚市)で書きとめたこの句だ。


 句集『草木塔』のこの句の前には、次の前書がある。「昭和六年熊本に落ちつくべく努めたけれど、どうしても落ちつけなかった。
またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである」。そしてさらに「自嘲」とある。「自嘲」が直接の前書で、「昭和六年云云」は、これにつづく一連の句をふくめての前書だが、連続して記されていることが印象的だった。思い出すのだが、第一回行乞に出るときは、「分け入つても分け入つても青い山」だった。

第二回は冒頭二句中の、「しづけさは死ぬるばかりの水がながれて」が記憶に残る。そして、この「うしろ姿」の句にくると、感傷も牧歌も消え、生ま生ましい自省と自己嫌悪も遠のいて、宿命をただ噛みしめているだけの男のように、くたびれた心身をゆっくり運んでいる姿が見えてくる。

 人間はそのうしろ姿に境涯の影が出るといわれる。その影は、冬の通り雨のように寒む寒むと、侘しく、無常そのもののように流れているというのだ。かつて、第一回行乞の半ばのころは、

  しぐるるや死なないでゐる

と気負って書いていた。時雨に抗して歩こうとしていたのだ。しかし、この「うしろ姿」の句の時期ともなると、

  しぐるる土をふみしめてゆく

とつくるようになっていた。いま歩む土も時雨そのままの土ということである。わが心身のうしろ姿も、踏んでゆく、この土も時雨ということだった。
山頭火はすでに五十歳、切実に年齢を感じてもいただろう。そのせいか、このころから肉体の疲労、衰えを今まで以上に意識しだしていた。

  腹底のしくくぃたむ大声で歩く
  旅のつかれの腹が鳴ります

などと。
 この「うしろ姿の」の句でふと思い出すのが、バルテュス(一九〇八年パリ生まれ)の、コメルス・サンタンドレ小路(パリ)の人々の暮らしの風景のなかにうしろ姿を見せた男が一人立っている絵だ。この男はバルテュス自身だといわれかれの過ぎ去った日日の記憶がこの小路にはいっぱいあるらしい。そこに自分の姿をおくことは、自分の人生に沁
み込んでいるサンタンドレ小路の日日のことを語りたかったからに違いない。

そのうしろ姿は、小路への親しみとともに、ど こか異和的な雰囲気をただよわせていたから、その回想は複雑な翳を帯びていたのだろう。それにしても、バルテュスのうしろ姿の
「個」はまだ若く、回想にかたむいてはいても、活力を覚えさせていた。それだけに孤独だったのだが。

 しかし、山頭火のうしろ姿は時雨そのもの。わが身の「個」を早めに無常のなかに置いてしまうところが日本人らしいなどというまえに「個」をもてあまし、自嘲するしかない男の姿を思ってしまうのである。
  あとがき
 昭和四十九年(一九七四)の夏、『種田山頭火』(講談社現代新書)を書いてから十三年が過ぎている。そのあいだに山頭火についての小さな文章もいくつか書いているが、私の山頭火を見る眼がしだいに動いていることを自分で感じてきた。

そしていま、はっきりとその変化を承知している。 それを一と言でくくると、山頭火の行乞を、けじめは托鉢を通ずる修行の面に、つまり内面的精神的にと、求道者ではない
といいながらも、求道者の面貌さえ感じて見ていたのだが、しだいに放浪の態に、その生ぐささにかたむけて見るようになってきた、ということなのである。

 山頭火は禅僧として托鉢の旅をつづけた。しかし、どこかの僧堂に属していないかぎりは、正規の托鉢者とはいえないから托鉢というかたちの物乞い(乞食といってもよい)をしながらの旅というしかない。それでも山頭火には乞食になりきれない、修行への心意が十分にはたらいていたので、そこで行乞といういい方がでてきたのである。「行」(修行)と「乞」(乞食)の接点を、修行を本旨とするように自分を裁き励ましながら歩く。
行乞禅などという言葉を書きとめたりしたのもそのためなのだ。

 にもかかわらず、野性的で酒好きで神経過敏な山頭火は自己規制がきかなくなって、「乞」の面にかたむきがちだった。
しかし「行」に戻ろうとしてあがく。その状態が放浪の態を現出して、行乞はそのまま放浪の態となりとめどなく歩き、とめどなく酒を飲むことにもなる。行乞放浪であり、もっと放浪の態を強調すれば放浪行乞である。

 私はそうした見方を基本にもっている。しかし、その状態のなかで、毎日毎日あれこれ書きつけて、後悔反省を繰り返し、自分を責め、自戒の言やらなにやらを述べたてている山頭日の日録を読んでいると、その内面の振幅と屈折を見過しにはできないと思ってしまい、「乞」よりも「行」の面にかたむけて受けとろうとしてきたのである。

 そのことが十三年の歳月のなかで変りはじめている。「乞」にかたむくがゆえに放浪の態の荒く大きい山頭火の、その「乞」の有り態を見とどけようとして、それを「行」にかたむけて受けとることを控えるようになっている。それはそのまま放浪の態を生ま生ましく、冷酷に見てやろうということでもあった。この本はその見方に立って書いているつもりである。

 可成屋主人金成博明氏に尻を叩かれながら書き終った秋の一日、ある会合で国文学者井本農一氏に偶然お目にかかった。氏は、山頭火の中学時代の学友で、作家であり俳人でもある故青木健作氏の御子息である。私は、こんな時期に偶然お目にかかれたことに縁を感じ、ツキまで感じたのだが、私が、お父さんの山頭火追憶の文章をお借りしました、と話すと氏は懐しげに頷いて、「私も、父のところに訪ねてきた山頭火に会ったことがあるんですよ」という。「体の大きい人でした。声も大きいが」――私は、「体の大きい人」と聞いた途端に野性的な行乞放浪の男の姿を思い浮べてしまったのである。
 この本ができたのは、集英社の新福正武氏と可成屋主人のおかげである。あらためて感謝申し上げる。
                       昭和六十二年(1987)  秋  金子兜太

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