2015年4月12日

『酒止めようかどの本能で遊ぼうか』金子兜太


『酒止めようかどの本能で遊ぼうか』中経出版 [2007年10月]1500E

第1章 戦争体験・私の戦争体験と俳句 ほか
第2章 私を育てた郷土・肉親・母体/秩父の男気/金子伊昔紅のこと/
医者っぽ   俳句を楽しむ父/雁坂越え/春雷ほか
第3章 自画像・蛙と柿と雪/荒凡夫/五七調定型ひとすじ/俳句と人生/
俳句を作り始めた頃ほか
第4章 師・先輩・友人たち・師・加藤楸邨を語る/白虹と連作と 
横山白虹のこと/石田波郷その系譜 ほか


あとがきより
 「荒凡夫」とは、江戸期も終りごろの文化文政の時期に活躍した俳諧師小林一茶が、六十歳の正月、句文集に書きつけたことばだが、私はこれを多としている。一茶は、これからは荒凡夫として生きたい、と書いているが、胸の中では、阿弥陀如来様、荒凡夫として生かさせて下さい、という気持だったとおもう。一茶は浄土真宗の門徒で晩年とともに
如来信仰を深めていた。

 理由についても書いていた。自分は煩悩具足・五欲兼備の「愚」のかたまりで、どうにもならない。それに歳も歳だし、中風(広辞苑から抄記すれば、半身不随などの病気で、一般には脳出血後に残る麻痺状態)も直ったばかり、これからは「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」で過ごしたいのです。愚の上に愚を積み重ねることになりますがお許しください。

 したがって、「荒凡夫」の「凡夫」は普通の人間。「荒」は、〈荒っぽい〉〈粗野粗雑〉くらいのことだったのだとおもう。しかし私は「荒」を〈自由な〉と受取る。粗野の 気持ちもあってよいが、もっとさっぱりと自由と受取り、〈自由で平凡な人間〉としたい。

 「愚」のままに自由に生きる、と言うことになるが、「愚」すなわち本能のままに、と言いかえておきたい。それでよいのか、と私はもっともらしく自問して、それは自他に害をおよぼさない本能の自由でありたい、そのための自ずからなる自己抑制あっ てこそ、とおもい定めるに到っている。そして、一茶の句文から、アニミズムと言え る心性を承知して、自己納得している。

  ところで、「荒凡夫」の語に出会ったのは一茶に関心をふかめるようになった四十 歳代だったが、そのときは立ち止まらなかった。立ち止まり、これはと頷いたのは六十代のはじめで、痛風、腰痛、歯槽膿漏などなどと、連続パンチをくらって、それ までの自分の躯への自信がかなりにぐらついたときだった。

 しかし殊勝にも、痛風を根絶し体調を復元させるために、日常の食餌療法を。とそこで思い立った。お医者には頼るまい。そして、まず禁酒、肉食中止を、と考えたのだ、どうも自信が持てなかったのである。戒律を自分に科するやり方は成功しないのではないか、とおもったとき、四十九歳でタバコを止めたことをおもい出していた。

あのとき意外と言えるほどに順調にいったのは、禁煙を戒律として身に科さなかったからだ。いつでも喫えると気軽に構えて、その代り、タバコは買わない、持たない と決めた。喫いたくなったら世界最高級のものを買う。それ以外は人から貰う。じっさいにも人からは随分貰ったが、われながら浅ましくなって、次第にタバコから遠退いてしまった。
 
 緩褌(ゆるほん)方式がよい。「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」とつくる。時間はかかったが、 禁酒禁肉を戒律化しないことで成功したのである。いまでは夕食時、グラス半分くらいの赤ワインを栄養剤として楽しみ、外に出てのパーティーでは、コップ一杯の焼酎湯割り梅千一個入りで満足している。止めることによる味気なさがまったくないから、このやり方の永続性が保障されているのである。

 その体験以来、「荒凡夫」こそいまの自分にとって望ましい生の有りようとおもい定めてしまって、現在に到っている次第。生きること。つまり生(いのち)にとって 本能は不離。これあることによって生(いのち)は生き生きしている、とおもうこと頻りなのである。

 それまでもそうだったが、いまではますます、万事に生(なま)な有りようを大事にしている。私の惹かれるものは、肉体、生理、野生、土、土俗、そして産土等等。言語学者が言っていた「ことば」があって「もの」が実在している、というふうな考え方に肯きながらも、しかし結局は「もの」が基本で、「もの」できっちりと支えられていない「ことば」は衰弱してしまうと自分勝手に確信して止まないのは、そのためだとおもう。「ことば」を支える「もの」の充足した具体感、その生生しさをおもう。

 そして生きものどうしの生きた付合い、ということに惹かれる。本能のままに生きるものどうしの〈和した付合い〉ということ。一茶の句文を読んでいると、得も言えぬ〈生きもの感覚〉を感じ、嫌なものは嫌とし、好きなものは好きとする、生き生きとした〈和した付合い〉に惹かれる。
〈生きもの感覚〉を生(いのち)の触れ合う感性の韻きと言いかえてもよい。ここにアニミズムということを感じると言ってよい。

 〈生きもの感覚〉の豊かさがあって、「愚の上に愚を重ねる」自由な生きざまが佳しこんな「荒凡夫」への願望にとって、「自画像」などと言うものは野暮におもえる。どうでもいいことなのだが、熱心に私の講演記録や雑文を組立ててくれた中経出版・吉田幸生氏の御気持に和することが大事、とおもい定めている次第。
      
            平成十九年八月       金子兜太


0 件のコメント:

コメントを投稿