2017年2月23日

『熊猫荘点景』金子兜太


『熊猫荘点景』 冬樹社 [1981年6月] 1800円
俳諧精神でつかまえた世態と人情、現代俳句の地平を新しく拓き続ける、著者が、事物や人間たちの<縁>の糸をたぐりよせ、在ること生きることの厳粛と滑稽を、俳諧の心で見事活写する

エッセーの中の一篇からアップします。

楸邨俳句の「人間」から
 私は楸邨氏を人間および句の師とかんがえ、草田男氏を句の師とかんがえている。私が俳句をよきものとおもいこんだとき、それを裏付けてくれたのは、楸邨、草田男、それと、竹下しづの女の俳句だったが、そのあとで所属し、しばらく選句もしてもらった島田
青峰氏のことも忘れがたい。

しかし、青峰氏の場合は。人や句の魅力ではなく、好戦権力の黒い手の犠牲者としての忘れがたさだった。また、その時期、尾崎放哉氏の句にもひかれていたが、これも句そのものの魅力ではなく、句をつうじて知られる放哉氏の生きざまへの関心が中心だった。

「漂泊」ということが、いつも念頭にあり、自分でも、句をつくりはじめたとき、「白梅や老子無心の旅に住む」という句をつくったりした。しかし、戦後になって、やはり「漂泊」をおもうとき、放哉より、放哉と同門の放浪者・山頭火の脂っこさ、いやらしさのほうに私の関心はひかれていた。放哉では透明すぎる気持だった。

 とにかく、楸邨氏は句とともに人間の師であって、双方揃った師は、俳句の世界広しといえども楸邨氏をおいてほかにはいない。

句だけでいえば、草田男氏のほうに、よりいっそうの親近感をもつ。句の肌合いの近さを感じるが、その理由の一つに、草田男俳句のもつ程よい欧風感覚があるようにおもう。霖に目男氏が『ツアラツストラ』を読み、ヘルダーリソを愛好したことはよく知られていることで、青年期のドイツ文学からの影響を、その後、『ホトトギス』に属して句作するな
かで消化してゆくわけだが、和魂洋才とはいえないにしても、和風基本の和洋融合が私の肌に合ったのである。こんなことは俳句だからことごとしくいえることのようにおもうが、しかし、これは明治以降の日本文化全体にとっても問題になることではないかとおもったりもする。

とにかく、とくに俳句にとっては、この欧風感覚というやつは問題児である。現代俳句の評価が、この感覚の濃度、あるいは評価者の好悪によって決められている場合が多いのにあきれるほどなのである。口ではもっともらしい俳論を並べていても。

 それはともかく、人間となると、私は楸邨氏に親近感をおぼえる。学ぶべきものを見る、といってもよい。比較していうのは失礼かもしれないが草田男氏は内向的で〈内向感覚〉の確かさがある。氏の句について思想性が語られるのも、もとはといえば、この感覚の鋭さ確かさのゆえである。

したがって作品も、表面は荒荒しいものがあっても、内は静止的で、ときには教養人のくさみを伴うこともある。氏がかつて、「趣味とデ″レッタンティズムの時代は過ぎた。」

これからは「野獣の生きるべき時代」だというフィリップのことばを引用していたのも、自己省察のなかでの自己励起の作業だったのかもしれない。

 楸邨氏は、草田男氏にくらべると外向性がつよく、外に対する反応に振幅が大きい。私はここれを〈鋭い神経〉という。神経というと、すぐ神経質とかセンサイな神経とか受けとる人が多いが、そんな通俗的なミミッチイ内容で、このことばを使っているのではない。〈精神の触角〉といってもよかろう。広い意味での〈現実〉、これに対する対応をためらわない、そして反応の鋭く大をい(動的な)精神的資質を、私はこのことばであらわしたいのである。内向感覚と鋭い神経を、竕照させておきたい。

 精神の触角の鋭い人は、したがって、内部への撥ねかえりも激しい。「求心過度の脳溢血」西東三鬼にからかわれたのも、楸邨氏が「求心的傾向」ということをしきりにいったためで、このほかにも、「真実感合」とか、「孤独の目」「孤独の相」とかいったことばを好んで使っていた。

これは、鋭い神経による内部省察の揺れ幅の大きさを示すことばなのである。げに、楸邨氏は、〈現実〉に対して真面目であり、ひたすらである。一本気といってもよかろう。

 私は楸邨氏のそこに親しみをもつ。秋山牧車氏あたりから楸邨氏は人づきあいに如才ない反面、ここというときはなかなかきかない、とよく聞かされたものだが、現代俳句協会から俳人協会が分裂したとき(昭和三十六一九六一年)に楸邨氏がとった態度など、その一つのあらわれのおもったものだ。

周知のように、氏は俳人協会への誘いをことわって、現代俳句協会にとどまったのである。私の日記のその年十一月十九日のところには、その前夜、病気入院中の楸邨氏を訪
れた記録がある。寒雷二百号記念大会の前夜祭にも当っていて、その大会に出席できない氏を私たちは見舞ったのだった。
「元気だが、息切れ大。俳人協会ができたことを聞かせられる」とある。

そして、「寒雷大が多数所属している協会を自分だけ抜けるわけにはいかない」とハッキリいっておられた。私はそのキッパリした態度に感心したのである。

現俳協には寒雷大が多数いる。しかし、俳人協には楸邨氏と同世代の、戦前からの付き合いのある有力俳人がこれまた数多いのだ。俳壇的利害をかんがえて選べば俳人協会という
ことになるはずである。そこをはっきり拒絶したところに、私は楸邨氏の一本気を感じたのである。

 そのこと、『俳句』昭和五十二年五月号の座談会で、川崎展宏氏がこういっていたことに、私は疑問をおぼえたものだ。

「楸邨先生は人間探求派ということになっちゃって、真面目一方のように世間で言われているけれども、ほんとうは実にひょうきんなところのある大で、話の最中に人の表情の真似なんかやって、それがまた実におもしろい。」

 楸邨氏の真面目と「ひょうきんなところ」を別別にわけて氏に両面があるようにいう川崎展宏氏の浅はかさよ、と私はいいたい。真面目だからひょうきんになるのだ。〈鋭い神経〉のゆえに反応の振幅が大きく、自分を擬装したり、外への適応をはかったりもする。自分への鋭さがやりきれなくて、それをほごし、ゆるめようとして、おどけてみせたりもする。真面目とひょうきんは同じことの両面である。

だから私は、真面目なものがいちばん諧謔につうじている、とおもっている。真面目で一本気な俳諧師こそ最高の俳諧師なりと。そのあと展宏氏は、「どうも俳人というのはどこか、すっんきょうなところがあったり、どこか抜けているところがなきや、基本的な資格はないんじゃないかと思って。

頭がよくてきちんとしている人はだめなんじゃないか」などとシタリ顔で喋っているが、「すっとんきょう」や「どこか抜けている」ことも、「真面目」を根としているときに本当のおかしさを示すので、それなしの「すっとんきょう」も「どこか抜けている」も、見てくれにすぎない。ゼスチュアーにすぎない。楸邨氏がかつて私に、「風狂というのは危い」といったことを思いだすが、氏は、それらしく見せているおひやらかしの風狂の、まったく非風狂であることを見ていたのである。

展宏的発言が現俳壇に多く、「真面目」や「頭がよくてきちんとしている人」(これと「真面目」を同一視することもまた危いのだが)の俳句は、かたくて、骨っぽくて、俳諧味がない、遊びのよさがないなどという浅薄な意見もこれまた多い。そしていかにも「ひょうきんぶったり」「抜けて」見せたりしている。おとなぶって、馴れ合い俳句をつくっている。だから俳句が気取ってばかりいて、いっこうに魅力がないのだ。
 
 紙数が足らなくなってしまったが、私は以上のような楸邨氏の人間に親しみをもち、そのひたすらなものの示す、真面目な意欲に敬意を表している。おそらく、氏は、人間というものをどんなにくだらない。

頼るに足らないものだとおもっても(現におもっていることだろう)それを捨てることをしない人だとおもう。捨てないで、その愚かしさを憎み、かなしむ人であり、いささかの美質でも見のがすまいとする人であろう。だから文学がある。

だから〈人間の俳句〉がある、と私はおもう。バカバカしいことである。ふざけてしまえばよいのである。しかしそれをやらな い(やれないのではない)ところに、楸邨氏のよさがある、といってもよい。

 私はこの楸邨氏の人間と、この真面目さがつくりだす句にひかれてきた。そして、それらの〈叙情〉のなまなましさに愛着している。

私たちが『海程』を創刊したのは、先ほど書いた現俳協分裂の直後だったが、楸邨氏から激励の文をいただき、その後も励ましをいただいている。氏は、私たちが、自分の求めるままに、その意味で意欲的につくりつづけることを、喜んでおられるのだ。
                           (初出・寒雷 1978.3)

 

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