2017年2月20日

「むしかりの花」金子皆子


1988年4月刊 卯辰山文庫

新緑、そしてむしかりの花  金子兜太

 金子皆子の句作は、昭和二十三年(一九四八)の、

  新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)

にはじまると見てよいから、句歴四十年ということになる。この前年に私たちは結婚し、翌年生れた長男が真土(まつち)。私が昼寝をしているあいたに、私の父と皆子で相談して決めてしまった名前で、この名のせいか考古学を勉強して、唯今は四十歳寸前とは相成る。秋田から美人の嫁さんをむかえて、二人の男の子を育てている。そして、私たち夫婦と同居している。

 この句はそのときのものだが、それにしても「胎児育ててむわれ尊」とは気負ったものである。胎児と書いて「あこ」と読ませなくても、「吾子」でよかったろうと思うのに、正直に、お腹にいるこの子。というところが微笑ましい。



「育ててむ」の「てむ」は、「しょう」「するに違いない」「することができるだろう」の三様の解があるが、いずれにせよ、意志、確実、可能性をあらわしている。そして、その「われ尊」し、とくるのだから、気負っていたのだ。いや、こんなふうに句に書いて自分を励ましていたのである。私の句に、「独楽廻る青葉の地上妻は産みに」があり、「河口に浪しろじろと寄り吾子も夏へ」がある。私もすこし気負っていたらしい。

 金子皆子の句作はこの時期にはじまるが、継続してつくるようになったのは、私たち夫婦で〈神戸時代〉と呼んでいる、昭和三十年(一九五五)前後である。

そのとき、北陸の金沢にいた沢木欣一が俳誌「風」を創刊していて、私もそれに参加していた。その沢木夫妻が神戸の私たちのところに出現することもあって、そのことが皆子の作句意欲を刺激したようである。「風」は月刊誌だから、投稿をはじめると毎月つくらないわけにはゆかない。

 しかし、それ以上に皆子の作句への意欲を剌激したのは、生活環境の不快だった。住んでいたのは、私が勤めていた銀行の家族寮で、十数組がいた。物の乏しいころだし、毎日ざらざらしていた。それに加えて、私の勤め先における立場が複雑だったので、ほかの家族の目配りが違う。心情の海にひろがる干潟を潤そうとして、皆子は俳句をつくっていた。当時、「俳句は日常の安全弁という言い方がよくいわれていたが、それだったといってもよい。

 それだけに作品に熱がこもっていた。昭和三十一年(一九五六)秋。「風」賞を受賞して、九谷焼の花瓶をいただいたのだが、準賞が、尾道の新鋭小田保だったことも。いま思い出すとなつかしい。そのすこし前のときの作品に、こんな句があった。

   綿虫や皿割りしこと母もあり
   少女のごと風邪ひき易し野ばらの日日
   夜濯ぎ後甘みかみおりパンート切れ

 皆子の母・さわのは、昭和二十七年(一九五二)、皆子二十七歳のとき他界した。そのとき、私たちは東北の福島市に住んでいたのだが、私に、「雪山の向こうの夜火事母なき妻」という句がある。若くして母を失った女性の心情を十分に解する術もなかったのだが、神戸に移ってからのある日、「人間は土から生れて土に還る。

 母も生れた土に還っていったのです。自分もまたいつの日か  土に還る。そう思えば、土を通じていつも母とつながっているこころもちになれます」と皆子が話していたことがあって、私も共感したことがあった。若い女性にしては早熟の思想だったかもしれないが、以来、この人の思考の根底には確かな内容で〈土〉がある。現に。いま住んでいる北武蔵の熊谷の地を二十年前に選んだときも、私が都内のマンションでもよいといったのに対して、じつにはっきりと反対の意思を述べ、あなた自身が〈土〉の上に立った暮しをしなければ駄目になりますよ、と言い切ったものだった。

いまにして思えば、その言や佳し。だったのである。私もまた、いまは〈土〉によって励まされている。神戸から長崎、そして東京と移って、この熊谷に土地と家を得てから間もなく、皆子は、私たち俳句仲間で出している俳誌「海程」の賞(海程賞)を受けた。そのときと、それ以後の作品のなかから七句を。

  がらすアワアワ私が溺れるという春
  青衣の月とありわが水の林
  アカシア白花昂揚の日の来し方
  妹の雨夜みずすましになろうか
  鶫と共に春までの野を立ちて坐りて
  春鳥きて鳴けり衰弱も花のよう
  雑木山ひとつてのひらの天邪鬼

 心情の成熟とともに韻律にやわらかみ、ふくらみが加わり、独特の叙情を繰りひろげているのだが、その根底には〈土〉の温みが十分に体感されているのである。息子にお嫁さんをむかえれば、

  鮮しき枸杞を酒中に知佳子の雪

と、土の香りの句をつくって喜ぶ。熊谷に移ってからずうっと同居していて、人間の年齢にすれば、すでに百歳をこすにちがいない黒猫がいる。

   夏星よ黒猫百歳の耳立て

とつくるのである。黒猫は地面にびっくりかえって土にくるまっている。また、ヤーウィの本を秩父の山畑に植えたのも。この木を教えてくれた人が天然栽培£もとめる営農家だったからだ。この句集の題に選んだ「むしかりの花」は、

   むしかりの白花白花オルゴール

による。いや、むしかりの木が好きだから、この句ができたのべといったほうがよい。むしかりの木は、ことに北陸から北日本にわたっては人家に近い低い山や丘に生えていて、身近な木のせいか、イヌノクソマキ、ネコクサギなどと語感はよくないが、どこかに親しみのある方言名がつけられている。その枝はねじって薪を束ねるのに用いられ。輪かんじきの材料ともなる。若葉は食べられるし、カモシカは芽を好んで食べ、冬はこの木のあるところにいく日でも止っているという。そして、夏がくると、「清流に洗われ、雪にみがかれたような白い花」を咲かせる、と写真家の木原浩は書いていた。(『朝日百科・世界
の植物』による)

 この素朴な、そして清楚な、白い花のオルゴールが奏でる音色に。金子皆子は耳をかたむけているのである。


  あとがき   
 句集『むしかりの花』一冊をつくりますことで、過ぎてきた四十余年の日々をあら
ためて思いおこし、なつかしさひとしおと思いました。

 敗戦直後の物のなにも無い時に、親たちの骨折りで家庭を持ちましたが、全く世間知らずの二人でしたから、思えば赤面するようなことばかりの日常でした。ただ、それぞれの生真面目さで真剣に暮してきたことだけは、共によく話し合うことの一つです。それは、精神の新鮮さと言い得るような不思議な連帯感を育て得たようにも思います。

 主人の先輩の方弋お仲間の方、周囲の方々のお世話になりながら、曲りなりにも、無事な歳月がおくれ、現在、健康にも恵まれてこの句集を上梓することの出来ますことを心より感謝しております。

 これは偶然の巡り合せ、とも思いますが、母三十七歳の折に私はこの世に生をうけました。そして私の三十七歳の年に、俳誌「海程」の発足がありました。

 主人が長崎から東京へ赴任のとき、当時小学校六年生の息子のためにその旅程を組  み、空と海と、当時最新の東海道線を乗りついたものでしたが、その旅中につくりました主人の俳句作品群につけられました題名が「海程」でした。その題名を、発足する俳誌の名にいたしましたことも、濃い思い出の一つです。

 私も、いつのまに六十歳の還暦を過ぎまして、数え年六十四歳で亡くなりました母の年齢になってしまいましたが。奇しくもその歳にこの句集をまとめることになりました。

今、父母が在りましたら人並みに欣んで、安堵の便りを向けてくれたことだろうと思います。幸に、一緒に暮している息子の家族たち、一匹の黒猫、新たに加わった仔犬にもかこまれて、この言葉少ない型式を杖に、二人共にこの後も健康で暮してゆくことを、この上なく願っております昨今でございます。

 『むしかりの花』には。長い御交際をいただいております画家中神潔先生のお作の中から、私の好きな絵三点を入れさせていただきました。また、句稿をまとめるにあたり。武田伸一様の一方ならぬお骨折りがございました。出版に際しましては卯辰山文庫の塚崎良雄様にもたぴたび熊谷までお運びいただき、おかげさまでよい旬集にしていただけました。共に、心からお礼を申し上げ。あとがきといたします。

  昭和六十三年一月十四日大安の日に      金子皆子

0 件のコメント:

コメントを投稿