2017年2月22日

「わが戦後俳句史」金子兜太


1985年2月刊 岩波新書   842円
目  次



序章 トラック島にて――八月十五日の朝焼け・楸邨と草田男と・船酔い」
のあと
一章 最初の冬――帰還・秩父にて・堀徹のこと・焼け跡の街へ・原子公
平のこと・欅のある家・草田男の「手紙」・秩父谷の俳人たち・句会の
雰囲気
二章 三年間(1)――復職・二月一日の日本銀行・分裂のとき・小さな
クーデター・  浦和への来訪者
三章 三年間(2)――私小説と俳句・歌俳への風当り・俳壇的人間存在・
俳句のリアリズム・詩と詩でないものの間・転機への予感・レッドー
パージ
四章 三都十年――福島にて・前衛の息吹――神戸にて(一)・俳句と
社会性――神戸にて(二)朝ははじまる――神戸にて(三)・長崎にて・
東京へ
あとがき・略年譜・引用自句索引
 
    
あとがき

 私は大正八(一九一九)年生れですが妙なことに、専門乃至準専門の俳人には私と同年の者が多いのです。そこで、〈花の大八〉とか、すこし気どって、〈華の正八〉などと呼んでよく話題にしています。

 どういうわけか、と訊ねられてもはっきりしません。〈大八〉どうしで話し合ってみても、「偶然だよ」でおしまいです。私は、一九一九年は「一句一句」だから、生れたときから句づくりを運命付けられているのだ、と得意になって喋るのですが、どうも説得力がありません。〈大八〉のある者は、十五年戦争の時期が自分たちの少青年期に当っていて、俳句で毎日をながしていた連中が多かった。

それが習い性となって、その後もつづいているのさ、といいます。それにしても、敗戦直後の、外部からの精力的な歌俳批判(というよりは非難)を体験しながらも、結局俳句から離れられないできているのだから、この最短定型と〈花の大八〉とのあいだには、予断を許さぬ相性のふかさがあるのかもしれないのです。

私たちの体が五七調最短定型と合っている。そして、そんな合い方をしているのは、大正八年生れあたりでお終いなのかもしれない。

 この戦後俳句史を書きながら、私はそのことをときどき念頭に浮べていました。とにかく、呆れるほどに私は俳句から離れられなかったし、いまでも離れられない。いや、それどころか、こうして俳句をふりかざしてものをいっているではないか。戦後は自分の生き方を探るに急で、俳句を完全に従の立場においていたにもかかわらず――俳句から離れようとし、見向きもしない時期さえあったのに――やはり、自分の生きざまを書けば書くほど俳句がいつも身近にいるのです。それどころか、俳句を抜きにしては、自分の文章は骨皮筋ェ門になってしまう、血肉を失ってしまうのかもしれない、とまでおもってしまうのです。

 これはどうしても「わが戦後俳句史」であって、自分と俳句のそうした悪縁とも、良縁ともつかぬ不可分離状態をさらけだすしかあるまい、とおもい定めるにいたって、しかし、そんな戦後俳句史の一冊ぐらいあってもよかろう、とおもうようにもなりました。

俳句史といえば、俳句そのものに執して書くのが本来でしょうが自分の生き方を第一としながらも俳句から離れられなかった者の俳句史もあり得る、とおもったのです。それどころか、俳句という言語形式のもともとのあり方は、そういうものであり、その意味で、俳句の日常性や記録性が大事とされているのだともおもいました。しだいに、自分の戦後俳句史を恥しがらなくなっていたのです。

  とはいえ、書き終って、こころ残りが多いことも事実です。第一に、俳句とともに離れがたく私の日常に出没していたおおぜいの人たちのことを、ずいぶん書き残してしまったというおもいが消えません。戦時中の仲間のことも随分洩らしてしまった。銀行勤めをしていた頃の、ことに従業員組合でいっしょに行動し、議論していた〈熱い、頼もしい連中〉のことも。いつの日か、〈俳句往来〉〈悪童往来〉のようなものを書いて、書き残しを埋めたいとおもっています。

また、昭和三十五(一九六〇)年で終りにしてしまったことも残念なのです。六〇年安保問題のあとの文化状況、それの俳句の世界での現われ方がどんなふうであったか。そしてそれが、いわゆる「俳句前衛」の動向にどういう反作用をおよぼしたか、といったことは、ぜひ書いてみたい――むろん、自分のこととして――ところなのですが、できませんでした。理由は一にかかって自分の準備不足にあります。ただ、このあたりの一端については私の所属する現代俳句協会が、いますすめている『協会史』のなかで、これは客観的に詳細に記述するはずですから、関心のある向きはそれを読んでいただきたい。

 それはともかく、この文章は自分の来し方を見直しておきたいと念じ、それが現代俳句に関心のある向きに。は、すこしは役立つだろうとおもって姶めたもので、俳句仲間と出している俳誌『海程』に連載していたのですが、ごたぶんに洩れず途切れがちで、いつになったら終るのか分らない状態でした。

それをこのように、しかも比較的短期間にまとめることができたのは一にかかって、桜井英一と編集部の伊藤修両君の叱咤激励のおがげです。また、中神潔がカットを画いてくれました。カットの温く太い線、これがじつに嬉しい。ここにあらためて、お世話になった各位に深謝申し上げたい。
   一九八五年、紅葉の秩父にて
                 

2017.2.23金子兜太のデーターが未整理のため見直しています。管理人

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