2015年2月26日

『熊猫荘俳話』金子兜太


『熊猫荘俳話』 飯塚書店  [1987年12月] 2000円
帯より
とにかく現代俳句は難しいと言われる。誰にも分かる俳句目指して・五七五を基本に季語の能動的活用具体性と生活感を大切にする現代俳句創造の示す対談集。

 昭和六十一年(一九八六)の春、柴田和江、堀之内長一を相手に俳句についてのお喋りをした。司会は桜井英一。そのあと、題を「古き良きものに現代を生かす」として、私たちの俳句雑誌『海程』に掲載した。これが、この「熊猫荘俳話」のはじまりである。

 わりあいに好評だったので、第二回も在関東の俳句仲間(連衆といいたい)、塩野谷仁、木田柊三郎とやった。司会は、このときも桜井英一にお願いしたのだが、この人が司会をしてくれると、私はなんだか喋りやすいのである。たぶん、私が話したいと思うことのツボを承知していて、それをホイホイと提示してくれるからだろう。そのうえ、談話稿の整理もやって下さる。余分はきれいに切り捨て、必要なことで不足している発言は、電話で私に確かめつつ、きっちりと補って下さる。第七回の名古屋の仲間たちとの座談を除いてあとの全部を桜井司会でやったのはそのためなのである。 

 第三回は大阪に乗り込み、在阪神の連衆、兼近久子、柴田孝之、内藤豊、中北綾子、廣 嶋美恵子と大いに喋り合った。阪神の連衆は、ここ二、三年、私が「古き良きもの」を大事とし、これを十分に活用しながら現在唯今の自己表現をはたしてゆきたい。という「古き良きものに現在を生かす」の考え方をすこし誤解していたらしい。

昭和三、四十年代、私を含めて「俳句前衛」といわれた人たちの作句姿勢は、ひたすら現在唯今に執しての自己表現にあり’と思い定めて、その姿勢を良しとしていたかれらは、古き良きもの」何するものぞ、と初めから相手にしていなかったのである。強いて、古き良きもの」というのなら、それは五七調最短定型(五・七・五字音を基本とする形式)で十分ではないか。前衛といわれた時期でも。その形式だけは守っていた。いまも変わりはない。それでよいではないか、と。

 したがって、私が「古き良きもの」の筆頭に五七調最短定型を置くことには異存はなく、その定型を更にいっそう大事にしてゆこうという私の言い分にも疑念はなかった。疑念は、定型尊重に付け加えて、「俳諧」の名でいわれてきた伝承資産を大切にし、大いに活用しよう、と私がいいはじめたときに湧いたのである。

 その「俳諧」の内容を、私は、挨拶。諧謔(滑稽を含む)、即興、機知、笑い、語呂合わせ、もじり(和歌でいう「本歌取り」)などなどの<伝達工夫の態>ととらえているのだが、この内容を、中世の「俳諧の連歌」、そのあとの貞門、談林の作風から承知したのである。阪神の連衆は。このなかのあらかたを活用することには異存はなかった。

かれらは関東の連衆以上に、諧謔や機知を好んでいたからである。かれらがこだわったのは、挨拶のための軸として約束された季題にあった。これがそれこそ虚子以来、俳句の必須条件のようにいわれていることへの反撥が土台にあるわけだが、何故いまになって、季題を見直そう、活用しよう、といわなければならないのか、ということだった。

 その疑問は、季題を活用しよう、と私が積極的にいうようになってから。仲間たちの俳句作品が緩んできたという受けとりかたに端的にあらわれていた。つまり、季題が持つ既存の美意識への依存、季節感への甘え(これによる現実感の緩み)が目立つようになって、現在唯今の自己表現の鋭さも厳しさも厚みも薄らいでしまった、とかれらはいう。

たしかに難解な句は少なくなったが、その分つまらなくなった。先行するものは難解なはずだ。それをあなたは凡庸化しようとしている、とかれらはいう。
 
 この八回にわたる談話全体が、私が仲間の最近作から選んだ秀句を材料としている。会話は勢いこの句はどうだ、面白いぞ、いやつまらない、という応酬からはじまることが多いのだが、第三回目のときは殊にそれが際立ったように記憶するのは、阪神連衆の懐疑のふかさ故だったと思う。

「土くささ」とか、「喩」の本当の新しさとはどんなことなのか、と私が喋ったことのなかには、あまりにも現在唯今に拘泥するために、言葉が性急になり、伝達を軽く考えて一人よがりとなって。悪しきモダユズムに墜ちる危険を感じたからである。そのために。季語(私は季題すなわち季語と解している)のような成熟した言葉を十分に承知する必要が
ある、それを言葉の模範として受け入れたい、と私は強調した。

勝手未熟な喩の危険、土くささを失ってゆくときの心情と言葉の頽廃-そうしたことまでも私はそのときいいやだものだった。

 その問題意識は、第四回の尾道での談話にも持ち込まれて。小田保、平田直樹、八木和子に向って感覚を強調して止まなかった。意味ばかりもとめすぎはしないか。先ず感覚から出発しないと徒らに難解になるばかりなり、と。小田はしだいに酒に酔い、八木の発言はその代りにといいたいくらいにしだいに冴えていったのが。いま思い出すと楽しい。

 第五回目は、桜井英一といっしょに秋田にゆき、秋田の連衆、加賀谷洋、斎藤白砂、三戸広人、館岡誠二、村井由武とおこなった。ここにきて、季語をまともに語り合い、俳句にとって具象がいかに有効かが談論された。中秋の頃で稲田が真ッ黄いだった。

 そして。その帰路、仙台に一泊し。宮城の連衆と談話しだのが、第六回目となる。相手は京武久美、高野ムツオ、中村孝史の三人、しかも傍聴者が十人ちかくいて、かれらのいることが談に弾みをつけてくれた。
連衆の一人京武久美は、その青春期、寺山修司だちと俳句同人誌を組んでいた男で、私たちは寺山・京武を好一対と見て、その作品を注目していたのである。その後、結婚と家業でしばらく俳句から離れていたのだが。ようやく復活した。私にはそのことがじつに嬉しかった。

 第七回は名古屋の連衆、大口元通、奥山甲子男、北川邦陽、丹羽ヨシ子、堀保子と。司 会を森下草城子がやってくれて、ここでも、北川をはじめ談論風発だった。

 最後が越前の連衆との俳話で、私と桜井は初秋の鯖江に出向いた。話し相手は、越前の長老・大家青欸をはじめとする面面で、大沢輝一。斎藤一湖、平井久美子、吉田透思朗、山本仁太郎。そして、松田進、林とよ子、橋尾照子といったベテラン俳人たちが傍聴し。

見事に、一回から七回までの総まとめにふさわしい内容を得たのである。この第八回まで、始めてから一年有半を経ていた。

 以上が俳話八回成立の経緯である。私は現在唯今の俳句観のあらかたを語りつくしたつもりでいるので、あとは読者の受けとりかたにおまかせしたい。なお、別に。「入門篇・好作解説」の約一年分を加えた。
これによって理解を補ってもらえれば幸いである。 この本は。この俳話を良しとして纏めて下さった、飯塚書店主人の御好意によって上梓にいたった。こころから感謝申しあげたい。
         
              昭和六十二年(一九八七)晩秋

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