2017年1月7日

金子兜太俳句の歩みを辿る  安西 篤

 

 金子兜太は、96歳の現在もなお現役並みの俳句活動を続けており、今や俳壇のみならず、文化交流のメディアとしての役割を果たしうる時代の牽引者の位置にある片言っていい。兜太自身、自らのアイデンティティは俳句であると言うように、その生涯は俳句の歩みとともにあった。その歩みは五つの時期に分けることが出来る。

                                 
 第一期は、俳句開眼(昭和12年)より終戦後海軍軍人としてトラック島から帰還するまで(昭和21年)の時期。
兜太18歳より27歳までの期間に当たる。この時期の特色は、原郷としての秩父の風土と、戦争体験の中に花開いた抒情の原質であった。作品の上では、第一句集『少年』(昭和30)の前半の時代である。

 白梅や老子無心の旅に住む    (昭13)

 水尸高校時代の処女作であるが、すでにして老成の感がある。これには幼い頃からの俳句環境が下地にあった。父伊昔紅は馬酔木の同人で、秩父句会の指導者であったから、
句会の雰囲気には早くから接していたことが大きい。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子   (昭17)

 東大時代、秩父に帰省した時の作。秩父の山野を駆けずり回る悪童の姿に、自分自身を映し出す。兜太の原郷感覚の典型として代表句の一つに数えられている。

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ  (昭19)

 トラック島、米軍の空爆で黒焦げになった海軍基地の風景。野積みになった魚雷の丸胴に蜥蜴が這い廻っていたという、戦場の中の日常。

 水脈の果炎天の墓碑を置きて去る  (昭和21)

 一年半の捕虜生活の後、最後の復員船で帰国。船の水脈の果てに、戦友たちの墓碑を残して別れる。万感の思い。

 こうして兜太は、戦時から終戦にかけての極限状況の中で、死者への思いと生への執着を重ねて、人間性の高ぶりを充填してゆく。この戦争体験は、原体験として焼き付けられ、原郷意識とともに、兜太の叙情体質を開花させていった。「曼珠沙華」の句とともに「水脈の果て」の句は、兜太の原風景を代表する句といえよう。

 死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む   (昭和21)

 復員後の兜太は、非業の死者たちに促されて生き残った生を生きるからには、死後自分の形骸を残そうとするような未練がましい生き方はすまいと決意する。これが日銀復職後の組合活動への挺身につながることになる。戦後俳句の志向性を示す一句。

 第二期は、日銀に復職。結婚した後、組合運動の挫折を経て、福島・神戸・長崎の地方勤務10年、そして束京へ。
この間、戦後革新の波に乗って勃興した社会性俳句に、造型俳句という方法論を与えて、社会性俳句から前衛俳句と呼ばれた新しい時代を導いた。兜大28歳から41歳頃の時期に当たる。句集では、『少年』の後半から『金子兜太句集』(昭36)を経て、『蜿蜿』(昭43)の初期までの時代である。

 朝日煙る手中の蚕妻に示す   (昭和22)

 秩父長瀞の塩谷皆子と結婚。新婚第一夜を実家で過ごした朝、近所の桑畑を一緒に散歩したときの句。瑞々しい愛情のこもった旬で、兜太の抒情の原質が覗いている。

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 (昭和27)

 昭和25五年、レッドパージのあおりを受けて組合運動から退かされ、福島へ転勤を命ぜられる。当時、左遷されたことへの挫折感よりも、日銀を相手に闘ったという高揚感の方が憬かった。上句に据えた汽笛の音の力強い躍動感のある句。まっしぐらに新緑の中へ駆け込む汽車とともに。

 朝はじまる海へ突込む鷆の死   (昭31)

 句集『少年』によって現代俳句協会賞を受賞、俳句専念を決めたときの句。鴎が神戸港の海に突っ込んで餌を捕る景に、トラック島の海に零戦で突っ込んだ戦友たちの死を思い浮かべる。そま時「死んで生きる」とつぶやき「二度生きる」生を俳句でと臍を固める。爽やかに朝の始まりとその中に突如訪れる死に、再生への明るい輝きを感じている。

 銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく  (昭32)

 この句は発表当初、銀行員に対する批評意識で書かれたものとの評価が多かった。ところが兜太が造型俳句の創作過程を例示するものとして発表したことから、外なる現実と内なる現実を統合した言語映像として表現されたものという方法論的解釈をされるようになった。一句の図式的表現が、かえって理論的な説明には向いていたのだろう。

 彎曲し火傷し爆心地のマラソン   (昭33)

 上中で爆心地長崎の惨状を浮かび上がらせ、そこに現在のマラソンランナーの喘ぎながら走っていく映像を重ねる。それが時代を超えた歴史の傷跡として、「彎曲し火傷し」
という生ま生ましい現実感をあらわにしている。

 わが湖あり日蔭真暗な虎があり   (昭36)

 自分の意識の中の湖畔の日陰に、らんらんと眼だけを光らせた虎が寝そべっている。黒々と潜む虎を暗喩として、自分の中に御し難い思いを飼っている映像。やみがたい内
面欲求の表現である。外なる現実よりも内部現実に重く傾斜している作品。

 第三期は、「海程」創刊(昭37)から熊谷に定住し、朝日カルチャー俳句講座講師を担当、専業俳人に踏み切る頃(昭和50年代前半)まで。兜太としては定住漂泊から衆
の詩の時代への移行期であって、かつての社会性より存在性へと向かい、人間の有り態を見据えるようになる。この時期の前半、60年安保後の保守派の巻き返しに対抗して、

 「海程」を創刊。昭和42年に熊谷に転居、以降一茶・山頭火の研究を通じて俳句形式を見直し、定住漂泊への関心を深める。さらに「衆の詩」の時代を提唱、広く伝えるための工夫として、俳諧・韻律を強調し、50年代以降の俳句ブームを先導する。兜太自身まだ50歳代であった。

 この時期の句集は、『蜿蜿』(昭43)『暗緑地誌』(昭47)『早春展墓』(昭49)『金子兜太句集(『狡童』含む)』(昭50)『旅次抄録』(昭52)『遊牧集』(昭56)『猪羊集』(昭57)等句集がある。

 三日月がめそめそといる米の飯(昭40)   『蜿蜿』
 ここでは単に秩父という地域にとどまらず、日本の農村の基底を流れる精神風土に、「三日月」「米」という物の質感を感じている。

 谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな  (昭43)「暗緑地誌」

 大自然の根源にあるおおらかなエロスを生ま生ましく捉え、生命賛歌を誕いあげた代表句の一つである。

 骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ  (昭47)「早春展墓」

 北海道冬の旅吟。厳寒のすべてが透明になっていく時期、そこではすべてのものが骨になっていくと捉える。下五の 「骨だ」の断定が存在感の有態を伝える。

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている  (昭53)『遊牧集』

 早春の暁の光と影に、生命のうごめきを感でている。景としては超現実の世界だが、生ま生ましい実感に基づく虚の世界ともいえる、虚実皮膜の間の句。

 猪が来て空気を食べる春の峠  (昭55)『遊牧集』

春の峠に猪がやってきて、うまそうに空気を吸う仕草を「食べる」と捉え、猪に心を通わせる体感。まさにふたりごころの世界であり、アニミズムに通うものがある。

  第四期は、昭和50年代後半から平成元年頃まで。この時期、もはや前衛・保守という対立図式は翳をひそめ、新たな総合の時代に入る。それとともに兜太は俳壇の頂点へと登っていく。昭和58年、現代俳句協会会長に就任。60年、「海程」は主宰誌に踏み切る。そして62年、朝日俳壇選者に就任。

 この時期の兜太は60歳代で、エネルギーに満ちていた。「海程」25周年(昭62)では、「古き良きものに現代を生かす」というスローガンを打ち出し、現代における真
の伝統のあり方を示す。自らは俳壇の頂点に立ってより幅広い大衆の啓蒙に当る。実作の上では。、おのれの新しい言語空間を求めて、中国最古の詩集『詩経国風』に挑戦、自作にその言葉を活用し、日本の風土を基にした作品を反歌のように対応させる実験的句集を作った。それが第十句集『詩経国風』(昭60)である。しかもその翌年には、おのれの風土と生きものへの親しみを込めた句集『皆之』を出している。

 抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴 (昭59)
 夏の王駿馬三千頭と牝馬           (昭59)
 主知的に透明な石鯛の肉め        (昭59)

 最初の二句は、原典の詩篇の中の言葉をしゃぶって、それを機に「大きく潤沢な語感に飛躍させ」ようとするもの。
三句目は、これに対応して日本列島の風景から触発されるものを書いている。ことに「肉め」といううめきのような感動が生身の肉の実感を伝えている。

 牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ        (昭57)
 冬眠の蝮のほかは寝息なし        (昭61)
 夏の山国毋いてわれを与太という (昭60)

 『皆之』では、一転して生きものとの感応が全面に出て来る。牛蛙の鳴き声のリフレインが、どこか不気味でありながらユーモラスな存在感を言い当てている。蝮は秩父人に
とって特別の存在であり、冬眠していても、蝮の寝息だけは、ことのほか聞こえてんるようだという。

 「夏の山国」は、母84歳。兜太66歳の時の句。母の期待を裏切って俳句を業とするようになった自分を、母はいつも与太といった。そんな母に苦笑しながら頭をかいている兜太の、微笑ましい母子交流の姿がまざまざ。

 第五期は、平成年間の今日に至るまでということになるが、句集の上では『両神』(平成7)『東国抄』(平成13)『日常』(平成21)までなので、兜太80歳代をもって一応の区切りとすることもできる。90歳代に入っての活躍は、次の句集とともに第6期或いは兜太の現在とすべきかもしれない。差し当たり本稿では、既刊句集のある第5期まででまとめておきたい。

 第5期の兜太の、俳壇のリーダー、スポークスマンとしての輝きはますます大きく、俳壇の栄誉を一身に担うことになる。即ち、平成8年句集『両神』により日本詩歌文学館賞、翌9年NHK放送文化賞、13年現代俳句大賞、14年句集『東国抄』により蛇笏賞、15年日本芸術院賞、17年スエーデンチカダ賞、日本芸術院会員、20年文化功労者、同年正岡子規国際俳句大賞、21年熊谷市名誉市民、皆野町名誉町民、22年句集『日常』により毎日芸術賞特別賞等の栄誉に輝いた。

 またこの間、中国、ドイツ、イタリア等の俳句熱との交流を推進、国際的な俳句事業にも率先協力しているほか、NHKや伊藤園新俳句大賞等の俳句イベントを通して、ジュニア層の俳句活動にも選者として積極的に関っており、まさに八面六臂の活躍ぷりを見せた。これが70代から80代にかけての時期であるから、驚くほかはない。

 その一方で、最愛の妻皆子(平成18年81歳)、毋はる(平成16年104歳)を失う。また多くの盟友、知人を鬼籍に送らざるを得なかった。順風万帆ともみえる生涯に、いくつかの翳りを伴わざるを得なかったのである。

 この時期、俳諧で学んだ即興の味と年来の方法である造型の手法を駆使して、おのれの存在そのものを自然に表現するにいたる。つまり作句方法が肉体化されて、ほとんど
自覚的には意識されないまでの表現手法となっていた。造型は比喩、即興は生の直感なのであった。

 一方、俳壇のリーダーとしての位置にゆるぎはなく、俳句の国際的普及やジュニア層を中心とする「新俳句」の育成などにも大きな影響力を及ぼしている。

 句集『両神』では、一茶に学んだ荒凡夫の自然(じねん)なる生き方を体して、「天人合一(『礼記』より)なる言葉により、天(造化)と人を結ぶ「気」の働きに気づく。

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか (平成1)
 長生きの朧のなかの眼玉かな      (平成3)

 体力の衰えの自覚に伴い、酒を止めることにしたもののさてそうなるとどの本能で遊ぼうかなあと、赤裸々な人間像を打ち出す。「朧」を老いの象徴のおぼろ感として、「長
生き」と「眼玉」の両方にかけ、とはいえどっこいなんでも見てやろうとする意思もみせる。長寿の朧感をできるだけ楽しもうともしているのだ。

 『東国抄』では、「土をすべての存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である『産土』の時空を身心込めて受けとめようと努める」という。「天人合一」の気の働きを、より自然に、身近なものとして受け取ろうとするのだ。

 よく眠る夢の枯野が青むまで     (平成9)
 おおかみに螢が一つ付いていた(平成10)

 芭蕉の「旅に病んでゆめは枯野をかけめぐる」を踏まえて、芭蕉は死へ向かう境地だが、自分はよく眠って夢の枯野が青々と芽吹くまで生きてやろうという。「おおかみ」の
句では、幻の狼を秩父の日常に溶け込んでいるイメージとして捉え、遥かな祖先の呼び声に誘われるようなリアルないのちの通い合いを感している。闇の中に狼がうずくまり、
そこに蛍が一つぽつりといのちの灯をともすように現れる。この句は代表作の一句とされている。

 『日常』では、より自在に日常の生々しさをさらしつつ、兜太流のアニミズムを働かせて、生きもの感覚そのものを体現しようとしている。

 長寿の母うんこのようにわれを産みぬ     (平成14)
 今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか (平成20)

 104歳の天寿を全うした毋は六人の子を生み、その長男が兜太。うんこのようにひり出されたもんだとばかり、毋への親しみを身近に感じている。「ジュゴン」はある日ふと
その駘蕩としだけ巨躯に魅人られて作った連作7句の内の一句。今日まではジュゴンのようにおおらかに生きてきたが、明日は虎ふぐのように少し毒をもったものになっているかもしれない。それも面白い。生きもの感覚で生きる兜太の、生きもののメタモルフォーゼを造型してみせる。

 第5期は、第一期の造型より映像が簡明でその分人間臭が濃くなっている。しかも自然が生きもの感覚として体に入ってきて、造型の肉体化か進んでいるとも言える。

 終わりに、金子兜太の現在とこれからを展望しておこう。

 兜太は、80歳頃から始めた立禅で、精神の集中と体調の管理に努めている。瞑想の中で、亡くなった思い出の人百数十名の名を読み上げる。「すると彼らのくいのちの影〉
を感じる。彼らのいのちは死んではいない。また別の場所で生きている。』という。土に還っていく死者は、生きもの感覚を持つ兜太にとって親しい存在だ。アニミズムに満た
された他界は、土の手触りのように受け取れるのだろう。

 また、90歳に入ってから、語りおろしの著書を次々と出している。自分の生きざまを通して高齢化社会を生きる一つの典型を述べているのだが、これが多くの共感を呼んでいる。90歳になってこのようなブレークをする例はあまりない。兜太はすでに社会的栄誉を手にしてしまっているのだが、その余光で晩年を気楽に過ごしているわけではない。大震災や平和の俳句の推進力となり『アベ政治を許さこい』の書で、安保法案反対の全国的世論を喚起するなど、今なおその発言は大きな社会的影響力を発揮している。時代とともに歩む俳人なのだ。いや、新しい時代を導いているのかもしれない。

 このような現在から、これからの方向を見ておこう。 第一に、これまでの一貫した精神の成長の軌跡を辿ることは明らかで、変わらない資質と方法を踏まえつつ、つねにダイナミックな成長を目指すだろう。自ら「私はまだ過程にある」(東国抄あとがき)というように、自在な詠みぶりに人間の面白さを加えていくにちがいない。

 第2に、「生きもの感覚」で書くことを「生きもの諷詠」として、「花鳥諷詠」を超える時代の方向性として示す。生きものすべてのいのちは、形は変わっても輪廻して他界に生き、不滅のものと信している。だから「私はどうも死ぬ気がしない」し、「死には逆らわずに受けて立つ」という。

 第三に、自らの体験を語ることで、現代俳句の生成の過程を語り、さらにそこから生きもの感覚を体現して来た生きざまと作品をもって、新しい時代の指針を示していく。時代の展望を照らし出す語り部の役割は、その生ある限り求められ続けるだろう。



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