2017年12月24日

兜太のエッセー「日記買う」 

更級日記

 歳末は「日記を買う」ときであり、「日記果つ」のときでもある。終わった日記は「古日記」となる。また、新年の季語に「日記初 にっきはじめ」があって、これは買った日記帳に日記を書きはじめることで、このときの新しい日記帳を「初日記」という。

 これらの言葉はすべて季語として俳句歳時記に収録されているわけだが、当節、日記をつける人幾莫なりや、と思う。官庁や会社に勤めている人は 案外個人の日記を記すことが少ないのではないか、とも思う。十年前に私は銀行勤めを辞めているのだが、在職中の感じでも(まったく感じに止まるのだが)、日記をつけている人は少なかったようだ。なかには、日記などは未練がましい、と話していた人もいた。過ぎたことなんかどうでもよいではないか、という徹底した現実主義である。

 しかし、私はかれこれ三十年間日記をつけつづけているのである。ただし「三年連続日記」という怠け者向き日記帳だからあまり自慢にはならない。怠け者向きのせいか、この日記帳はよく売れているようで、三年目ごとに新しい日記帳を買うとき。いつも売り切れていて、しばらく待って取り寄せてもらっている。この種のメモ風のものなら、けっこう大勢の人がつけているのかもしれぬ。

2017年12月10日

木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る


北海道の道産馬、九州宮崎の御崎馬、そしてこの木曽馬が、日本古来の三大在来種です。現在開田高原では、木曽馬の里や木曽馬保存会が、貴重な存在になってしまった木曽馬の繁殖と保護活動をしています。


木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)     金子兜太      『少年』
             
池田 この「木曾のなあ」はねえ……。やられました。
金子 これが最後の句、兵隊に行く前の。大学は繰り上げ卒業で、一人旅をし牧ひでをというのが名古屋にいて、そこに泊まって、それから木曾ヘー人で入って、帰ってきて、それから兵隊行ったんです。その時の句でしたね。
池田 その意味でも作者は忘れ難いですね。それが、もう見事にこれは兜太節。
金子 うん、そうなんだ。
池田 兜太節の完成がね、早いんですよね。
金子 うん、早い。
池田 ですから体がそうなんですね。きっとね。
金子 秩父音頭のような民謡ばかり聴いてきたというのがあるんでしょうなあ。
池田 ’木曾のなあ‘とこれ持ってこられたのがとても癪です。この詠み方、もう維も出米ないじゃないですか。
金子 できないでしょうなあ。これは自慢なんですねえ。ちょうど冬なのにもかかわらず広場で木曾節やってたんです。私も行ってみたんです。翌朝、駅に向かってたら、だーっと並んでた。これから仕事に行くっていうんでね、ふーっとやってたんです。これは実景です。「炭馬」つていって炭を運ぶ馬。その頃は山で炭を作って、それを馬で運んでた。それを「炭馬」つていうんです。
池田 足の短い丈夫な馬が目に浮かびます。
金子 丈夫な馬です。木曾の馬で。俺の句を、生涯にわたって一句だけ褒めた男がいる。褒めたのはこの一句だけ。
池田 この一句だけと言えば、山本健吉ですね。
金子 そう山本健吉が、唯一この句だけ褒めた。

2017年12月9日

兜太のエッセー 「雪」


 辺地雪舞う殊にバキュームカーのまわり

 西海は佐世保の住、阪口胚子の俳句だが、涯子は医師。八十四歳で他界している。若い頃から俳句をつくっていて、昭和前期の新興俳句運動の有力な作り手の一人だった。
「辺地」という言い方に涯子らしい語感があるわけで、一般的には「過疎地(帯)」「過疎」というところだが、胚子はこうした生硬な語感を好まなかった。

 その荒れて人もまばらな地帯に雪が舞うように降っている。降る、といい切れない感じで降っている。ことに、そこに停正しているバキュームカーのまわりに舞うのが目立つ。バキュームカーそのものが目立つからだが、この車がそこにあり、その向こうに人家があることも不思議なくらいの、草枯れの地帯なのだ。だから人間臭いもの、とくに人工のものは奇異な感じを与えるくらいに目立つ。いつまでも記憶に残って、わびしさを誘う。
そのまわりに舞う雪とともに。

2017年11月20日

海程句集3【同人の章・ま行~わ行】

  前 川 弘 明
船笛やすずなすずしろ朝の家
水平線のように朝寝をしておりぬ
花の雨ガス管に家つながれて
トランプはみな開かれて鳥の恋
桜狩いつか死ぬ人ばかりくる
夕顔や馬は毛深き首を垂れ
飛込みのながき一瞬雲の峰
八月の水ふっかける被爆坂
月光に鶴の絵本を置いておく
猪の眼の玲瓏なれば撃たれけり

  前 田 典 子
蝶一双水のひかりを縒り上ぐる
村の葬どんじゃらじゃらと陽炎へり
青嵐乞はれて母を抱(い)だきしこと
まむし草漢ふたりが見せにくる
狐出てまぶしき青葉しぐれかな
高僧に母霧に山肌ありにけり
黄菊白菊どのバンザイも嫌ひなり
塹壕のまだあたらしき霧の音
鷹一つまばたくや崎かがやけり
澄む水の核につながりゆく無音

2017年11月19日

兜太のエッセー『冬紅葉』

  

 夏の長雨で紅葉の発色がよくないといわれているが、11月半ば、中越の長岡に出向いた折に通過した湯沢温泉の紅葉はなかなかの彩りだった。
 雪があちこちに積もっていたせいもあるが、雪と紅葉の照応が鮮やかで、これぞ冬紅葉と思えたのである。12月になれば散ってしまうだろう。しかし、あんがい残っていて、「残る紅葉」の美しさを、こんなぐあいに再び見せてくれるかもしれない。
 長岡市の金峯神社に井上井月の句碑が建ったので、そこを訪れる。ほかにも数基建てられたのだが、この句碑の句は、

  行暮し越路や榾の遠明り

 で、越後望郷の作だった。後ろに欅の大樹があって、これも冬紅葉。さかんに葉を散らせていた。
 井月は南信伊那の山峡を約30年間、俳諧とともに歩き廻って野垂れ死にした人物である。死んだのが明治22(1887)年、66歳といわれているから、伊那入りは安政年間だったろう。明治維新までたったの十年と迫っていた時代で、私の頭には安政の大獄と30歳の吉田松陰の刑死が浮かぶ。

海程句集3【同人の章・な行~た行】

    永 井 徹 寒
路線バスが踊りはじめた 地震だっ
電車不通歩けど行けど首都圏は
歩く群集早や消えてゆく春の夕焼け
津波は家を車を人を ああ神様
瓦礫原をさ迷い親や子見つからず
瓦礫原を舞い舞う風花 ありがとう
ひろしまの空にひと部屋 茜雲
脳ちぢむとき音がする 弾の音
眠って自転とてつもない愉快だ地球
夢は帆を上げ沈めば海の底の貝

  永 井   幸
粥すするくずれし遺跡ゆくような
小鏡に雪ちらちらと巨石群
花満開いつも無口な樹の力
夏薊ぶつかり合うのも挨拶です
夜の秋人はしゃがんで考える
菜種油二合下さいほほえみも
長き夜や嗚呼診断書の簡潔さ
野の枯れのささやく声す手足かな
じんわりとてのひら痒し干菜風呂
いっだって台詞のように雪降りくる

2017年11月18日

海程句集3【同人の章・さ行~た行】


 斉 木 ギ ニ
バックミラーに消える途中の白あやめ
五体投地なにか言いけり海を指し
みしらぬ岸を崖と名づけて旅つづく
はぐれてから記憶はじまる雁が飛ぶ
感情の広い林にパセリの家
この雪は積もるよと言う 思わない
一晩中鶴を通して鏡曇る
白樺は小鬼見終わり眠るかな
Smileを菫と書いて手紙終ゆ
ふらここという空中都市に一人かな


  齋 藤 一 湖
青山河薄い風景縫い合わす
素潜りはゆっくり空へ還るかたち
伊勢青し頑固な螺子が一つ取れ
鉦叩知恵なき我は打たれよう
原子村廻りは桃で囲もうか
金縛りのごと夕焼け見ておりぬ
風鈴や今夜の風が遅刻せり
曲り瓜どこか寄り道してるはず
最澄の一滴重し山の萩
凩のような説法聞いている

2017年11月16日

海程句集3【同人の章・あ行~か行】

「海程句集3」平成24年 金 子  兜 太

左義長や武器という武器焼いてしまえ
差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり
夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く
老母指せば蛇の体の笑うなり
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
定住漂泊冬の陽熱き握り飯
熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
合歓の花君と別れてうろつくよ
言霊の脊梁山脈のさくら
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
マスクのわれに青年疲れ果てている
わが修羅へ若き歌人が醉うてくる
津波のあとに老女生きてあり死なぬ
今も余震の原曝の国夏がらす
被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり
被曝福島米一粒林檎一顆を労わり
泣く赤児に冬の陽しみて困民史
東京暁紅ひたすらに知的に医師たち
樹相確かな林間を得て冬を生く

2017年10月1日

他流試合――俳句入門真剣勝負! (講談社+α文庫) 文庫 961円

他流試合――俳句入門真剣勝負! (講談社+α文庫) 文庫  961円


まえがき・ いとうせいこう
1  俳句は「切れのかたまり」なり
2 定型は「スピードを得るための仕組み」なり
3 「新俳句」の新しさはここにあり
4 アニミズムは「いのちそのもの」なり
5 吟行はこうして楽しむべし
 終わりに-非人称の文字空間に戯れる

金子兜太 著書一覧 (画像・説明付き)

金子兜太句集、著書データー一覧表リンク(ご参考に)
http://kanekotota.blogspot.jp/2015/05/blog-post_63.html

金子兜太著書一覧 (句集はラベルの「金子兜太句集」を参照) 

*『短詩型文学論』 紀伊國屋書店 (岡井隆と共著) [1963年7月] 定価250円
短歌論-岡井隆  
韻律論をめぐる諸問題・俳句論-金子兜太 
1・はじめに 2・ 個性し詩性 蕪村の評価を追って 
3・写生 視ることの意味 4・描写 その意味の変遷 
5・描写 その意味の進展  6・ 表現 その状況
7・表現 思想性と抒情  8・表現 抽象と具象 
9・表現 韻律

短詩型文学論復刻版  2007.6刊 紀伊國屋書店1944円
本書は、短歌と俳句の世界における最も革新的な作家による本格的な短詩型文学論として、多大の反響をよんだ紀伊國屋新書版『短詩型文学論』に、両著者の新たな序文を付して刊行する新装版である。短歌論は「うたは究極のところ、しらべに帰着する」という直観のもとに、意味のリズム、視覚のリズム、句わけなど韻律論を中心にすえ、言語学、音楽理論等の成果を批判的に援用しつつ、実作者の卓見に満ちた精緻な論が展開される。俳句論は、「俳句はわが国短詩形文学のなかでも最も短い定形式の詩型であるということ、そのことが特色のすべてである」という認識のもとに、写生における視ることの意味、描写の意味の変遷とその技法の進展、表現における思想性と抒情、抽象と具象の問題、又、韻律の重要性等が的確に考察される。

金子兜太著書一覧表(リンクしています)

※データーとしてご活用下さい。詳細はリンクをご覧下さい 。
( リンクは自由です・管理人 )

最新著書

*詳細はリンクしていますのでクリックして下さい 


*『少年』(第一句集) 風発行所 [1955年10月]
*『金子兜太全句集』(第二句集) 風発行所 [1961年7月]
*『短詩型文学論』紀伊國屋書店 (岡井隆と共著) [1963年7月
*『今日の俳句』 光文社カッパブックスのち文庫化 [1965年9月]
*『金子兜太句集』 海程戦後俳句の会 [1966年8月]
*『蜿蜿』(第三句集) 三青社 [1968年4月]
*『定型の詩法』 海程社 [1970年10月]
*『俳句―短詩型の今日と創造』 北洋社[1972年7月]
*『定住漂泊』春秋社 [1972年10月]
*『暗緑地誌』(第四句集) 牧羊社  [1972年11月]
*『早春展墓』(第五句集) 湯川書房 [1974年7月]
*『種田山頭火』 講談社現代新書 [[1974年11月]
*『詩形一本』 永田書房 [1974年11月]
*『金子兜太全句集』に未完句集『成長』(第六句集)『狡童』を収める
 立風書房[1975年6月]
*『俳童愚話』 北洋社 [1975年7月]
*『旅次抄録』(第七句集) 構造社  [1977年6月]
*『ある庶民考』 合同出販 [1977年8月]
*『愛句百句』 講談社 [1978年6月]
*『流れゆくものの誹諧』 朝日ソノラマ  [1979年7月]
*『俳句入門』北洋社 [1979年9月]
*『金子兜太』現代俳句叢書 (旅次抄録までの自選500句) 
 総合美術出版社 [1980年2月]
*『小林一茶』講談社現代新書 [1980年9月]
*『中山道物語』 吉野教育図書 [1981年6月]
*『熊猫荘点景』 冬樹社 [1981年6月]
*『遊牧集』(第八句集) 青土社 [1981年9月]
*『猪羊集』(第九句集) 現代俳句協会 [1982年7月]
*『一茶句集』岩波書店 [1983年12月]
*『漂泊三人・一茶、放哉、山頭火』飯塚書店 [1983年12月]
*『兜太俳句教室』 永田書房 [1984年2月]
*『金子兜太・高柳重信集』朝日文庫 [1984年5月]
*『俳句の本質』 永田書房  [1984年6月]
*『兜太詩話』 飯塚書店 [1984年12月]
*『感性時代の俳句塾』 サンケイ出版 [1984年12月][1988年8月集英社文庫]
*『詩経國風』(第十句集) 角川書店  [1985年10月]
*『現代俳句を読む』飯塚書店 [1985年10月]
*『わが戦後俳句史』岩波書店 [1985年12月]2014年6月重版
*『皆之』(第十一句集) 立風書房 [1986年12月]
*『俳句説法』さきたま出販会[1987年8月]
*『小林一茶―句による評伝』 小沢書店 [1987年9月]
*『熊猫荘俳話』 飯塚書店  [1987年12月]
*『放浪行乞』集英社のち集英社文庫化 [1987年12月]
*『兜太の現代俳句塾』 主婦の友社 [1988年3月]
*『誹諧有情』(対談集・ドナルド・キーン、井上ひさし、飯田龍太、佐々木幸綱他)          [1988年3月]
*『各界俳人三百句』 主婦の友社  [1989年4月]
*『俳句の現在』(対談集・龍太、澄雄、尾形仂)富士見書房  [1989年6月]
*『現代俳句歳時記』(編著・金子兜太 例句を昭和以降に絞り、雑の部を 設ける)
  千曲秀販社 [1989年7月]
*『黄』 (自選句集) ふらんす堂文庫[1991年3月]
*『兜太のつれづれ歳時記』 創拓社[1992年10月]
*『金子兜太』(自選句集) 春陽堂俳句文庫 [1993年1月]
*『遠い句―近い句』 富士見書房  [1993年4月]
*『現代俳句鑑賞』 飯塚書店 [1993年12月]
*『二度生きる』チクマ秀販社 [1994年4月]
*『金子兜太』 (自選句集) 花神社  [1995年7月]
*『両神』(第十二句集) [1995年12月]
*『現代歳時記』(黒田杏子と夏石番矢共著) 成星出販 [1997年2月]
*『兜太の俳句添削塾』 毎日新聞社 [1997年10月]
*『金子兜太俳句入門』 実業の日本社 [1997年12月]
*『現代俳句鑑賞全集8巻・金子兜太編』 東京四季出版社 [1998年1月]
*『俳句専念』 ちくま新書  [1999年1月]
*『草木花歳時記 春の巻』 朝日新聞社 [1999年1月]
*『現代子ども俳句歳時記』(編著) チクマ秀販社 [19994月年]
*『漂泊の俳人たち』NHKライブラリー [2000年11月]
*『鳥獣虫魚歳時記・春夏の巻』(編著) 朝日新聞社 [2000年12月]
*『東国抄』(第十三句集) 花神社 [2001年3月]
* 『他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞』 [いとうせいこう] との共著。新潮社、    [2001年4月]
『金子兜太集1~4』
*『金子兜太集』第1巻 (全句集)筑摩書房、[2002年4月]
*『金子兜太集』第2巻 (小林一茶)筑摩書房、[2002年2月]
*『金子兜太集』第3巻 (山頭火―漂泊の俳人、秩父山河考) 筑摩書房 [2002年1月]
*『金子兜太集』第4巻 (わが俳句人生)筑摩書房、[2002年3月]
*『金子兜太俳句の作り方が面白いほどわかる本』のち文庫化 中経出版[2002年6月]
*『中年からの俳句塾』海竜社 [2004年4月]
*『米寿対談』鶴見和子との共著 藤原書店 [2005年5月]
*『酒止めようかどの本能で遊ぼうか』中経出版 [2007年10月]
*『日常』(第十四句集) ふらんす堂 [2009年6月]
* DVD『生き物』監督・日向寺太郎 紀伊國屋書店 [2009年]
*『語る 俳句短歌』佐々木幸綱との対談 藤原書店 [2010年6月]
*『たっぷり生きる』日野原重明と対談 角川ソフィア文庫  [2010年10月]
*『悩むことはない』文藝春秋 のち文春文庫 [2011年4月]
*『今日本人に知ってもらいたいこと』半藤一利との対談KKベストセラーず[2011年7月]
*『金子兜太の俳句塾』毎日新聞 [2011年5月]俳句好き著名人の句を鑑賞
*『老いを楽しむ俳句人生』海竜社[2011年10月]
*『海程創刊50周年記念アンソロジー』2012年5月刊 海程発行
*『兜太自選自解九十九句』角川学芸出版[2012年5月]
*『金子兜太の俳句入門』 角川ソフィア文庫[2012年5月]
*『荒凡夫』白水社 [2012年6月]
*『定住と漂泊 一茶・山頭火』[2013年 2月]
*『小林一茶 句による評伝』岩波文庫 [2014年 4月]本阿弥書店 2500E
*『語る兜太 わが俳句人生』岩波書店 [2014年6月] 
*『日本行脚俳句旅』金子兜太・正津勉アーツアンドクラフツ [2014年8月] 
*『私はどうも死ぬ気がしない』 幻冬舎 [2014年10月]1000E
*『他界』講談社  2014年12月10日定価 : 本体1,300円(税別)
*『金子兜太 いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』 小学館1000E[2016年6月] 
*『あの夏、兵士だった私』清流出版 1500E [2016年8月] 
*『いま、兜太は』岩波出版 1700E [2016年12月] 
*『存在者 金子兜太』黒田杏子 2800E藤原書店[2017年3月]




2017年9月30日

兜太の語る俳人たち「佐藤鬼房」


佐藤鬼房の俳句

 鬼房は、第一句集『名もなき日夜』を1951昭和26六年に出し、その4年後に第二句集『夜の崖』を出している。年齢にして32と36歳のとき。鬼房の初期句集はこの二冊に集約されていると見てよい。

 私は処女句集を出して間もない鬼房と福島市で出会っている。銀行勤めで福島の支店にいた私の阿武隈川べりの家に、京阪の俳句仲間に会っての帰り、鬼房はぶらりと立ち寄ったのである。炬燵を囲んで一晩をすごし、かれは熊のようにのそのそと塩竈(宮城県)の自分の家に帰っていった。まったく熊のように重く、どこか鬱屈を蓄えた後ろ姿が、いまでも目に浮かぶ。

      切株があり愚直の斧があり
      きりかぶが ありぐちょくの おのがあり
の鬼房をおもっていた。


2017年9月1日

「金子兜太集1~4」筑摩書房


「金子兜太集1」筑摩書房2002年 6500E
句集「少年~東国抄」(注・『日常』(第十四句集) ふらんす堂 [2009年6月])

2017年8月6日

海程句集3 海程創刊50周年記念アンソロジー・物故同人

阿部 完市 
慎重に銀木犀を思いたり
蓴菜はもつとも形式的である
鶏の天地無用にありにけり
寒卵地面つくづくつづくなり
会釈して北陸道に入りにけり
さんくと・ぺてるぶるぐ全天窓かな
撒水車らぶそでい・いん・ぶるう撒く

  相澤 和郎
月出てゐる雨降つてゐる萩の寺
カザグルマ廻つてる燕舞つている
みつめればはにかむ枝垂桜かな
瓦屋根越えてゆけない赤蜻蛉
並木直立不動の冬が来る
消しゴムでごしごし消すや泡立草
各駅へ桜前線停車する

 阿部 娘子
こめかみの熟睡の木より夏鴉
父の日の雨のあひるが歩き出す
ちちははに在りし戦歴長け藜
水呑んでひとりあそびの山の蛭
白粥を向こうへ吹いて十二月
青南瓜やさしく叩き國分尼寺
茶が咲いて石くれ六つ初の旅

2017年8月1日

海程句集2海程創刊40周年記念アンソロジー 物故同人の章

海程創刊の頃の金子兜太・右
海程創刊40周年記念アンソロジー 

物故同人の章【あ~お】

 安達真弓
とほき野に江の氾濫のこり照る
青落葉さわぐをよぎり家路ならぬ
ザリ蟹もわれも異端めくふるさとよ
棒縞を着せて案山子と貧わかつ
樹のリンゴ片側紅き蜜月旅行(ハネムーン)
芙蓉大輪いつより時間ゆるやかに
片頬に老斑賜ひ万愚節

 穴井  太
吉良常と名づけし鶏は孤独らし
あおい狐となりぽうぼうと魚焼く
ゆうやけこやけだれもかからぬ草の犀
番長も俺も毛深きゆきのした
朝日あびる中学校の砒素の瓶
一樹病み百も二百も雨蛙
この世から少し留守して梅を見に 


 新井 清
朴の花熊棲む森の真ん中に
去年見つけし鈴蘭の群生に逢ふ
困民党育てし美の山(やま)の夕桜
飛行場真白にあけて二日かな
虎が雨家を残して子は北へ
麦秋や妻の背まがりぬ南無三宝
走り梅雨隠岐の白浜濡れて来し

2017年7月26日

兜太句を味わう 「たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし」

      


たっぷりと鳴くやつもいる夕ぴぐらし (『皆之』)  
             
北武蔵は熊谷の郊外に常光院があり、私のいま住んでいるところに近い。その名刹の庭に立つと、晩夏の夕暮れなぞ殊にひぐらしが湧き立つように鳴いている。なかにはたっぷりと鳴くものもいて、単調ではない。「やつ」と友だちのような気持ちで呼んで、その鳴き声にひきつけられていた。郷里の山国秩父の晩夏も同じようにたっぷりした、ひぐらしの声に浸っていたものだった。その懐しさ。常光院のお庭にこの句碑をいただく。

2017年7月19日

昭和48年9月11日 海程が100号を迎える金子兜太

資料を整理していたら新聞の切り抜きがでてきた。
昭和48年には竹丸は居なかったので誰かに貰ったのかも知れません。
珍しいのでアップします。
先生若々しい印象があります。


 金子兜太氏を中心とする俳句同人誌「海程」が、来年早々百号を数える。「俳句前衛」「本格俳句」[最短定型詩形]などの旗じるしをかかけ、戦後の俳壇を突き進んできたその道すじは、伝統のワク組みにしばられた俳句の、宿命的制約の確認とそれの拡大への
たゆみない努力であったといえる。
 

2017年6月28日

兜太のエッセー 「アニミズム・いのちをいたわる」

蛇も一皮むけて涼しいか  小林一茶
 (くちなわも ひとかわむけて すずしいか)

 なつかしい人々との出会いのなかで、わたしは俳句をつくるようになり、深入りして、現在にいたっている。言いかえれば、そうした人たちが俳句をつくっていなかったら、わたしもつくることはなかっただろう、とまでおもっている。その人たちを、なつかしい日本人と言いかえたい気持なのだ。

 昭和十年代の初め、十代の終りごろに俳句をはじめているが、きっかけは旧制高校の一年先輩、出澤珊太郎(でざわさくたろう)(本名三太)との出会いにあった。

三太と兜太の、三と十の語呂合わせを、学生どもが集る飲屋のおかみさんがおもしろかって、まったく未知の二人を引合わせてくれたのだが、丁度そのとき出澤は学生句会をやろうとしていた。

頭数を揃えたい、ぐらいの気持でわたしを誘う。なんだか断れないで渋々出席。苦しまぎれにつくった一句が、なんとなんと好評だったのも奇縁だった。

2017年5月27日

兜太のエッセー「 母逝きて与太なり倅の鼻光る」



関口宏の「人生の詩」に出演した金子先生の写真で、これは幼き日の兜太と母のはるさんの写真です。ふっくらと丸髷に結い縞の着物で立つ親子。句碑にまでなった有名な句、


夏の山国母いてわれを与太と言う          『皆之』

 母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。        

2017年5月11日

兜太のエッセー「おおかみに螢が一つ付いていた」


「おおかみに螢が一つ付いていた」は、まさに自分の今言った考え方が熟してきた、自分の体のものになった、そのころにできた句です。秩父には、オオカミがたくさんいたという伝承が残っています。

そして、秩父谷――われわれは、秩父の山じゃなくて、秩父谷とよく言ってるんですが、秩父谷はオオカミがたくさんいたところだ、今でもいるに違いないと、退職した後、オオカミを探して歩いている読売新聞の記者の人がいたんですよ。その写真をときどき読売が出してくれた。
それがわれわれの目に入ったということもあって、秩父の土というと、すぐにオオカミというのが私なんかには反射的に出てくるわけね。そのときに、オオカミは孤独なこともあったんだろうな、と、こう思うわけです。

 秩父に両神山(りょうがみさん)という、台状のいい山があるんですよ。秩父出身の詩人の金子直一という人がいたんですが、その人が、両神山は「オオカミ山」から来ているんじゃないかと詩に書いていて、俺はそれに感動を受けて、もとはオオカミがたくさんいたのでオオカミ山と言ったんだけど、オオカミが全滅させられて名前だけ残ったと、そういうふうに取っていたわけです。そこから、今の句ができた。

 一匹の「おおかみ」が残っていて、孤独を託(かこ)って、夜ノコノコ歩いていると。ふと見たら、その背中に蛍がパッパツと瞬いていたという。孤独な「おおかみ」。孤独な秩父。

そんなふうな言葉が盛んに出てきた。それでできた句なんです。秩父の土壌から離れて熊谷のようなところに住んで、秩父を思っているということの中には、ある意味、俺にも、オオカミ的孤独というようなものがあるのかなと思うことが、ずいぶんあります。
今でもときどき、そう思いますね。そんなことで、あの句は非常に懐かしい。私の郷里の皆野町に椋(むく)神社というのがありまして、町の人がそこに私の句碑を作ってくれまして、その句が刻んで境内にあります。

       (いま、兜太は)から 岩波書店1700E

2017年4月30日

『いま、兜太は』を読む  安西 篤


 昨年十二月に岩波書店から卜梓された『いま、兜太は』が好評を博している。

 全体の構成は、兜太による〈自選自解百八句〉、次いで編者青木健氏との対談<わが俳句の原風景>、そして十人の筆者による<いま、兜太は>が、さまざまな角度から書かれている。
その顔ぶれは、嵐山光三郎(作家)、いとうせいこう(クリエイター)、宇多喜代子(俳人)、黒田杏子(俳人)、斎藤愼爾(作家・評論家)、田中亜美(俳人)、筑紫磐井(俳人・評論家)、坪内稔典(俳人)、蜂飼耳(詩人)、堀江敏幸(作家)の各氏。


生きのいい多彩な分野からの執筆陣である。いずれも兜太像を、作品やエピソードで具体的に浮かび上がらせているところが面白い。
自選自解と対談は、海程の読者にとってはすでに馴染みの兜太節なので、表題となった十人による寄稿のポイントを紹介しておこう。

 一つは、ほとんどの筆者が揃って指摘している人間としての魅力だ。それは「生きとし生けるもの『存り存る ありある』という強さで立ち上がる(宇多)存在感として、作品に横溢している。
嵐山は、句に「ケダモノ感覚がある」ともいう。だが今や、その人間像は年輪を経て「赦す」「和解する」人となって来ており、聴衆は兜太の「人間としてのあたたかさ、優しさに触れて励まされる」(黒田)ようだ。

 二つには、選句力、鑑賞力の素晴らしさだ。「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」に見られる選句の大胆さ(伊藤)、一茶俳句の鑑賞に示した新解釈に、「(ことばの)体幹のしっかりした人」(堀江)という評価が高い。
それは(繊細な感受能力にあって、分析の理路はそのあとにやってくる(堀江)ものなのだ。

 三つ目は、文学論としての歴史的評価で、〈造型俳句〉に代表される前期と、〈ひとりごころとふたりごころ〉に代表される後期とを結びつける論理を、発見しなければならないという課題だ。そこには戦後俳句を変質させた希望の星としての兜太像がある(筑紫)

兜太の自句鑑賞

麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな          『詩經國風』
麦秋の野面は、夜ともなれば黒焦げの感じで、そのひろがりは無気味でさえある。
私は原爆投下された広島、長崎を直ちに想い、戦時中そこにいて、戦場の惨状を
体験した赤道直下のトラック島を思っていた。二度とあんな悲惨なことがあって
はならないとの願い。


どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ            『詩經國風』
原や山道を歩いてゆくと直ぐ、路傍にこの淡紫色の花を見受ける。釣鐘形で
なんとなくずんぐりしていて、下向きなので、解説本などは提灯(火垂る)
に似ていると説明し、歳時記には、子どもがホタルをこの花に入れて遊んだ、
と説明したりしている。私はホタルが花のなかに自分で好んで入り込ん
だと想像し、更にはホタルでなく蟻がおもしろい。蟻のやつ、喜んで騒い
でいるぞと思いなおして楽しんでいる。「どどどど」騒ぐ感じの擬音語。
これが得意。


牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ       『皆之』
武蔵の熊谷に住みついた頃は、横の小川で牛蛙が盛んに鳴いていた。高度経
済成長の半ばで、いまでは小川の左右すべてが住宅化し、いつのまにか牛蛙の
声がきけなくなってしまった。泥水を喉のあたりに溜めて、転がしたり、吐い
たりしているような鳴き声が懐しい。
「ぐわぐわ」と擬声語にちかいことを掴んで大喜び。私の俳句仲間に、この句
を囗遊びながら歩きまわる男がいる。

2017年4月5日

荒川ふるさと館に兜太句碑が建立

3月21日(火曜)、荒川ふるさと文化館で、俳人・金子兜太の句碑除幕式が
行われました。


式典では、西川太一郎(にしかわ・たいいちろう)荒川区長から「今日は、荒川区における俳句振興のシンボルとなる金子兜太先生の句碑の除幕は、荒川区にとって忘れられない日になると思います。」と話がありました。

 金子兜太氏からは「荒川区は様々な句碑があり、俳句に関係が深い地域です。私も荒川区や日暮里の本行寺の住職との関係が深いこともあり、区とのかかわりが大変楽しいです。これからもお付き合いをお願いします」とあいさつがありました。

 金子氏が「奥の細道旅立ちの地」荒川区南千住をテーマで、松尾芭蕉主従への想い詠んだ句碑の除幕がありました。

荒川千住芭蕉主従に花の春 兜太
あらかわせんじゅ ばしょうしじゅうに はなのはる
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/smph/kusei/koho/hodohappyo/20170321.html



2017年3月19日

兜太のエッセー「うるか汁、お麵、酢饅頭」 


鮎の腸の黒い塩辛をうるかと言いますが、あれをおつゆに入れて味をつける「うるか汁」というのが秩父にあります。瞥油や味噌の代用で、サツマイモやジャガイモを刻み味が染みておいしかった。渋くてちょっと生臭い。

「一日に一食、必ずうどんを食ってたんです。山国で米が穫れないから、みんな麦に頼っていた。秩父に嫁ぐ女は、嫁入り道具に必ず麪棒を持ってきて、自分で打って家族に食わせる。
おやじは俳句が好きで、句会をやっていたのですが、その後に必ずお酒とお麪を出すわけなんです。
みんなで酒を飲んで『そろそろ奥さん、お麵くんねえか』。打って茹でておいたものを醤油のたれにつけてジュージューツと食べる」

酢饅頭も記憶に残っています。酢昧の効いた白い皮のなかに餡が入っている。小学校から引き上げるとき、ほかほか湯気の立つのがお菓子屋の店先に見えているわけだな。それを横目で見ながら駆けて帰って、おふくろから金をもらって買って食べた」「昧を言われれば、秋から冬の昧」
酢まんじゅうは秩父だけにしかない昔から引き継がれた食文化のおまんじゅうで、「食酢を使用しているのですか」と聞かれますが、米麹をつくり、36度程度の暖かい場所で発酵させ、酢をつくり小麦粉と混ぜたものを、パンと同じように発酵させたものです

2017年3月13日

「他流試合」金子兜太✖いとうせいこう

他流試合――俳句入門真剣勝負! 講談社+α文庫  961円
1週間前位の大竹まことのラジオにいとうせいこうさんがゲストに招かれていました。マルチ才能のいとうさんあっちこっちからお呼びがかかります。その時「他流試合」が増販されると言ってました。
俳句と川柳って明確な分け方があるのでしょうか。巷では川柳のようなものを俳句と言ったりしています。この他流試合の一部を抜粋してアップします。

 

2017年3月1日

『熊猫荘俳話』金子兜太

飯塚書店  [1987年12月]2000円
帯より
とにかく現代俳句は難しいと言われる。誰にも分かる俳句目指して
五七五を基本に季語の能動的活用具体性と生活感を大切にする現代
俳句創造の示す対談集。
目次
熊猫荘俳話
1 古きものに現代を生かす
2 五・七・五の韻律こそ俳句の「実」
3 土くささと新しい喩
4 感覚を通して意味へ
5 季語と具体性について
6 具体的なものの強さ
7 日常と非日常
8 成熟ということ――肉体の思想化
入門篇・好作鑑賞

「感性時代の俳句塾」金子兜太

 
1988刊 集英社文庫 320E

目次
第1章 時代の息づかいをきく言葉の海へ
第2章 俳句世界のへの出版
第3章 先人たちの道しるべ 芭蕉から一茶へ
第4章 韻文り時代に生きる物たちへ


2017年2月26日

「兜太詩話」 金子兜太

飯塚書店1984年刊 1600円

 上信越国境I妙高・黒姫山麓を歩くI
 この冬I白鳥を見るI 11
 白い犬 18
 霧と虚子と芋銭と 23
 季 節―兜太墨謫I 31
1984年 飯塚書店1600円
エッセーや俳句時評をまとめたものです。
目次
秩 父
 村のはなし、猪話し、私とお医者さま、命美し、詠歌二つ
 茂吉と夕暮の秩父の歌、秩父風土考――将門伝説のこと
  あすへの話題、好きなようにやれ、河 豚、あすへの話題
詩 話
 緑の終り、俗を用ゆ――俳諧のもつおもしろさ、露の村 
 体・秘境的1毛呂鴆句集『白飛脚』に関わってI 143
 現代短歌感傷、幸綱の「現場」、中原中也詩鑑賞、肉体 
 俳句時評
 俳句時評1、俳句時評2
エッセイ
 音に先立つ形、ことばを磨く、自己表現と俳諧、
 子規「写生」の二面、虚子の客観-形式性と抒情
 あとがき 263
 初出一覧 264
 

2017年2月24日

「金子皆子 花恋忌」 山中葛子

( 金子皆子は兜太夫人で癌を病み闘病のすえ亡くなりました)

2017.1月号からアップ
 このたびは、平成12年からの千葉県旭市での闘病の日々をご一緒させていただいた6年間の交流が収められた句集『花恋』の、ことに前書による句を主として辿りながら、死
の宣告という苛酷な命と向きあわれた句集『花恋』に対峙することへの覚悟と言えばよいのでしょうか。つまりは、9年の年月を経てようやく皆子作品の世界に学ばせていただこう
とする私なのです。『花恋』への畏れと不安を思いつつ徹してみたいと思います。

『俳句の現在』(対談集・龍太、澄雄、尾形仂)


俳句の現在 (対談集・龍太、澄雄、尾形仂)富士見書房 
[1989年6月]2000円
飯田龍太・金子兜太・森澄雄・尾形仂⇒対談形式

「俳句専念」金子兜太

「俳句専念」1995年1月刊 ちくま新書 660E

2017年2月23日

『熊猫荘点景』金子兜太


『熊猫荘点景』 冬樹社 [1981年6月] 1800円
俳諧精神でつかまえた世態と人情、現代俳句の地平を新しく拓き続ける、著者が、事物や人間たちの<縁>の糸をたぐりよせ、在ること生きることの厳粛と滑稽を、俳諧の心で見事活写する

「今、日本人に知ってもらいたいこと」 半籐一利・金子兜太


「今、日本人に知ってもらいたいこと」 2011年7月刊 
KKベストセラーズ 1500E
第1章  未曾有の災害に日本人は何を見たか
第2章  今、あの戦争を考える
第3章  絶望と無力感の中で生きる
第4章  私たちのルーツ
第5章  老い知らずの見識
第6章  忘れてはならない日本人の精神

「流れゆくものの俳諧」金子兜太


「流れゆくものの俳諧」 1979刊 朝日ソノラマ 950円 

序――
「流れゆくもの」と庶民・俳諧の連歌・最短定型詩の本質としての俳諧・情(ふたりごころ)と心(ひとりごころ)・俳諧とは情を伝える工夫・自然の状態・庶民の俳諧と一茶
一章 芭蕉と一茶・親芭蕉と反芭蕉の振幅・深川と葛飾・一茶の深川執心・牡丹餅と饅頭・芭蕉以前の俳諧芭蕉の「誠の俳諧」・時雨のおもい・敬慕と反発・近世庶民のくひとりごころ〉


「定型の詩法」金子兜太

定型の詩法 1970年10月初版、発行所・海程社

・楸邨論断片―句集『野哭』、『起伏』を中心にして
・俳句と社会性
・俳句の造型について
・造型俳句六章 ほか)
筑摩書房「金子兜太集4」に所收

「種田山頭火」金子兜太 


「種田山頭火」 講談社現代新書 [[1974年11月]
(金子兜太集3にあります)
放浪と行乞、泥酔と無頼の一生を送った漂泊の俳人・種田山頭火に
ついて、実作者の句作体験を通して、「存在者」としての山頭火の
内奥をえぐり、その詩と真実を解明するとともに、現代人の放浪へ
の願望をもあわせ追及した力作。※この年は、略年譜に一茶・山頭
火のテレビ、雑誌座談会多しと記されています。

「定住漂白」金子兜太


「俳句入門」金子兜太


「俳句入門」実業之日本社 1400E 
俳句とは
俳句作法あれこれ
俳句寸史

「定型というもの」を転載しました
 俳句は「五・七・五字(音)を基準にした定型式の詩」と前に書きました。いいかえれば、五七調の最短定型ということで、そのなかを二つに分けて考えることができます。

「現代俳句鑑賞」金子兜太


「現代俳句鑑賞」金子兜太1993刊 飯塚書店 2060E
。新しい見方と現代感覚
・題材の手ざわりと音律効果
・俳句表現は生命感覚で決まる

『荒凡夫』金子兜太


 『荒凡夫』白水社 [2012年6月] 白水社 2000E
プロローグ 私にとっての「荒凡夫」
第1章「荒凡夫」にたどりくまで
第2章 一茶と山頭火
第3章「荒凡夫」一茶の生き方゜
第4章「荒凡夫」と生き物感覚
第5章「荒凡夫」一茶と芭蕉の「風雅の誠」

「ある庶民考」 金子兜太

 1977刊  合同出版  1300円

一茶覚え書き
私のなかの秩父事件
農民俳句史


「私のなかの秩父事件」の冒頭部分です

 私の育ちましたところは、皆野(埼玉県秩父郡)です。生まれたのは小川町(同県比企郡)で、そこに母の実家があって、そこで生まれて父親が皆野で医者を開業しましたので、連れてこられました。当時の皆野は、現在のように、過疎化した近隣の村を組みこんで大きくなった皆野町ではなくて、いわゆる皆野町皆野という狭い地域です。

そこで育ちましたとき、秩父事件の話を主として祖母と祖母の兄にあたる人(金子徳左衛捫といい、皆野竜門社の創立に関係しだ同名人の息子)からよくききました。

私の子供の頃、昭和の前期、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、よく話をききましたが、面白いことに、祖父と父親からは、ほとんどきいたことがなかったんです。それどころか、祖母や徳左衛門からきいたことを確認しようとすると、あまり色よい返事がないんです。むしろ、父親なんぞは、囗を縅して語らないところがありました。

 私のきいた祖母と徳左衛門の話は、秩父事件に参加した人の話ではなくて徳左衛門は被害者、祖母の場合はまったくの傍観者的な話でした。

いまにして思えば、祖母が傍観者的な話をするのは当然のことでありまして、当時は、秩父事件とはいわず、秩父暴動といっていました。
「チチプポウトウ」というのが正確な発音だともききますが、「チチブボウドウ」と濁音できいていました。参加した大たちは、暴徒でした。そういう概念で、そういう語りかたを要求されていた時期でありましだから、それ以外の語りかたがみとめられなかったわけで、祖母が、傍観者以上に踏みこんだ話ができなかったのは、当然のことでした。

 したがって、話の内容も、祖母の夫である祖父が、まだ十六七歳の頃、ほかの青年だちといっしょに、山越えで上州の馬庭(まにわ)まででかけて、馬庭念流の練習をしていて、祖父はなかなかの腕前だったということ。

秩父事件がおこったとき(明治十七年・一八八四年十一月)、つまり、秩父暴徒がきたときに、それをむかえうってたたかったというんですね。

ところが最初の一人は斬ったけれども、二番目の人に頭を斬られて昏倒しちゃったというんです。そんな話を、自慢話として、祖母の口からきいたわけです。その話のなかにも、たとえば、秩父大宮郷(現在の秩父市)の役人が頭を坊主にして逃げた、とか、事件後の追求が神経質で、皆野町の荒川をわたる栗谷瀬の渡しというのがあったんですが、渡舟をあやつる船頭にむかって、警官が、「お前はなにものだ」ときいた、「船頭だ」と答えたら、事件の煽動者とまちがえてしまって、いきなりつかまえた、といったエピソードも含まれていました。

そのなかでも、祖父昏倒の話が得意だったわけです。真偽のほどははっきりしませんが、祖父の右の額には、縦のかなり大きい傷あとがあったことは事実です。

 徳左衛門の話は、これはすべて被害者の話でした。襲われた高利貸の話ばかりで。手際よく山に逃げたもの、おかみさんの冷静な処置のこと、といった話です。

私はその話に興味をもって、中学四年生の時でしたか、聞き書のかたちで校友雑誌にだしたことがあります。そういう関心のもちかたをして、少青年期を育ったわけです。  
     
 私は、戦争中も戦後も、よその土地を歩きまして、郷里に帰ってくることはありませんでした。最近は熊谷に住んでいますが、なかなか帰ることはありません。ただ、そのなかで、離れておりますと、しだいに秩父事件が発酵してくるんですね。

小林一茶という北信濃出の農民が、江戸に十五歳のとき出ましたが、一茶にしても、やはり江戸暮しのなかで絶えず信濃を思いおこしています。

はなれますと、なつかしい。とくに私なんかの場合は、秩父への回想というかたちが、秩父の人々への回想なんです。
人によっては、天然、山河ということで、自分のふるさとが顧られることもありますが、私の場合は、秩父の人々、人間への回想というかたちで、ずっと、戦争中から戦後のいままでをすごしてきました。不思議に、私の場合は、秩父の山河への回想はすくない。たとえば、子どもの頃(私には五、六年前のことのようですが、すくなくとも四十年以上も前のこと)、秩父は貧しかったです。

医者の父親の働いている姿を通じてみて、医者も当時は現金収入には恵まれなかったが、それよりはるかに貧しい暮しをしている人がたくさんいて、その人たちのことが記憶にあります。
私の小学校の友だちなんかでも、優秀な人は、埼玉師範を出て学校の先生になるか、軍人(下士官)か、警察官かのいずれかでした。お金がかからないで一人前になれる、社会的にも納得のできる仕事を、ということだったのです。貧しいから、それ以外の手だてがなかった。

 戦争から戦後にかけて、郷里の人々への回想のなかで、秩父事件についての思い出とともに、そういう自分と同世代の人たちの自分より優秀な人たちの人生への思いがからみます。あの人たちはどうしているだろう、と考えることが多かったわけでした。

そういう二重映しのなかに、私の秩父回想はあったわけです。昭和のはじめに、堺利彦氏の『秩父事件』が出ています。戦時中は、もっと官許的な、政府側の意見を代弁した秩父事件についてのものがでていたわけですが、青年期にそれらを読んでいるから、後刻また読みなおしてみても、すべてなつかしいわけです。

イデオロギーに触れてゆくのでは。なくて、そこに語られている人々に触れている気持がひじょうに強かったんですね。極論すれば、秩父事件を語る者の思想などどうでもよかった。事件の人たちが、そこにいればよかったということでした。

 それについては、二つほどの理由を加えなければなりますまい。これを申しあげないと、私の意思が通うじなくなります。ひとつは意識なり感情なりの、もっとも昂揚した時点の人間が、いちばん美しいということです。

日常生活のたんたんたる姿にも美しさはあるが、それ以上に、激化した人間の美しさというものがある。なにやら、激化したときの人間、昂揚したときの人間の美しさというものを、秩父事件を通じて、同郷の人々への親しさをこめて、感じとっていたということなのです。

 もうひとつは、じつは私は、秩父事件を簡単に「農民の事件」と割りきってしまうことには、若干の疑問をもっているわけですが、それは別として、同郷の人々のなかでも、農業に携わる人だもというのは、いちばん秩父の風土を感じさせるわけです。

離れている私の身体が、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく、大地と精神につながってゆく、その結び目のところに秩父の農民諸氏がいるといり、なにか結節点のような、錘のような、その意味で、私り存在の根っこのところに、デンと座っているようん感じが秩父事件を通じて殊に深く受け取れたように思われます。

このことは、私か俳諧というものに執着することの理由と、ひじょうに似たところがあります。というのは、文学は言語による自己表現ですが、それを求める場合、日本人である私の言語習慣のいちばん素朴なところにぶつかります。七・五調にぶつかるんです。

日本語がもっている基本のリズムと申しましょうか、七・五調の問題にぶつく。そこから私の俳諧への関心が高まっています。俳諧は、現在では、いうまでもなく、五・七・五字(音)の最も短い定型詩として、広く親しまれているわけですが、この七・五調というより、正しくは五・七調定型詩の魅力が忘れがたい。

七・五や五・七調は、私の身体にしみこんでいるリズム(音律)だし、同時に、日本人の誰れの身体にもしみこんでいるから、七・五調であらわせば、それだけで、オオとかワカッ夕とか言い合えるものがあります。
民謡のおおかたが七・五調を基本にしていること――それによってお互いにつまり、民謡を唄い踊ることを通うじてお互いに、親しさを肌身に感じあっているところがあります。

理屈でわかり合うのとは違った親しみがあるわけで、これは七・五調のおかげだとおもっています。したがって、ずいぶんモダーンな人や、七・五調嫌いの都会人が作る商業宣伝のキャチーフレースなどにも、意外に七・五調が多いことに呆れます。ミイラとりがミイラになったわけでもありますまいが、

嫌っても嫌っても、根っこにあることからは、なかなか離れられないものだ、ということでありましょう。つまり、日本語による自己表現ということを考えれば考えるほど、俳諧にひかれてゆく面が強かったということで、それと同じように、人々という言葉を通うじ
て人間について考えていると、どうしても、いちばん根っこにのところにいる農民、それも同郷の、とくに事件の渦中の農民にぶっく。

その点で、私の秩父事件を通うずる同郷の農民諸氏へのつながりと、俳諧を通うずる言語による自己表現へのつながりとは、ひじょうに似ています。
同根のことと自分ではおもっています。そういうことから、私は、秩父事件に、少青年期の記憶をあたためながら、ずうっとつながってきた、ということです。これが、俳句なぞをやっている男が、なんで秩父事件に興味をもつのか、と疑問をもつ方もいるかもしれ
ませんが、私が郷里のこの事件にことさらにひかれる理由の大きな部分なんで。・・・・つづく
    
あとがき
「ある庶民考-一茶覚え」を、昭和四十八年(一九七二年)夏に書き、「農民俳句小史」を昭和五十年(一九七五年)夏に書いた。そして二年後のいま、「私のなかの秩父事件」を、昨年秋の講演原稿に加筆訂正して仕上げた。ちょうど二年おきに書いたもので、一冊がまとまった次第だが、俳句を手がかりに、私が追っている「庶民」考の主題に変りはない。
これからも、この主題を手探りしてゆくつもりである。この本ができたのは、熊谷昇氏ならびに合同出版のおかげである。厚く感謝したい。
   一九七七年初夏               金子兜太

「一茶句集」金子兜太


岩波書店 1983年 2100円  2017年現在岩波文庫で
読めます。一茶の108句を鑑賞しています。(古典を読むシリーズ9巻)

2017年2月22日

現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集


現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集 朝日新聞社

 桶谷秀昭氏の序文より抜粋でアップさせていただきました。
句集「少年~猪羊集までを網羅」した朝日新聞社・全16巻の14巻目です。前半は金子兜太、後半は高柳重信の構成となっています。1984年刊行ですから約30年前の普及版句集でアマゾンでは 中古が買えますがもう絶版です。この句集の作家たちはみな鬼籍に入り活躍中は金子先生だけです。先生のますますの長寿を祈りつつアップしました。

序    金子兜太の含羞  桶谷 秀昭
 <Wikipediaへリンク>
 金子兜太には過剰なまでの含羞があり、それを処理するのにときにつけらかんとした単純さや粗奔の偽態をとるのではないかと思はせるところがある。
みづから云ひ、人も云ふ、その俳句における精神に対立する肉体の強調と、感受性の氾濫を断ち切る意志との逆説的な結びつきは、そのことを暗に語つてゐるといふ気がする。
 敗戦のとき。配属されてゐたトラック島から帰還する船中の二句がある。
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    (強調、引用者)
 これらの句のモチイフに強くはたらいてゐるのは、戦場の死者にたいする生き残った者の負ひ目の感情であらうが、それを「置きて去る」といひ、海原の果へ流れて行く雲や、うなだれ悲しみ伏すやうな雲のかたちを、・・・・など云ひ切って、感情移入を断ち切るのである。
 もしもだれかがトラック島の体験をたづねたなら、土方をやってたのよ、土人といふのはみな扁平足だな、海辺で糞をすると蟹が見てたな、などと云って、聞き手の不満さうな、あるひは唖然とした表情からやや視線をそらして、うん、うんと二度ほど合点する。
   流れ星蚊帳を剌すかに流れけり
といふやうな心情体験は呑み込んでしまふだらう。
  句集『少年』は昭和三十年の発行当時、読者の眼に戦後体験の活力にあふれた第二部と第三部を中心とする印象は動かなかったであらう。  
  夏草より煙突生え抜け権力絶つ 
  墓地は焼跡嬋肉片のごと樹樹に 
  霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ
  奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
 かういふ句はまさに「戦後」そのものである。これらは、一つに俳句第二芸術論といった批判にたいしての、伝統的短詩型文学の変革の意志において、二つに戦前の自己の感性、思考の否定において屹立してゐる。しかし戦後四十年が過ぎた今日、『少年』をあらためて読み返してみると、第一部の戦前の句が以前よりはるかに不易の姿でその意味を問ひかけてくる感を否定できない。
あとがき  金子兜太
 私は二十歳のときに俳句をつくりはじめたのだが、以来ほぼ十五年間
の句が、『少年』と『生長』に網羅されている。いま、両句集から句を
抄出していると次次に当時のことがおもいだされてきて、抄出句数が増
えてしまうことを抑えることができない。学生時代のこと、それから
戦地のミクロネシアはトラック島にゆき、そこで終戦をむかえたこと。

帰国してサラリーマン生活にはいり、組合運動に参加したこと。そして、
福島、神戸、長崎と勤め先の支店を歩いたこと。句がその住んでいた土
地の名で、順を追ってまとめてあることも、私のおもい出を刺戟して
やまない。

 私の句作は十五年戦争下の学生生活のなかではじまっている。父・
伊昔紅が水原秋櫻子主宰「馬酔木」で熱心に句作りしていて、「新興」
俳句の雰囲気が少青年期の私に影響していたことや、いまもその人を
俳句の師としている加藤楸邨と、中村草田男、全国学生俳誌「成層圏」
を編集していた竹下龍骨の母・しづの女――この三先達の作品が私に
魅力であり、俳句の可能性までも感じさせたこと、さては旧制高校の
一年先輩に出澤三太(俳名珊太郎)という奇才がいたことだなどが、
私を俳句に結び付けた理由になるのだが、同時に私か〈感性の化物〉
のごとく、ただぶらぶらとと毎日を流していたことも理由のなか
にはいる。

 私は戦争便乗あるいは謳歌の教説には体質的にといってよいく
らいに反撥感を覚えていたのだが、そのくせどこかで民族防衛のた
めには止むなしとおもい、戦闘には参加してみたいなどとおもって
いたのである。その曖昧さ自体がすでにあまりに感性的だったのだ。

 作句第一号が「成長」の「白梅や老子無心の旅に住む」で、これ
を句会におそるおそるだしたところ、妙に褒められたことが深入り
のきっかけになるのだが、〈感性の化物〉に「漂泊」へのおもいが
住みついていたものらしい。
その時期、尾崎放哉について小文を書き、小林一茶や種田山頭火に
関心をもっていた。

 トラック島での体験が、戦後の私の生き方からこの化物を追い
だす方向に向わせるのだが、俳句と社会性の問題に私か積極的に
関わっていったのもの現われだった。「俳句の造型について」を
書き、方法論を固めつつ、私は現在唯今の自己表現をこの詩形に
もろに投入しようとしていた。

 そのため欧詩の詩法をも吸収して修辞を工夫した。やがて
「前衛俳句」という呼び方がジャーナリズムからおこなわれるよ
うになり、私もその一群のなかにいて、『金子兜太句集』から
『早春展墓』あたりまでがその営みの殊に直接的な時期と見てよい。

「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」などとつくり、長崎では、
「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」とか、「華麗な墓原女陰あら
わに村眠り」の句もある。東京に戻ってからも、「霧の村石を
投らば父母散らん」「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」「暗黒や
関東平野に火事一つ」「犬一猫二われら三人被爆せず」「骨の鮭
鴉もダケカンバも骨だ」などなど懐しい句がずいぶんある。また
「赤い犀」一連は実験作として忘れがたいものの一つ。

 その間、「朝はじまる海へ突込む顯の死」とか、「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」などで明確におもいだすのが、
〈俳句専念〉を決めたときの自分の心意だが、東京に戻って、
俳句同人誌「海程」を創刊したのが昭和三十七年(一九六二
)たった。

 そして、その時期ぐらいから、小林一茶を通じて古典の世界を
覗くようになり、一茶や山頭火を見つめながら、ふたたび「漂泊」
を考えるようにもなった。古典からは「俳諧」というわが国短詩
形の貴重な伝承資産を学び、私なりにこれを〈情(ふたりごころ)
を伝える工夫のさまざまな態〉と解し季題をもこのなかに含めて
いる。古典がこころというとき「心」と「情」を書き分けてい
るのを知って、私は「心」を<ひとりごころ>、情」を<ふた
りごころ>と受け取っているのである。五七調最短詩形と
「俳諧」を十分に活かしながら唯今の自己表現をおこなう方向――

私のこの指向が成熟してゆくのは、勤め先を定年で辞める前後
からで、句集『旅次抄録』以降の句にその営みが目立つ。金子
は前衛ではない、などといわれはじめるのも、その頃あたり
からだった。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」などに俳諧
ありと自負す。

 また、「漂泊」を感性としてのみ受け取るのでなく、
〈この世(俗)に生きるものの心底〉において捉えるようにな
るのは、「俳諧」自覚よりすこし早い。そして〈定住漂泊〉を
思念L、定住にかかわりつつ、〈土〉をおもい、〈ふるさと〉を
思想し、〈風土とは肉体なり〉とまで考えるようにになる。
〈土〉と〈体 からだ〉は私にとっては貴重な思考原点であって、
それは五七調定型を支え、「俳諧」を肥やしてきたものも通
うとおもう。

 偶然といおうか、定住漂泊を思念する頃から、旅の機会が
増えている。
そして、そのはじめの時期の、津軽十三や竜飛、下北半島な
どの東北地方への旅の句(『蜿蜿』所収)がいまでもいちばん
懐しい。十三での「人体冷えて東北白い花盛り」などは愛誦
自句の一つ。

 また、ふるさとである山国秩父(埼玉県)の句も増えている。
「霧深の秩父山中繭こぼれ」とか「山国の橡の木大なり人影だよ」
「猪がきて空気を食べる春の峠」などとつくりつつ、また、
「あきらかに鴨の群あり山峡漂泊」とか、「日の夕べ天空を
去る一狐かな」ともつくる。

 抄出句集最後の題名『猪羊集』は、私が羊年の生れで、しかも
猪どもの走り廻る山国育ちというところからきている。そういえば、
最初期に、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」があった。秩父の
人から色紙を書けといわれると、いまでもこの句を書くことが
多いのである。
                  金子兜太

2017.2.23過去の金子兜太のデーターが未整理のため見直しています。管理人

「わが戦後俳句史」金子兜太


1985年2月刊 岩波新書   842円
目  次

「歳時記」いろいろ

          
現代俳句歳時記――1997刊 編者・金子兜太 チクマ秀版社
春、夏、秋、冬、新年の5種類に加えて「雑 ぞう」のがある。例句は明治以降の近、現代俳句に限定し特に昭和後期の作品に傾けて選んだ。一つのアンソロジーとしても読んでもらいたい。
 春日 春日 春陽 春日影 春の朝日、春の夕日 春の入日
 春日向、春の太陽を指す場合(天文)と、春の一日を指す場合(時候)がある。
のびちぢむ北国の春日の言葉       古田 吉乗
父の春日の牛きて父とあそぶ世ぞ     阿部 完市
灰の中に生きとる虫や春日影       中塚一碧楼
春落日しかし日暮れを急がない      金子 兜太

「他流試合」金子兜太×いとうせいこう


「他流試合」2001年4月 新潮社 1500E
まえがき いとうせいこう
一・俳句は「切れのかたまり」なり 
ニ・定型は「スピードを得るための仕組み」なり 
三・「新俳句」の新しさはここにあり 
四・アニミズムは「いのちそのもの」なり 
五・吟行はこうして楽しむべし 
終にわりに――「非人称の文字空間」に戯れる 
あとがき 金子兜太 

「放浪行乞 山頭火130句」金子兜太

1987年12月刊 集英社1200円
(放浪行乞は筑摩書房の金子兜太集3にあります)
第1章 放浪以前
第2章 行乞――山行水行
第3章 行乞――鉄鉢の中
第4章 基中一人
第5章 名残の放浪

うしろ姿のしぐれてゆくか
 昭和六年(一九三一)十二月二十二日、山頭火は第三回の行乞に出てゆく。ほとんどは北九州を歩き、やがて山口県にはいり、故郷の地に近づいてゆく。その最初の作として取り上げたいのが十二月三十一日飯塚町(現、飯塚市)で書きとめたこの句だ。

2017年2月20日

「むしかりの花」金子皆子


1988年4月刊 卯辰山文庫

新緑、そしてむしかりの花  金子兜太

 金子皆子の句作は、昭和二十三年(一九四八)の、

  新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)

にはじまると見てよいから、句歴四十年ということになる。この前年に私たちは結婚し、翌年生れた長男が真土(まつち)。私が昼寝をしているあいたに、私の父と皆子で相談して決めてしまった名前で、この名のせいか考古学を勉強して、唯今は四十歳寸前とは相成る。秋田から美人の嫁さんをむかえて、二人の男の子を育てている。そして、私たち夫婦と同居している。

 この句はそのときのものだが、それにしても「胎児育ててむわれ尊」とは気負ったものである。胎児と書いて「あこ」と読ませなくても、「吾子」でよかったろうと思うのに、正直に、お腹にいるこの子。というところが微笑ましい。

2017年2月19日

『俳句・短詩形の今日と創造』から旅の50句


*『俳句 短詩形の今日と創造』北洋社[1972年7月]1800円
俳句入門
1新しい美の展開、
2題材と言葉、
3描写からイメージへ
4俳句の形式とリズム
5存在の純粋衝動
俳句鑑賞 一般の句、中学生の俳句、一般の句

兜太・旅の句50
あおい熊釧路裏町立ちん坊         「北海道」
あおい熊チャペルの朝は乱打乱打
あおい熊冷えた海には人の唄
あおい熊毛蟹を食えば陰陰(ほとほと)
骨の鮭アイヌ三人水わたる
骨の鮭夜明けの雨に湖(うみ)の肉
骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて
骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ

兜太のエッセー「紅梅」

1988年 主婦の友社1200E
第1章 俳句の基本
第2章 俳句を実際に作る
第3章 俳句を鑑賞する
第4章 兜太歳時記
二月紅梅(兜太歳時記より)

 今年は紅梅の開花が早く、寒の初めに咲いた。そう話すと、それは「寒紅梅」(冬季語)だろう。春季語の紅梅とは種類が違うのだよ、と教えてくれる人がいるに相違ない。

たしかに、寒紅梅と紅梅は別物だが、私の家の二本は早春に咲く紅梅で、八重で蕾のうちから紅いから「未開紅(みかいこう)」という種類だろうと思う(確認したわけではないが)。

毎年、寒の終わりのころから咲いて、春の到来をいち早く伝えてくれる。それなのに今年は驚くくらい早かったのだ。暖気のせいか、梅の木そのものになにか変化があってのことか。それはともかく、紅梅が咲くと、私はきまって、小林一茶の次の句を思い出す。

  紅梅にほしておく也洗ひ猫

 日の光が玲瓏の感を加えて、冬のどことない圧迫感から解放されてゆく時期にふさわしい句と受けとっている。それというのも、「洗ひ猫」をそのまま体を洗われた猫と解しているからで、猫のやつ、いい気持ちで眠っているわい、と眺めている。

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