2016年12月10日

№3「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津 勉


秩父

日の夕べ天空を去る一狐かな     (『狡童』)

秩父事件の中心地帯である西谷(につやつ)は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。いや、そう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。

 僧といて柿の実と白鳥の話     (『旅次抄録』)
        
禅僧大光(たいこう)は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのかふつうで、あの生ぐさい味が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。しかしみょうに練れた味があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。
柿の季節は白鳥飛来の季節でもある。秩父盆地を南に向って流れる荒川べりにも、すでにだいぶ来ているようだ、と僧はいう。


山国や空にただよう花火殼     (『遊牧集』)

山国の大は花火が好きだ。秩父事件でも知られる吉田町は竜勢(りゅうせい)の打ちあげでも有名。秩父の人の暮らしは、周囲を里山で囲まれ、更にその向こう上武甲信との県境に連なる二千メートル級の連山によって南の空は限られている。空か狭い。そこに光のはじけるものを打ち上げたい気持ちはよく分かるのである。その花火殼が空にただよいつつ落ちてくる。花火の終わったあとのあっけなさ、空しさのようなものがいつまでも消えない。

山国の橡の木大なり人影だよ    (『遊牧集』

郷里の山国秩父、そこの里山の中腹に小屋を得て暮らしていた頃にできた作。歩いていると橡の大樹に出会う。20メートルをこえる高木もあり、その幹は太い。初夏咲く白花は美しく、私たちはその実を拾い、橡餅や橡団子をつくって食べる。里山に暮らす人たちには、仲間のようなあるいは兄貴のような存在と私には思えていた。だからこの大木が人影に見えることも珍しくはない。

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫    (『遊牧集』)

早春の三つの花、春を告げる黄の花、などと勝手に呼んで、まんさく、さんしゅゆ(山茱萸)、きぶしが咲くのを待つのか、毎年の慣わしのようになっている。
なかでもまんさくが早い(まんさくの語原は「まず咲く」がなまったものともいわれている)。――薄黄の、細くねじれた花が枝にかたまるように咲く様子は、ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じなのだが、もともとが山地の花だから、郷里の秩父盆地の谷間のあちこちで、この満作踊りを見受ける。そして、俳諧師小林一茶が書きとめていた「荒凡夫」という言い草が、ここの花によく合うともおもっている。


  秩父・雁坂峠
猪がきて空気を食べる春の峠    (『遊牧集』)

秩父音頭(むかしは盆唄だった)の歌詞のなかに父が作詞した「炭の俵をあむ手にひびがきれりや雁坂雪かぶる」がある。いまでは木炭が見直されているか、それでも炭俵をあむ手仕事を知る人は少いだろう。その手にひびがきれるころは冬。雁坂が雪で白くなる。子どものとき、祖父などが、雁坂は雪だなあ、冬だぜ、と言っていたのを思い出す。雁坂峠には栃本という集落があって、むかしは「秩父甲州往還」の関所だった。わたしは、以前に二度ほどそこに泊ったことがあるか、猪の話もいくどか聞いた。山畑を荒らす。その肉(山鯨ともいう)を食べると情がふかくなる。猛スピード。lその猪が、いまごろは峠にのこのこ出てきて、春の味の、澄んだ空気を腹いっぱい吸いこんで(いやいや、食べて)いるのだろう、とおもってぃる。

夏の山国母いてわれを与太と言う  『皆之』)

母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや104歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。

 
春落日しかし日暮れを急がない    (『両神』)

故郷の秩父の民宿に集って句会をやったとき、最終の会でこの句ができたのだが、夕暮れどきで、里山の中腹にある民宿の向かいの山の頂に夕日が近付いていた。春の落日は光芒をひろげて美しい。日暮れを引きのばすかのように、ゆっくりと落ちてゆく。その風景と向かい合って、この句あり。むろん、まだまだ歳はとらないよの気構え。
  

おおかみに螢が一つ付いていた   (『東国抄』)

七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は「土」なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を「産土」うぶすなと思い定めてきた。そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるか、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる。群のこともあり、個のこともある。個のとき、よく見ると螢が一つ付いていて、瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と螢、「いのち」の原始さながらにじつに静かに土に立つ。嵐山光三郎さんがこの句を読んで、「あんたの遺句だ」と言ったのを覚えて
いる。

おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民    (『東国抄』)

郷里の秩父(「産土」を代表する山として日頃敬愛している両神山(りょうがみやま)には、狼がたくさんいたと伝えられているが、土地の人たちが狼を龍神と呼ぶと聞いて、両神山の名もそこから決まってきたのではないか、と私は思ってきた。いま住んでいる熊谷からも晴れた日には台状の両神山が見える。いまでもその台状の頂に狼がいる、と思えてならない。

狼生く無時間を生きて咆哮     (『東国抄』)

狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)
                                       
言霊の脊梁山脈のさくら      (『日常』)

この脊梁山脈は、郷里秩父盆地の南に連なる二千メートル級の連山。陽光を遮って盆地を暗くしているのだが、春とともに桜も咲く。そして暗い山脈の山肌に点々と見える桜花には隠微な美しさとともに霊感のようなものが感じられてならない。言葉に宿っている不思議な霊感とはこれか、と思ったりする。



№2 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E

秩 父

 霧の夜のわが身に近く馬歩む     (『少年』)
                           
 学校の休暇で郷里の秩父に帰ったときの句。炭馬(すみうま)という、炭を 運び出す馬がたくさんいた。秩父街道を荷馬車がずいぶん動いていた。だ から、働いている馬は身近なもので、街道でも山径でも、よく出会った。
 並ぶようにして歩いていたこともある。実際は人が口輪を取っているのだ が、霧の夜などは殊に、馬体の温かみがしみじみ感じられて、そこに人を 感じないくらいだった。生きものどうしの何んとも言えぬ懐しさ親しさ。

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う   (『少年』)

 これも大学生時代の作品。夏休みに郷里に帰った際、寝起きしていた蔵座 敷の窓に蛾が飛んできた。そのときのもの。大きな真っ赤な蛾の眼。それが 光線の変化の加減でキラリと光る。私は山国秩父の育ちなので、あこがれは 海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の 夢があった、と言ってよい。娥の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ

曼珠沙華どれ屯腹出し秩父の子   (『少年』)

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いない。

 朝日煙る手中の蚕妻に示す      (『少年』)

トラック島から帰った翌年昭和22年(1947)の4月、塩谷みな子と結婚。新婚旅行などは夢の夢の頃で、小生の実家で初夜を過ごし、朝、二人で近所を散歩した。農家はどこも養蚕の時期で、親戚の農家に立ち寄って、その様子をみな子に見せ、蚕を手にとって、これで秩父の農家は現金収入の大半を得ているのだ、貴重な生きものなんだ、と説明した。「示す」に、「これが秩父だ」、の気持ちを込めていた。

裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな    (『生長』)

青少年時こんな風景にいつも出会っていた。ちょうど親戚の家に行ったときの句で、秩父鉄道沿いにあり、裏口に線路が見えている風景と、蚕飼が進んでいる家の中のざわついている雰囲気と。郷里の匂いがいっぱいに伝わ兮蚕飼は当時の秩父にとって唯一といっていい生業だった。

霧の村石を投うらば父母散らん     (『蜿蜿』えんえん

「霧の村」は、私の育った秩父盆地(埼玉県西部)の皆野町。山国秩父は霧がふかい。高度成長期と言われている昭和三、四十年代のある日、私か訪れたときの皆野も霧のなかだった。ボーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうなあ、と、ふと思う。経済の高度成長によって、都市は膨らみ、地方(農山村)は崩壊していった時期だ。山村の共同体など一たまりもない。老いた両親はそれに流されるままだ、と。

山峡に沢蟹の華微かなり      (『早春展墓』)

郷里の山国秩父に、明治17年(1884)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投入されるほどの大事件だった。その中心は西谷(にしやつ)と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな  (『狡童』)

菩薩寺である秩父は長瀞町本野上の総持寺の境内にこの句碑を置いてもらっている。私の最初の句碑である。秩父盆地の西側の山裾に張り付いたお寺で、だから朝日がすばらしい。東の里山の重なりから顔を出した太陽が真正面から照射するのだ。まさに「ぎらぎらの朝日子照らす」。これが自然というもの、との思いなので自然(じねん)の読みは採らない。呉音のじねんでは「おのずからそうあること」式の理屈が這入り込む感じで嫌なのだ。私は他界した妻のみな子を〈自然の児〉と思っていたので、彼女がこの句にしなさいと言ったとき、直ぐ受け入れたのである。むろん、初めから彼女の読みはしぜん。



№1 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

秩父こそ金子兜太の源と思います。
詩人の正津勉氏が編んだ「日本行脚俳句旅」  の秩父・熊谷編を何回
かに分けてアップします。本当にコンパクトなのに過不足無く纏められ
ていると思いました。管理人・ 竹丸
アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E
秩父は、兜太の郷里だ。
大正8年(1919)9月23日、埼玉県小川町の母の実家で生まれ、秩父盆地皆野町の父の家で育つ。父元春(医師、俳号・井昔紅)母はるの第一子。15年、皆野小学校に入学。昭和7年(1933)、熊谷中学校(現、熊谷高校)に入学。

11年、2.26事件を雪中に知る。秩父事件についての古老からの聞き書きを校友会雑誌に出す。

 熊谷は、現在の在所だ。
 昭和42年(1967)、47歳。7月、転居。これには「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という妻みな子の託宣あったと。いま一つ、ここを終の棲家に選んだの、もちろん郷里の秩父が間近だからだ。

 秩父と、熊谷と、ここでの句が多く採られているうえに、じつに簡にして、ズバッと要を得た解がほどこされている。編者にはそれにくわえて付言するほどのなにもない。いや、しかしただ一つだけど、ある。

 それは両神山である。兜太の産土の山だ。わたしは山遊びをする、ついては両神山行のしだい、をここに端折ってみる。両神を歩くことはそう、そっくりそのまま、兜太を辿ることだから。

 両神山。秩父山地の北端に聳える霊峰。日向大谷は登り囗の両神山荘。宿の玄関のそこに貼られた「狼の護符」? 歩き出すと石の鳥居と小さな祠があり、両神山を開いたという観藏行者の石像を安置する。近くに「矜迦羅童子・ごんがらどうじ」と刻まれた丁目石の一番が立つ。ここから清滝まで36童子の名が刻まれた丁目石が、1丁(約110メートル)ごとに立つ。

ここにいます童子らは不動明王の眷族で登拝者の守護にあたるとか。さきざきに多く石像や石碑が立っている。丁目石に導かれて、薄川と七滝沢の合流点、会所へ。巨大な岩の間に石像が立つ八海山へ。急坂を登り弘法の井戸へ。

  両神山は補陀落初日沈むところ       兜太

 句集の題「両神」は、秩父の山・両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山 頂近い集落平草にゆき、この山を正面から眺めることが多い。

……。あの山は補陀落に  違いない、秩父札所三十四ヶ寺、板東三十三ヶ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めている。
                    (『両神』後記)

 補陀落、観世音菩薩が住む山。ここまで目にしてきた像や碑や山に籠もる気からそれと感じられる。だいたい山名から由緒ありげだ。イザナギ、イザナミの二神を祀ることから呼ぶという、「龍神を祀る山」が転じた、などなど諸説あるとか……。

両神神社の本社裏手の御嶽神社の奥社。両社に鎮座まします、狛犬もどき、独特の風体をした、これが山犬。ということは狼、何でそんなまた? これに関わって謎めいた句がある。

  語り継ぐ白狼のことわれら老いで        兜太

「白狼」? おそらく秩父三山の両神山、武甲山、三峰山ほか、広く奥秩父や奥多摩の山々に伝わる、日本武尊東夷征伐の際に、山犬が道案内したという伝説にちなむ。

だがまたべつの記憶にも関わることをその底に含意しているとみられる。秩父事件である。明治17年(1884)、この大規模な農民蜂起の舞台は、ここ秩父の里山からじつに信州は八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯である。

いまここで詳しくしないが、このとき立ち上がった困民党を導いたのが、ほかならぬ
「白狼」と擬され語り継がれている。そのように解せるのでは。「白狼」? それはそして兜太自身でこそないか。




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