2016年10月28日

兜太句を味わう「夕狩の野の水たまりこそ黒瞳 」


夕狩の野の水たまりこそ黒瞳          金子兜太

 「枯野を見る会」がある、と書いたことがあるが、枯野とまではいかないものの、冬の訪れをひしひしと感じる夕ぐれどきの野に立っていたとき、この句ができた。

銃の狩猟ではなく、古き時代の、おおぜいが鳴りもの入りで鳥獣を追い出していく狩りの風景を思い浮かべていたのである。その声が遠のき、野には夕空を映した水たまりだけが残っていた。枯れ色のなかに、黒瞳のように。

 黒瞳はその場での感覚から生れたことばだが、その感覚のおくに、青年期に体験した戦地での記憶がしみこんでいることに気付く。それは飢餓で死んでいった人たちの眼だ。やせ細った顔にぼんやりと眼がひらかれていて、なにを訴えるでもなく、いたずらに澄んでいた。胸のなかにはさまざまがあるはずなのに、なにも伝わってこない。ただ澄むだけの眼。黒瞳はすこし甘いが、しかし黒瞳。
 
自分の句のこんな記憶にこだわっていたとき、片山淳子さんの句、「先頭はもうほうたるになっている」に出会った。

 所属してい参現代俳句協会の全国大会での受賞作だったが、わたしは出来のよいほたるがりの句といったていどに読んでいたこしかしヽ片山さんが受賞のあいさつのなかで、最近亡くした姉への思いをたくしてつくった、と話しているのをきいて、わたしはにわかに感銘したのである。ほたるは姉のたましいでもあるのだ。水たまりの黒瞳に、そのほたるの火が映る思い。 俳句には不思議な出会いがある。



飯食えば蛇来て穴に入りにけり     金子兜太

 飯を食べていたら、まるでそれが合図のように蛇がするするとやってきて、穴に入った、ということだが、じっさいは、食事中に偶然、秋の蛇を見ただけのことで、誇張である。

 しかし、このとき、自分という人間も蛇も同じ自然界の生もの、飯を食うことも穴に入ることも同じ生のいとなみ、というおもいにとらJれて、生きものどうしのえもいわれぬ親密感のなかにいたことは事実だった。そのための誇張である。

 蛇は秋もふかまると穴に入って冬眠する。数匹から数十匹が寄りあつまり、からみ合っているという。穴に入らないのもいて、穴惑いという季語もあるが、わたしの見たのはそれだったのかもしれない。

 とにかく、蛇は不気味かつ不思議な生きもので、嫌う人が多い。ことに女性の俳句で蛇が好きだとかいたものに出会った記憶がない。しかしわたしは蛇が嫌いではない。とくに机の引き出しなどで飼う気はないが、石をぶつけて追いはらう気持など毛頭ない。

 小学低学年のころ、ヤマカガシだったか手に巻きつけて、担任の女性の先生の前にぬっと差し出して、親しみを示したことがあった。先生はぎょっとして身を引いたあと、あらかわいいわね、といったのだから、あんがい蛇好きだったのかもしれない。いや、教育のためのご配慮だったのかもしれぬ。


竹丸ひとり合点日記
http://takemarunikki.blogspot.jp/

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