2016年6月4日

句集 『下弦の月』 金子皆子



左・皆子さん 中・真土さん 右金子先生

句集『下弦の月』あとかきより
平成19年(2007年)二月二十四日、一周忌を集す。
真土、智佳子、総持寺の墓地に「金子家之墓」を置く。初代金子みな子(皆子)ここに眠る。墓所明るし。 金子兜太


金子皆子先生は十年ちかく癌を病んでいましたが平成十八年三月二日永眠。
現代俳句協会賞、日本詩歌俳句大賞受賞。




「下弦の月」より抜粋(谷 佳紀選)

笛師に会う今生いまも花の季(とき)

領巾(ひれ)のごと赤き絹持つ想と燕と

歩を移し歩を返し笛師月蝕

青葡萄アレクサンドリア涙溢れくる

喀血ありハイビスカスの大輪三つ

百日紅花につづきます幻聴

夕月を水色の薔薇に埋める

長い霧笛よ唇は水面なのだから

秋の長雨貝殻や押し花や恋文

山吹黄葉心信親深母ごころ

 義母逝く 百四歳
水となる義母天空は水ですよ

馬美し馬体美しと帰燕

インド人カレー屋それからそれから瑞穂の国

 中国雲南省、東巴(トンバ)村に樹齢千年のガジュマルの大樹ありと聞く。情樹という。情樹とやわたし飛んでゆき隠れましょう

臘梅や水色の空と遠さと

山椿忘却とや黙示なりとや

雪の小鳥は何処で鳴いたのか雪なり

消えることに気がつくお化け雪しんしん

寒三日月遠くに遠くに添い寝して

寒三日月謝りますお化け大好き

ちちろ鳴く右目左目ばらばらなり

想うべし馥郁と臘梅の声なり

鶫の塒知りたし知りたしと眠り

メールの中鶫は行ったり来たりして

紅梅の花の大揺れ花の文字

花の期の長き金樓梅誰方を隠す

雉子鳩と鶫我には祈りあり

声嗄れし人を思いて春菜摘み

心二つに先ず立ち上がる人形

主治医に投げん日向水木の花滴(しずく)

孤独魔が襲いくるなり春の家

山椿孤独魔と仲よしという便り(メール)

頼もしき亡父はどこに花馬酔木

寒紅梅小鳥には悲しみが寄り添う

蠟梅に小鳥落ちてゆく遊びか

ショパン鳴り水滴無数光(こう)早春

少し眠らん臘梅の視野から抜けて

健康こそ遠くに声をかけたき常緑樹(ときわぎ)

いんげん生姜の匂いの中で殿方待つ

一日霧の日幾人(いくたり)も知人が浮かぶ

赤い靴と青いズボンに鳥の声

カリントウつまむ懐かしさになぜか智佳子

とねりことねりこああ大好きで涙が騒ぐ

恋人がいますもうすぐきます四ひらよ

朝日を走る主治医と共に今日が始まる

霧深よ花ぽとり次々にまた咲く

ただ人を待つ霧の白粥をすすり

こんなに霧深宿舎はまるで白衣を着て

赤い画鋲青い画鋲点滴ふと痛む

箸を割る夕食の智佳子霧立ちぬ

金子皆子さんの「生」           

  句集「下弦の月」感想          谷 佳紀 

遺句集「下弦の月」は「花恋」を刊行してから一年余の作品をまとめたものである。わずか一年なのだから「花恋」の感想とそんなに変わらないだろうと思った。ところが印象がまったく違うのだ。なるほどと思ったのは、「花恋」は発病に驚き、うろたえ、闘う決意をし、という癌との闘いの記録集でもある。それに対し「下弦の月」は死期が否応もなく迫ってきていることを自覚し、日々をいとおしむ生活へと心を向けざるを得なくなった最後の一年余の記録集だ。ここには「花恋」にみられる外に向かう激情はない。今この瞬間の生命のありがたさを言葉にする女性がいるのであり、美しいものに甘えその感情を言葉にする女性がいるのであるが、その心底は、誰とも共有できない死を抱えているが故の孤独に耐えなければならないうめき声とも言うべき表現なのである。

    山吹黄葉心信親深母ごころ

 「心信親深」は「しんしんしんしん」と読むのだろう。「しんしんしんしん」と読むにつれ、「山吹黄葉」に染み込んでゆく心情が響き、「心信親深」という文字は「母ごころ」の深さを伝えてやまない。一文字一文字言葉の意味を感じつつ書いてゆく胸中に、二十七歳の時に亡くなられたお母さんを偲び、助けて下さいと願う思いが行き来していただろうし、昨今の子殺し親殺しの多さを悲しむ思いもあったのではないだろうか。

    長い霧笛よ唇は水面なのだから

 2004年11月、つまり「花恋」刊行の前月に書かれている。唇というものは水面であると言う。これはどういうことなのだろう。唇形の水面、水面に浮かんでいる唇を思い浮かべてもこの作品を感受できない。それでいながらどうにも惹かれる作品で、この生々しい肉体感覚は何だろうと思う。濃い霧の中にいて長い霧笛を聞く。回りはすべて茫洋と霧に消され景色はない。足もとにかすかに見える水面があり、流れる霧に触れる唇の感触がある。その時ふと「唇は水面なのだから」と感じた。この感じが何を意味するのか意識できないが、何かを語っていると確信し書きとめる。私はそのように読みとり、その後の作品を読むのであった。

 中国雲南省、東巴(トンバ)村に樹齢千年のガジュマルの大樹ありと聞く。情樹という

情樹とやわたし飛んでゆき隠れましょう

とねりことねりこああ大好きで涙が騒ぐ

恋人がいますもうすぐ来ます四ひらよ

 このような作品は仮想恋人と戯れている初初しさ、切なさ、可愛らしさがあり、病の現状がどうであれ、楽しく遊んでいますね、と一緒に笑いあえる。

    孤独魔が襲いくるなり春の家

    山椿孤独魔と仲よしという便り(メール)

    一日霧の日幾人(いくたり)も知人が浮かぶ

    ただ人を待つ霧の白粥をすすり

 孤独を直接語る作品は胸を締め付けてくるが、慰めの言葉を持てる。慰めの言葉が心を満たすことはないにしても、同感し、とりあえずは元気づけることができる。

    消えることに気がつくお化け雪しんしん

    寒三日月謝りますお化け大好き

 淋しさがつのるとお化けと遊ぶ。この発想自体がすごいとは言え、浮世絵に見られるようにお化けは幽霊と違って怖いだけでなく、笑いがあり親しめる存在でもある。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる化け物が、境港市の水木しげるロードに現れ人気を集めている。お化けとでも遊べる天真爛漫さと読むことができる。その根には孤独感があるのだが、孤独に閉じこもらずそれを紛らわそうと心が動いている。

    臘梅や水色の空と遠さと

    雪の小鳥は何処で鳴いたのか雪なり

 臘梅と空の青さ。遠近法を生かした印象鮮明の景だが表現の中心は「空の遠さ」にある。

静かに雪が降っている。ふいに小鳥の鳴き声が聞こえた。何処で鳴いているのか姿を探したが見つからない。相変わらず雪が降っているだけ。句の中心は鳴き声にあるようだが実際は雪が降る静けさにある。おそらくこの静けさと時間が止まったような遥けさに永遠を感じているに違いない。

 このように「長い霧笛よ唇は水面なのだから」以後の作品を読み、再度この作品に戻ると、最初に読んだときにはわからなかった何かがわかるような気がしてくるのだった。

 霧に捲かれ影のような姿、しかしながら私たちの心に映る姿は明確であり淋しい。「長い霧笛」を聞きつつ「唇」の紅さ一点に集中している生命の意識、仮想恋愛の美しさ、しかしながら所詮仮想の世界、「唇は水面」だといううたかた、「長い霧笛」はそれを象徴するように物悲しい長い尾を引き消えてゆく。結局ここに残るのは、このように書かざるを得ない佇まいの厳しさであり孤独である。そしてこの作品以後の多くが、ここに含まれている要素のそれぞれを具体化した作品に見えてくる。もちろんそのようなことを皆子さんが思って表現しているはずはなく、私の勝手な読みにすぎないのだが、恋も孤独も永遠もこの作品に含まれ呆然とたたずんでいる姿を見れば、そのように思うしかないだろうと確信するのである。

 皆子さんは枯淡の境地に興味はない。死はもう避けられないと覚悟はしても生を楽しむことに力を尽くす。

    壊れた人形ではありません萩の花

    メールのなか鶫は行ったり来たりして

    精悍なり隼口惜しく美しく

    雉子鳩と鶫我には祈りあり

    鴨の声老人を突き放して去りぬ

    グレープフルーツ一房になった湯浴み

    フォト増えていく小さなハートいっぱい

 老いは否定しようもない現実であろうと「壊れた人形では」ないと抗議する。隼の生の美しさを羨やみ口惜しがる。鳴き声が聞こえるだけの鴨の姿を探したのに、とどめの一声で姿を見せずに去ってしまった鴨。老人を突き放したのだと恨む、強い自己愛と悲哀。グレープフルーツ一房になってしまってもその一房はみずみずしいのだと身をいたわる。メールであろうと写真であろうと、可能なものは何でも楽しもうという意欲は孤独と向き合い、死と向き合っているだけに真剣な生きる行為であっただろう。

 悟りを得て心の平安を保つことは凡人の理想であるが、俳句を書くことは自分の命をいつくしむことだと、俳人金子皆子であり続けた生き方も、見事なものだと言えるのではないだろうか。




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