2016年2月25日

金子兜太の世界「自作ノート」

  
亡き皆子夫人と
朝日けぶる手中の蚕妻に示す      兜太

 昭和二十一年(一九四六年)の晩秋に、トラック島から
帰国し、焼けの野原の束京小石川に原子公平を訪ねたこと
をおもいだす。そのとき、「墓地も焼跡蝉肉片のごと樹樹
に」「鰯雲子供等さえも地に跼み」を得た。

その翌年、結婚。新婚旅行など望めない時期なので、毎
日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっ
ていた。その途中、農家の飼屋に立ち寄ったときの句。


 蚕礼讃の気持である。朝日けぶる手中の蚕というとらえ
かたに、それがあり、だから、「示す」といった身ぶり言
語がおのずとでてきたのである。耕地のすくない山地農民
の生業といえば養蚕だった。蚕サマ神サマの生活感情が、
直接養蚕にたずさわったことのない私のからだにもしみこ
んでいて、蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、こ
れからの生活への意思表明でもあった。

 私には、妻ということばを詠みこんだ句が多く、妻俳句
をたどることによって、自分史が書けるようにもおもって
いるほどである。この種の私情密なることばが好きで、肉
親や友、さては日常ということばまでも多用している。理
しては、私情にも日常にも厳しいが、情としては愛好を
いつわれないわけで、この真意を無理に隠さずにきた。い
や、その情をいたわりつつ、理を貫く方向で考えてきたつ
もりである。

 したがって、そのころの郷里の句会で、もう妻やチチ(
(でもないでしょう、こんなことばを句にもちこんでいる
あいだは、私小説的な世界から抜けられませんよ、と批判
されたことがあったが、それを肯定することができなかっ
た。そのくせ、自分でも同じことを考えていて、後になっ
て、「波郷と楸邨」とか「楸邨論断片」とかいった文章で、
そのことを詰めて書いているのだが、その人の意見には賛
成できなかったのである。理由は簡単で、妻やチチ((拒
絶の近代化思考の形式性が、目に見えていたからである。

それを私の感情が直感していたといってもよい。当時の近
代化指向の性急な面が、こういう俳句論議にも反映してい
たわけだが、それだけに、こんどは一転して、反近代化思
考による反撃を喰うことになる。しかも、その反近代化思
考もまた、性急で形式的で、近代化論の中核である〈個の
内部秩序の確立〉まで埋葬しかねないとあっては、またな
にをかいわんや。

暗闇の下山くちびるをぶ厚くし           兜太

 福島市に二年半ほどいたときの句で、吾妻山を、夜
とりで下山した。いまのように自動車の走れる道はなく、
文字どおりの山路を、足もとを見つめながら下りていった
のだが、しかし、しだいに慣れて弾みがつく。からだが熱
くなり、肉がふくれてくる感じで、やや突きだし気味にし
ていた唇も、部厚くふくれてきて、意力の野性をおびた昂
揚をおぼえていた。〈王体〉ということばが、身に即して
わかるのも、こんなときだ。

 この句の前後に、どうしても忘れられない句が三つあ
る。一つは、帰国後間もなく、結婚直前の「死にし骨は海
に捨つべし沢庵噛む」。あとの二つは、福島から神戸に移
ってからの、「朝はじまる海へ突込む鴎の死」と「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」で、ともに決断の心意表明であ
る。そして、これらの句を思いだすとき、かならず掲記の
「暗闇」の句が、野性にぬれてとびだしてくるのである。
飛騨の句碑の前で皆子夫人と


もまれ漂う湾口の筵夜の造船            兜太

 神戸港の防波堤には、昼間はたくさんの鷆がとよってい
て、防波堤にそって湾口にくると、潮が蒼黒く厚ぼったく
盛りあかっていた。防波堤のなかの潮は、箱庭のなかのよ
うに人工的でやさしかったが、湾口の潮だけは、獣のよう
に蠢いていた。

 そのなかに、筵が一枚、沈みきりもせず、むろん海上に
浮上もしないで、中途半端な状態で漂っていたのである。
それを見て帰った夜、この句ができたのだが、港につきだ
した造船会社のドックには、建造中の船がいて、夜は満艦
飾といえるほどの作業灯をつけていた。しかし、その灯が
映る湾口の潮のなかには、一枚の筵が、暗くもまれ漂って
いたのである。その筵の無気味さ、眼の強さ。

 当時、俳句における社会性とは何かについて活溌な論議
がおこなわれていたが、私は「社会性は態度の問題」と決
めて、自分の内部秩序〈主体〉の確立に意をそそいでい
た。〈王体の表現〉を俳句の方法としたのもこの時期であ
る。「銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく」とか、「夜の果
汁喉で吸う日本列島若し」「山上の妻白泡の貨物船」「強し
青年干潟に玉葱腐る日も」「白い人影はるばる田をゆく消
えぬために」「車窓より拳現われ旱魃田」などと多作して
いた時期でもある。

華麗な墓原女陰あらわに村眠り           兜太

 神尸から長崎に転勤して、二年半ほどいた。原爆被災の
中心部(爆心地)を歩きまわって、「彎曲し火傷し爆心地
のマラソン」「広場一面火を焚き牙むく空を殺す」などと、
原爆呪詛の句をつくり、併行的にキリシタン殉教の地への
想いをふかめていった。「殉教の島薄明に錆びゆく斧」「青
濁の沼ありしかキリシタン刑場」「司教にある蒼白の丘疾
風の鳥」などなど。この重層した想念のなかに掲記の句が
ある。

 野母半島をゆき、突端の脇岬にちかい海岸に、砂丘に似
た大きな丘を見た。その全体が墓地で、墓石も見事なもの
が多かった。このあたりは隠れキリシタンの地ともきいて
いたから、そのせいかとおもったが、あるいは、ついこの
あいだまで殷賑をきわめていた鰯漁の名残だったのかもし
れない。

 しかし一方では、鰯がこなくなった一帯の漁村は零落の
みちをたどり、村はさびれ、汚れていたのである。その極
端に対蹠的な情景-死のにぎわいと生の退廃の対照のな
かにいて、私は、退廃の生か燃やす、猥りがましくもまた
なまなましい性の日常をおもわないわけにはゆかなかっ
た。

 この句は、退廃の現実を描いただけで、それを捲さかえ
してゆく批評力に欠ける。したがって、この句じしんも退
廃している、と評した人がいたが、私にはその批評が貧し
いものにおもえてならなかった。退廃の現実を想像力豊か
に、ゆるぎなく書ききることこそ、最高の批評である。

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