2016年2月13日

兜太の語る俳人たち 『一茶の魅力』 

2016.2.3  520号 海程秀句【海人・海花・海童の同人作品】へリンクしています 


弟弥兵衛の屋敷(平成12年復元) 火災の後、弟が建てた屋敷を復元したもの
 一茶の人気は、日本国内ばかりでなく海外でも高く、近世から近代にかけての俳人のなかで、芭蕉はもっとも尊重され、一茶はもっとも親しまれている。
ここにきて子規の評価も高まっており、大いに親しまれてもいるが、その子規も句法の上では蕪村を多としつつ、実際に歩いていた道は、一茶が踏みしめていたそれだったのである。

 一茶が誰よりも親しまれている理由は、大きくまとめて二つある。一つは毎日の暮しの有り態を直かに俳句(当時の言い方では「発句」)に書いていたということで、日々の喜怒哀楽、愛憎、さては猥雑にいたるまでのさまざまが「日常実感」として書きとめられていたことにある。しかも、一茶は農家出身のズブの農民であり、旅が多かったこともあって、句には、土の匂いとともに、「我が星は上総の空をうろつくか」とか、「是がまあつひの栖か雪五尺」といった漂泊の心情がしみ込んでいた。「実感」は複雑で懐しいニュアンスを包含していたのである。

 俳句を、文芸としての構えでなく、素手でとらえた実感で支えていたということで、読んで分りやすく、なによりも親しみやすかったといえる。しかも、この姿勢が、芭蕉以降の俳句のながれに大きな変化を与えたことを見すごすことはできない。これを、俳句におけるリアリズムの始まりといい、近代俳句の出発ということは自由だが、一茶の出現によって、俳句が庶民生活の土壌にしっかりと根を張るようになったこと間違いない。

 今次大戦のあと間もなく、『俳句』四巻を上梓し、芭蕉、蕪村、一茶、子規の俳句を軸に総数二、六四五句を英訳し、海外とくにアメリカでの俳句への関心、愛好に大きく影響を与えた人にR・H・ブライスがいる。
そのブライスはこう書いていた。「蕪村は芭蕉に従い、子規は蕪村に従った。しかし芭蕉と一茶は誰の真似もせず、彼ら独自の道を歩んだ」と。芭蕉と一茶にのみ「独自の道」を見るブライスの目は確か、といえる。その一茶の道は、「日常実感」の土の上に敷かれていたのである。

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