2016年12月10日

№2 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E

秩 父

 霧の夜のわが身に近く馬歩む     (『少年』)
                           
 学校の休暇で郷里の秩父に帰ったときの句。炭馬(すみうま)という、炭を 運び出す馬がたくさんいた。秩父街道を荷馬車がずいぶん動いていた。だ から、働いている馬は身近なもので、街道でも山径でも、よく出会った。
 並ぶようにして歩いていたこともある。実際は人が口輪を取っているのだ が、霧の夜などは殊に、馬体の温かみがしみじみ感じられて、そこに人を 感じないくらいだった。生きものどうしの何んとも言えぬ懐しさ親しさ。

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う   (『少年』)

 これも大学生時代の作品。夏休みに郷里に帰った際、寝起きしていた蔵座 敷の窓に蛾が飛んできた。そのときのもの。大きな真っ赤な蛾の眼。それが 光線の変化の加減でキラリと光る。私は山国秩父の育ちなので、あこがれは 海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の 夢があった、と言ってよい。娥の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ

曼珠沙華どれ屯腹出し秩父の子   (『少年』)

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いない。

 朝日煙る手中の蚕妻に示す      (『少年』)

トラック島から帰った翌年昭和22年(1947)の4月、塩谷みな子と結婚。新婚旅行などは夢の夢の頃で、小生の実家で初夜を過ごし、朝、二人で近所を散歩した。農家はどこも養蚕の時期で、親戚の農家に立ち寄って、その様子をみな子に見せ、蚕を手にとって、これで秩父の農家は現金収入の大半を得ているのだ、貴重な生きものなんだ、と説明した。「示す」に、「これが秩父だ」、の気持ちを込めていた。

裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな    (『生長』)

青少年時こんな風景にいつも出会っていた。ちょうど親戚の家に行ったときの句で、秩父鉄道沿いにあり、裏口に線路が見えている風景と、蚕飼が進んでいる家の中のざわついている雰囲気と。郷里の匂いがいっぱいに伝わ兮蚕飼は当時の秩父にとって唯一といっていい生業だった。

霧の村石を投うらば父母散らん     (『蜿蜿』えんえん

「霧の村」は、私の育った秩父盆地(埼玉県西部)の皆野町。山国秩父は霧がふかい。高度成長期と言われている昭和三、四十年代のある日、私か訪れたときの皆野も霧のなかだった。ボーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうなあ、と、ふと思う。経済の高度成長によって、都市は膨らみ、地方(農山村)は崩壊していった時期だ。山村の共同体など一たまりもない。老いた両親はそれに流されるままだ、と。

山峡に沢蟹の華微かなり      (『早春展墓』)

郷里の山国秩父に、明治17年(1884)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投入されるほどの大事件だった。その中心は西谷(にしやつ)と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな  (『狡童』)

菩薩寺である秩父は長瀞町本野上の総持寺の境内にこの句碑を置いてもらっている。私の最初の句碑である。秩父盆地の西側の山裾に張り付いたお寺で、だから朝日がすばらしい。東の里山の重なりから顔を出した太陽が真正面から照射するのだ。まさに「ぎらぎらの朝日子照らす」。これが自然というもの、との思いなので自然(じねん)の読みは採らない。呉音のじねんでは「おのずからそうあること」式の理屈が這入り込む感じで嫌なのだ。私は他界した妻のみな子を〈自然の児〉と思っていたので、彼女がこの句にしなさいと言ったとき、直ぐ受け入れたのである。むろん、初めから彼女の読みはしぜん。



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