2016年12月20日

兜太の語る俳人たち 『水原 秋櫻子』

水原 秋櫻子 (みずはら  しゅうおうし)(1892~1981)
俳人、医学博士。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。
短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き
込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり離反、俳壇に
反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。
「馬酔木」主宰。


高嶺星蚕飼(こがい)の村は寝しづまり          水原秋櫻子

 秋櫻子句集『葛飾』(昭和5年・1930刊)所収。-この作品を逸早く私が記憶したのも、したがって気まぐれなことではなかったのである。 句集『葛飾』を父親の机上に見付けだして、なんとなく拾い読みしたのは、もう中学生(旧制)になってからのことだった。昭和7、8年(1932、3)の頃だったろうか。

 秋櫻子が、昭和6年(1931)に主宰誌『馬酔木』に「自然の真と文芸上の真」を書いて、『ホトトギス』から離れたとき、秩父谷の伊昔紅はただちに同調した。そして、馬酔木支部句会のようなものを毎月自宅で催して、ガリ版刷りの俳誌『若鮎』を、これも月刊で出していた。

まさに若鮎だった。句会に集まるのはおおむね青年から中年で、句会のあとはかならず酒宴を張り、そして口論し、ときには殴り合いまでした。
中学生の私には、その様子がまことに物珍しく、俳句とはこのように人間臭いものとして映り、かつ焼きついたのである。いま、若鮎たちも老いあるいは死んで往時の面影はないが、しかし存命の潮夜荒、黒沢宗三郎、浅賀爽吉、村田柿公、渡辺浮美竹といった人たちに会うと、私には当時の雰囲気が流れてくる。


 なお、『若鮎』を謄写版で刷っていた、岡紅梓も『若鮎』の一人だったが、ずっと前に他界した。
気ままに生きた男で、医者に厳重に止められていたにもかかわらず、焼酎と焼鳥を好んで止めず、心筋梗塞でコロリ往生した。その遺骸は脂ぎってつやつやしていて、とても死者とはおもえなかったことを覚えている。
紅梓の句に、〈霧霽(は)れて山毛欅の木の芽のいま芽ぶく〉があり、これが句会で大好評だったせいもあって、なにかといえば彼が口にしていたことを思い出す。

 そんな、いわば新興の空気を、中学生の私も肌で感じていたということなのである。だから、その中心の人物である秋櫻子の句集にもなんとない関心が動いて、拾い読みしたのだ。そして、蚕飼の句に行き当って、これはいいぞ、と覚えてしまった知識欲旺盛の頃である。いいとおもったものはダボハゼのように覚えてしまう。

 蚕飼の村は寝しずまり、という。本当だろうか、とおもう。寝しずまるはずはないのに。しかし、寝しずまり、といわれると、異常な静けさを感じて、これはふだん忙しさを極めている村だからだともおもう。つまり、超多忙の村を、この句は暗示しているのだ、とおもう。

 とにかく、異常な静けさを覚える。山高く、その山裾にひろがる村。それらすべてが黒黒としていて、ただ空だけがすこし明るい。仄明い夜空は山と村の黒影を際立たせてその山頂のところに星を点じている。その星のきらめくことよ。小さな粒にすぎないのに、きらめくことよ。

 高嶺颪、高嶺桜、高嶺撫子などとあるが、高嶺星はあるのか、とおもうが、これはじつにいい言葉だ。中学生のときはそんな疑問をもつはずもないから、いい言葉として覚え込んでいた。こんな言葉があっさり遣える人はどんな人なのか。たしかにたいした人にちがいない、などとおもいながら。

 水原秋櫻子の名を聡と記憶するようになったのはこの時期からである。そして、東京に住んでいながら、蚕飼の俳句をつくっていることにもなんとなく感心していたようである。いまにしておもうと、『馬酔木』の新風は、秩父山里に暮す人たちに、〈暮しの俳句〉をおもうさまつくることを伝えたのだ。

「客観写生」から「花鳥諷詠」の路線上からはなかなか伝おりにくい(むしろ違和感を伴いがちな)ことを、秋櫻子の「文芸上の真」はあっさりと伝えてくれていたのである。




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