2016年12月10日

№1 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

秩父こそ金子兜太の源と思います。
詩人の正津勉氏が編んだ「日本行脚俳句旅」  の秩父・熊谷編を何回
かに分けてアップします。本当にコンパクトなのに過不足無く纏められ
ていると思いました。管理人・ 竹丸
アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E
秩父は、兜太の郷里だ。
大正8年(1919)9月23日、埼玉県小川町の母の実家で生まれ、秩父盆地皆野町の父の家で育つ。父元春(医師、俳号・井昔紅)母はるの第一子。15年、皆野小学校に入学。昭和7年(1933)、熊谷中学校(現、熊谷高校)に入学。

11年、2.26事件を雪中に知る。秩父事件についての古老からの聞き書きを校友会雑誌に出す。

 熊谷は、現在の在所だ。
 昭和42年(1967)、47歳。7月、転居。これには「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という妻みな子の託宣あったと。いま一つ、ここを終の棲家に選んだの、もちろん郷里の秩父が間近だからだ。

 秩父と、熊谷と、ここでの句が多く採られているうえに、じつに簡にして、ズバッと要を得た解がほどこされている。編者にはそれにくわえて付言するほどのなにもない。いや、しかしただ一つだけど、ある。

 それは両神山である。兜太の産土の山だ。わたしは山遊びをする、ついては両神山行のしだい、をここに端折ってみる。両神を歩くことはそう、そっくりそのまま、兜太を辿ることだから。

 両神山。秩父山地の北端に聳える霊峰。日向大谷は登り囗の両神山荘。宿の玄関のそこに貼られた「狼の護符」? 歩き出すと石の鳥居と小さな祠があり、両神山を開いたという観藏行者の石像を安置する。近くに「矜迦羅童子・ごんがらどうじ」と刻まれた丁目石の一番が立つ。ここから清滝まで36童子の名が刻まれた丁目石が、1丁(約110メートル)ごとに立つ。

ここにいます童子らは不動明王の眷族で登拝者の守護にあたるとか。さきざきに多く石像や石碑が立っている。丁目石に導かれて、薄川と七滝沢の合流点、会所へ。巨大な岩の間に石像が立つ八海山へ。急坂を登り弘法の井戸へ。

  両神山は補陀落初日沈むところ       兜太

 句集の題「両神」は、秩父の山・両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山 頂近い集落平草にゆき、この山を正面から眺めることが多い。

……。あの山は補陀落に  違いない、秩父札所三十四ヶ寺、板東三十三ヶ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めている。
                    (『両神』後記)

 補陀落、観世音菩薩が住む山。ここまで目にしてきた像や碑や山に籠もる気からそれと感じられる。だいたい山名から由緒ありげだ。イザナギ、イザナミの二神を祀ることから呼ぶという、「龍神を祀る山」が転じた、などなど諸説あるとか……。

両神神社の本社裏手の御嶽神社の奥社。両社に鎮座まします、狛犬もどき、独特の風体をした、これが山犬。ということは狼、何でそんなまた? これに関わって謎めいた句がある。

  語り継ぐ白狼のことわれら老いで        兜太

「白狼」? おそらく秩父三山の両神山、武甲山、三峰山ほか、広く奥秩父や奥多摩の山々に伝わる、日本武尊東夷征伐の際に、山犬が道案内したという伝説にちなむ。

だがまたべつの記憶にも関わることをその底に含意しているとみられる。秩父事件である。明治17年(1884)、この大規模な農民蜂起の舞台は、ここ秩父の里山からじつに信州は八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯である。

いまここで詳しくしないが、このとき立ち上がった困民党を導いたのが、ほかならぬ
「白狼」と擬され語り継がれている。そのように解せるのでは。「白狼」? それはそして兜太自身でこそないか。




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