2016年11月30日

兜太句を味わう「水が照るこんなに照るよ冬なれや 」



水が照るこんなに照るよ冬なれや   金子兜太    「句集・遊牧集」

 先日隠岐を訪れたのを機に金光山の共生不動尊におまいりしてきた。お顔がおおまかで土くさく、なんともなつかしいのである。

 その山上には水がわいていて、大山の伏流水といわれてかれることがない。これを大きな金属の容器でくみとる。くんだ水が冬ぐもりの光を映していて清らかだった。

 こういうときは、「水光る」と書いて「水てる」と読みたい気持。そして「照る」とズバリかくときは、「水照り」ともいいかえて、湖沼や海のようなひろがりが、キラキラでなく、語感はよくないがテラテラと光をひろげている状態をいうことにしている。

 この「水照り」が記憶にのこるときは、なにか劇的な感銘をおぼえるときに多い。日常のなかで、冬という季節の到来を痛感したときの感銘が、この句のようになるわけである。

 国文学の暉峻康隆氏は太平洋に面する志布志(鹿児島県)の出身で、父君は僧。父君他界のとき話を人づてにきいて、感銘したことを思い出している。父君は死病と知ってから絶食し、水以外は囗に入れなかったという。

 そしてある日、やおら起き上って、床の上に正座し、そこにいる人たちに向かって、「お世話になりました」とふかぶかと頭を下げたというのである。それから日ならずして亡くなった由だが、遺骸の向うに志布志の海の照りを見る思いが、わたしにはある。

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