2015年9月14日

谷佳紀の「東国抄鑑賞」


東国抄は海程に掲載されている、金子兜太の俳句作品です      谷佳紀の東国抄鑑賞    
 長生きせよと庭のあちこち初明り  兜太(俳句2005年1月)

 「庭のあちこち」という景の把握の確かさ。狭くはないが庭園というほどでもなく、すっと見渡せるさ、常緑樹も多いそれなりに広い庭であることが一目瞭然に読み取れる。裸木の影の濃さ、葉陰を洩れる初明りの眩しさ。健康に自信があり、長生きに自信があり、成すべきことをさらに進めるのみという決意が伝わってくる表現だ。

野に住みて木々と眠りて三日過ぐ  兜太(海程391号)
 健康そのもの。悠々たる気分を、悠々と書いている。俳人は「棲む」と書きたがるが、これではしつこく隠者の趣になる。さらりと「住む」と書き、生活の忙しさを離れた正月の気分、日常の軽やかさが感じられるようになった。

 森の奥鶴ほどの影拉致される  兜太(海程391号)
 森で実際に感覚したというよりもイメージの感が強い。それと言うのも、森というものが私たちの生活になじみが薄いためだろう。山なら民話でいつも出てくる世界であり、林ならやはり生
活の場で、共に村と一体化された身近な存在である。ところが森で浮かび上がってくる民話と言えば赤頭巾や眠れる森の美女、白雪姫のように西洋の物ばかりで、日本の森には生活の匂いがない。奥深い山の森、またぎや修験の世界、神の領域なのではないだろうか。だからこそ「拉致」という語に危険な匂いがなく、神秘な匂いがするのだ。光の一瞬の変化をとらえる感覚の鋭さと感性の透明感を感じるのである。

 長野は雪関東平野夜泣きの子  兜太(海程409号)
 夜泣きの子の傍にいて長野に思いを馳せているのではなく、長野にいて関東平野に思いを馳せているのだ。そうでなければ「長野」の具体感が失われ、表現の奥行きもなくなってしまう。
長野へ旅をする。深夜眼が覚めると雪であった。暗がりに降る雪の静けさの中にいて関東平野の

広漠さに思いが至る。ここまでは普通だ。不思議なのは「夜泣きの子」である。どのようにして夜泣きの子を発見したのだろう。雪から関東平野をイメージし、さらに夜泣きの子へイメージを膨らましたとも読み取れるが、それではイメージの連想に寄りかかりすぎているように思える

。そうではない実体感が夜泣きの子にはある。降る雪に和するように聞こえてくるかすかな夜泣きを実際に聞き、関東平野に思いが至ったと推測するのだがどうなのだろう。いずれにしろ「夜泣きの子」によって関東平野がイメージではなく生活の場として具体化された。またそれは長野

であることの必然性をも生み出した。関東平野に隣接した地であることによる肌の感じ、表現の具体性は、地名が九州や北海道であった場合、肌の感じが失われ、イメージの抽象性が強まることで明らかである。


 夜空より蚕飼の屋根に鶴降り来  (海程410号)
 月光に淡く浮き出た蚕飼の屋根。地は陰になりほの暗い。どうしたことか淡く光っていた屋根がしだいに明るさを増し、真昼の明るさに輝いたかと思うと、突然、羽ばたきの音とともに鶴が降りてきた。月が隠れた暗闇の空から飛び出てくる鶴。蚕飼の屋根だけが輝き鶴が騒いでいる。幼年の自分の輝きを思い、年齢には逆らえないが老年になったいまもまだまだ輝いている。ふとそんな思いにとらわれて呆然ともの思いに浸り、ふたたび屋根を見上げると、もとの静けさに戻っていた。
 いささか大げさな鑑賞になったが、幼年時代の体験と現在の想念が重なった情感に満ちた幻想の世界、蚕飼の屋根そのものも幻想のような老年の実在感が感受できる。

凍蝶の雲散霧消夜明けかな     (海程412号)
 凍蝶は現実であろうか、幻影であろうか。
 寒気激しい朝方、まだ暗闇の時間に目覚めて夜明けを待つ。東の空が赤くなり、しばらくすると夜明けの光が走って一気に明るくなった。寒気を追い払うかに温かみを帯びた光につつまれて一瞬の幻、凍蝶が雲散霧消した光景を見てしまう。「凍蝶の雲散霧消」とは夜明けの光そのものであり、命のきらめきでもある。

東京駅怒鳴る男と寒卵       (海程412号)
 東京駅で怒鳴っている男がいる。男は若い男か、それとも中年か老人か。句の調子からいって若い男だろう。老人でないことだけは確かだ。老人なら哀れさが先に出て、このように事実だけを伝える余裕を持った書き方が出来ない。それにしても珍妙なのは「寒卵」だ。なぜここに「寒卵」が出てくるのか全然わからないし、どこにあるのかもわからない。しかし印象は鮮烈。主人公は男ではなく寒卵のように見えてくる。たぶん男が握っているのではないか。割れそうで割れない寒卵を握って怒鳴っている男。なぜ怒鳴っているのかわからないが、すべての人間が他人である都会の人間関係を象徴するように、男が冷え冷えと浮かび上がってくる。

煤逃げのわれおいかけて白鳥来    (海程412号)
 煤払いを避けて散歩に出る。手伝おうとしない自分に忸怩たる思いはあるが、手伝おうにも家人の邪魔になるだけである。いつもは忙しい自分が忙しい世間を逃れてこうしてのんびりするのもまた良いもの。白鳥が身の置き所を求めるようにやってきた。奴も煤逃げの白鳥のようだ。仲間である俺を追いかけてきたのだろう。仲良くしよう。

来るものを見詰めて暮す余寒かな    (海程412号)
 「来るもの」とはなんだろう。庭に来る小鳥、空をはしる雲、部屋に入り込んでくる虫の色々、原稿依頼から気持ちをかき乱す嫌な奴まで、生活にかかわるありとあらゆるもの、それらすべてのものだ。来るものを拒まずと達観しているのではない。勝手にやって来る拒みようのないものばかりなのだ。若いころは撥ねつけ、踏みつけ、叩きのめすこともあったが、今は勝手に来るなら勝手にそこでそうしていろとほったらかし見詰めているだけ。俺は俺の生活をするだけさ。向こうが飽きればいなくなる。余寒の厳しさは歓迎できないが春の暖かさの前触れ。これもまた良し。

癌と同居の妻に太平洋は秋        (海程407号)
 妻が癌に倒れてから久しい年月がたった。それは生死を分けた戦いの年月でもあったが、根絶が不可能である今、それは肉体と癌をどのように調和させ共存してゆくかを問うものとなっている。癌と戦う妻は悲惨であるが、「癌と同居の妻」は安定している限りには安心できる状態でもある。しかも妻はその状況を心得、癌を手なずけているかのごとく上手に日々を過ごしている。太平洋は秋、この広々とした清々しがいつまでも続くとは思わないが、とりあえず今は平和。太平洋は穏やか。

民主主義を輸出するとや目借時(海程407号)

 民主主義も思想であり、文化の一形態である。現在の我々にはこれに変わる政治思想を考えられないが、民族、国、宗教が違えば、民主主義の形態も違っても不思議でない。ある国の民主主義思想が良質とされ、他国に影響を与えることがあっても、押し付けであっては機能するとは思えない。思想は農産物や機械製品のように、あれば便利といって輸出するものではない。それなのに、嗚呼、何ということだ。

目借時というトボケは、民主主義を自認する国家の自惚れに呆れて舌打ちをしつつも、お手上げだと、己の無力にも舌打ちをしている、遣る瀬無さであろう。

ゆっくりと飯噛む天道虫と居て(海程407号)
 天道虫が面白くて、飯を噛む早さがゆっくりしているのではない。作者のもともとの習慣なのだ。いや、敢えてこのように表現するということは、意識してゆっくり噛んでいるのだろう。もちろん健康のためであり、そのほうが飯のうまさをはっきりと感じられるからでもある。そのテーブルにたまたま天道虫がやってきた。小さくて愛らしい天道虫は食事に変化をあたえ、噛むという単純な動作に微妙な味わいを付け加えた。

 まったく無意味といっても良い情景。何が面白いのかと言われかねない些末さ。それでいてやさしさがあり、夏空の明るさ(このさわやかさは朝であろう)があり、少々のさびしさがある。せかせか読みすぎたのでは気づかない表現、ゆっくりと読んで気づく味わいがあり、読むほどに忘れられなくなってくる表現である。

走らない絶対に走らない蓮咲けど(海程407号)
 走る生活をしていない80歳を超えた作者が、「走らない絶対に走らない」のは当然。走って体調に異変をきたしては取り返しがつかないことになる。しかしこんなことを書いているのではない。蓮の花が咲いたという。一刻も早く見たい。走って行きたいが、『まてまて、絶対に走っていけない』とはやる気持ちを抑える。年齢を考えてのことでもあるが、目の前にある楽しみ、それに出会える時間を少し遅らせることにより、いっそう楽しみが増えるというもの。『まだか、まだか』という待ちわびる切なさのあとの喜びである。

どくだみにタオルの落ちし夜明かな(海程407号)
 タオルに突然の感じがあり、タオルのとらえ方によって鑑賞が分かれるだろう。散歩に出ての汗拭き用かもしれないが、夜明けという時間から乾布摩擦や健康体操用のためとも考えられる。いずれにしろタオルが落ちていたのではなく、作者が何かに使っていた「タオルの落ちし」なのである。

 まだ薄暗い夜明けに、どくだみの真っ白い花の群れが光を放っている。そこにタオルがはらりと落ちた。乾布摩擦をしているときはさほど意識しなかった白さが、タオルに覆われた周りを異様に照らしている。どくだみを良く感じ、よくとらえ、どくだみでなければ成立しない表現。

東国なり蜘蛛の巣だらけで庭歩けぬ(海程408号)
 かつて東国は蛮族の地、貴族ではなく武士が支配する地、つまり文化の遅れた野蛮な地である。しかしそれは貴族の口先の策略で糊塗する地ではなく、力がなければ策略も通じない地であるということ。そのような東国も今は政治文化の中心地。あの時代は何百年も昔のことになり、日本全国は平準化してしまった。もちろん自分も現在の人間、蜘蛛の巣だらけのこの庭を歩く気になれないが、しかしこの庭にはかつての東国の気が満ちている。

 東国という歴史意識と、現代文明に慣れた生活意識の齟齬。手入れが行き届かない庭にいささか困っているが、逆に野性味を帯びているとしてこのままの庭を誇りたい気分、この微妙な心境。

霧をゆきふと月に会う最上川(海程409号)
 芭蕉を偲び最上川下りの船客になる。霧がたちこめ視界はきかない。景色が見えないのは残念ではあるが、芭蕉への思いはむしろ強まる。ふと気づけば霧に切れ間ができ月が静かな光を放っていた。

目立つ言葉があるわけでなく、目立つ意識を書いているのでもない。平凡な言葉、平凡な景があるだけだが、芭蕉への思いを深くしている。

本合海耕人切に芭蕉語る(海程409号)
 本合海(もとあいかい)は芭蕉が最上川下りのために船に乗った場所である。そこで出会った耕人が芭蕉について切に語ってくれた。

ただそれだけのことであるが、この作の背景には殺生石での逸話「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」があるのではないか。風流の場所は違えども馬子と耕人の風流。日本人の風流好きはますます盛んであり一向に衰えを見せない。

業俳や昼寝も朝寝もすべて季語(海程409号)
 俳壇で〝話題がなければ季語を取り上げればよい〟と言われるほど、季語の問題は古く常に新しい。俳人は季語に執着する。しかしそれは、自然を大事にしているのではなく季語を祀っているだけだと思うことが多い。季語論には飽きた。過去に言われたことの再生産でしかないと言いたい俳人も多いだろう。しかし業俳にはそんな頬かぶりは許されない。何千回も聞かれ、何千回も喋っている。これからも喋り続けることになるだろう。『しかしなあ、そんなことは聞かれるから答えているだけで、春夏秋冬、何時でもどこでも眠たくなりゃ朝寝も昼寝もしているのじゃよ』なのである。

 ここで問題。この作品の季語はどれで季節はいつでしょうか? ⋯⋯⋯ 答。『昼寝(夏)も朝寝(春)もすべて季語だが、無季』

武器を売り株価を上げて蚤虱(海程409号)
 人間の歴史は殺戮の歴史、武器の歴史でもある。また現在は投資ファンドが巨大化して、持っている資金力で国を支配さえ出来る。平和の裏に武器商人がいるし、投資ブームの裏に投資ファンドの金融操作がある。ちっぽけな資金で株の売買に熱中する庶民は、そんな連中から見ればカモの蚤虱であり、そんな連中は社会に寄生する蚤虱のようなもの。しかしこの連中はちょいとデカ過ぎる。

句碑とちちろと観音さまの庭にかな(海程409号)

 句碑がある。ちちろが鳴いている。観音さまがやさしく見守っている。なんと落ちついた明るい庭であることか。ついついのんびりしてしまう。お茶をいただきつつ和尚さんと世間話をしているのだろうか。ただそれだけの気分のよさ。充実感。

いびきなる韻律ありて夜永かな(海程410号)
 いびきはとかく嫌われもの。いびき防止の方法や器具も色々ある。しかしいびきにも色々あって、聞いていると面白いものだ。それを楽しむ余裕があると気にせずに眠れるのだが。私もかつて怒涛のいびきの中にいたことがある。驚きあきれつつも楽しく聞いているうちに眠ってしまった。この作のいびきは並程度で激しいものではないようだ。

なんとなくうるさく、眠りにつけないでいたが、ふと気づけば、いびきの変化に規則性があり韻律に気づき楽しむようになった。夜はますます深くなり静けさが漂う。自分もまもなく眠りにつけそうだ。


春眠の総理大臣うなされる (海程409号)
 テレビで見る総理の質疑に対する返答は、相手を小馬鹿にしたような顔つきや語調で権力者の自信を見せつけている。大の字で春眠を満喫するばかりで、うなされることがあるのだろうかと疑わしい。ああ見えてもこの程度の悩みや苦しみは彼も抱えているだろうという、作者の期待か願望があっての表現であろうか。とは言え、こういう詮索はこの表現に関係ない。読みどころは言うまでもない。このようなことを書いてしまう表現態度のたくましさだ。「言いたいこと、書きたいことがあれば何でも書くよ」というたくましさが無ければ書けない表現である。
俳句ではものが言えないということをよく聞くが、それはあなたが言おうとしていないか、言う能力が無いからかもしれませんよと反論したくなる。芭蕉も蕪村も一茶も言いたいことはどんどん言っている。高浜虚子も花鳥諷詠と言いながらずいぶん言っている。金子兜太も頓着していない。言いたいことは言うべし。書きたいことは書くべし。ただしその結果がどうなるか、それは表現能力によるが。

光漆黒わが堂奥に悔の虫   (海程415号)

 春の光は柔らかな暖かさに輝いているが、その明るさゆえにお堂の中は漆黒。目がくらみ何も見えない。しかしはっきり見えているものがわが胸の堂奥にある。もう過去は過去。拘ったところで拘りきれないと忘れるしかないのだが、それでも忘れることの出来ない悔いがある。春光が暖かく穏やかであればあるほど暗く輝く漆黒の悔い。飼い続けるしかない悔いの虫。

足投げだし両手を捨てて春眠す(海程414号)
 取り付くしまのない状態そのままの書きっぷりだが、「投げだし」「捨てて」と書き分けているところに注目したい。手と足の微妙な違いを感じ取れる。春眠とはこのように無防備なもの。冬から春への季節の変化、光と暖かさがこの無防備を引き出している。

女の子可愛し五月蠅しリラ祭 (海程415号)
 札幌の大通り公園では毎年5月ライラックまつりが行われている。リラはもちろんライラックのこと。長い冬から開放されて迎えた短い春、そして暖かさを真に感じる初夏の喜びは北海道の青空とともにある。もちろんこの俳句のリラ祭が札幌の祭とは限らないが、この季節を祝う気持ちはどこでも同じだろう。若い男なら女の子に浮き浮きして一緒に遊びたくなるだろうが、作者は老人。目を細め女の子をにこにこ眺め楽しんでいる。それにしてもすぐにキャーキャ-声を張り上げて五月蠅いものだ。女の子はいくつになってもかわゆし。しかしうるさし。このうるささにはちょっと疲れるな。リラの花が輝いている。

 恋猫の白(しろ)わが庭を侵犯す  (海程412号)
 野良猫の白。体は真っ白。世話をする人がいるのだろう、汚れのないきれいな白で際立っている。普段から庭を出入りしているので顔なじみだが、恋の季節は迷惑千万。自分の領地でもあるかのように唸り声を上げつつ徘徊する。仕事の邪魔、テレビの邪魔。ここはわが庭。少しは遠慮して、靜かにこっそりと来い。

 産土の欠伸の空の揚雲雀 (海程413号)
 生れた地は昔も今も緑の地。山があり川があり野原があり、春光を浴びてのんびり欠伸をしているような地。野っ原が欠伸をした拍子に口から飛び出したような雲雀がピーチクパーチクうるさく騒いでいる。この平和が永遠に続く世の中であって欲しい。

 わが胸に芽木赤らめり生きてあり  (海程413号)
 寒風に震え上がる日々がようやく去った。木の芽も赤らみ始めた。自分も老いたがまだまだこれからだ。やろうと思う仕事、やらねばならない仕事が、芽木の赤らむように湧いてきて元気を与えてくれる。この命を大切にしてゆかねばならない。


 春秋や緑泥片岩に狐  (海程413号)
 「春秋」は歳月と受け止めるだけでよいのか。「や」と切れ字で止めているから「春秋」と「緑泥片岩」の間は切れている。なぜ「緑泥片岩」であり単なる「岩」では表現にならないのか。しかもそこにいるのが「狐」。思惑を含んだ言葉が連なっている。「緑泥片岩」は碑や墓石に使われるそうだが、秩父の荒川の岩場の石でもあり、作者が生活をしたことのある埼玉県小川町は良質の石が得られることで有名とのこと。「狐」もなにやら怪しい。昔、秩父の荒川の岩場でのんびりしていた狐を思い、歳月を感じ、さらに狐から中国の春秋期や、書物「春秋」に思いが広がり、「緑泥片岩」という硬い言葉での表現に至ったのではなかろうか。「岩に狐」では軽すぎて「春秋や」を受け止められない。しかもこの石が碑や墓石の材料ならなお好都合。色々深読みが楽しめる表現である。

 野に眠る陽炎とともにいる時間 (海程413号)
 野遊びに来て眠くなる。横になりうとうとしていれば、まわりはすべて陽炎。陽炎の底にいて陽炎に包まれ、いつしか眠りに落ちる。目覚めてもやはり陽炎の底。時間がたっているのかいないのか、日の傾き具合でそれを感じるのみ。忙中の閑。

 峡ふかく冬の花火の音落ちる  (海程419号)
 冬の花火はなぜか物寂しい。一つには飲み物食べ物を持って大騒ぎする花火大会やお祭がほとんどなく、大抵は幾つか上がって終りという静けさのためだろうが、それよりも空気が澄んでいてしかも寒いということであろう。寒気は花火の鮮やかさより儚さを強調し、音は鋭さを増す。ましてや深い山峡の花火とあっては、花火が消えた後の暗さがいっそう侘しい。「音落ちる」という把握はそういう冬花火を見事に書ききっている。ところでこの作品において作者はどの位置から見たのだろう。峡の底か、それとも上か。底にいるならば音は夜空を突き抜け宇宙に消えていくのではないだろうか。「音落ちる」という感覚は上にいると読める。花火が眼下にひらき、遅れて聞こえてきた音が消える。花火が消えた後の音の響きは寂しい。それが「落ちる」という描写でもあり、感覚でもあるというように読める。特に鋭い言葉や情感がある表現と思えないのだが、読み込んでいくと気づくことの多い表現であることが分かる。

 みな貧しく鶴渡りしと祖父の話  (海程419号)
 この作品は文脈がつながっていない。「みな貧しく」と言う「祖父の話」と、「鶴渡りしと」言う「祖父の話」の二つの話が脈絡なしに、まるで一つの話のように書かれ、二つの事柄を一つにつなげる言葉がない。こんな表現が成立するのかと思うが、成立する。それは祖父の意識の中では、冬の当然の生活としてつながっているからであり、作者はそれを書きとめたに過ぎないからである。作者はアニミズムが俳句の表現においていかに大切かを折にふれて語っているが、この作品もアニミズムなくして理解できない。冬に渡ってくる鶴は冬の村人であり、生活を賑やかにしてくれる友である。村は貧しいが冬は鶴とともにある。家に閉じこもることが多く、貧しさが身に沁みるけれど、それ故にいっそう万物は友という思いが、思念としてではなく、生活の流れとして感じられる。ここにアニミズムと俳句が一つのものとなり、二つの文脈が一つになるのである。と、このように書き留める私の文がいかに説明的であるか。表現は説明なしに自立している。アニミズムはこのように自然であり生活であり触れあう肌なのである。

 冬の地震(ない)湯屋から裸の叔母とび出す  (海程419号)
 湯屋という少々古めかしい言葉をわざわざ使ったのはなぜだろう。銭湯では裸で往来にとび出すのは勇ましすぎる。家の浴室では裸がなんでもない光景になる。田舎で良く見かけた、母屋とは別棟になっている風呂場という感じなのだが果たしてどうなのだろう。ちょっと大きい地震があった。風呂に入っていた叔母が慌てふためき裸のままとび出した。夜、裸電球ぐらいの薄暗さとはいっても外である。あられもない自分の姿に気づき、またまたビックリ恥ずかしい。湯屋に戻ればよいものを家族の前に駆け込んでしまう。家族の驚きと、その後の大爆笑。読み手が勝手に場面を想像して楽しめばよい。

 冬眠も成らずや眼光のみの蛇   (海程409号)
 冬というに蛇に出会う。眼光鋭くこちらを睨んでいる。しかし姿態の弱々しさは隠しようもない。眼光に自信を持ちすぎて冬眠をしそこねたのか、それともその気がなかったのか。この寒気、眼光の鋭さがむしろ哀れさをさらけ出し無惨である。

 冬眠へ金星木星月が出会う  (海程409号)
 冬眠という自然の仕組みは生きるという闘争を一時的ではあるが休戦させる美しさがある。星の運行もばらばらのようで統一された美しさに満ちている。生活になじみのある金星木星月が一直線に並ぶという出会いがあった。冬眠に入る生き物を祝福するかのような天の配慮

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し  (海程419号)
 鹿にたくさんあう。風格のある鹿。色気のある鹿。野趣横溢の荒々しい鹿。色々な鹿に出会ったが、何と言っても生命そのものが目の前に立っていると実感させたのは若い雄鹿であった。しかも彼らの丸っこく初々しくけがれを知らないふぐりの美しさと楽しさは、自分の若き日を思うようでもあり、イザナギとイザナミ、アダムとイヴが出会った日を思うようでもあり、原初から未来を秘めた生命の塊であった。

海食崖上五湖碧(あお)からむ夏を航 く(海程419号)

 知床には五湖を巡る散歩コースがある。船に乗る前に五湖の一部でも見たのだろうか。それともかつて巡ったことがあり、それを思い出しているのだろうか。心地よい海風を浴びつつ、海の青さを眺め、半島の緑を眺め、更にその緑の中にある五湖を思い浮かべれば旅の気分は更に高まる。五湖の美しさを直接書くより、このように想いの中で書かれるとよりいっそう美しく見えるから不思議なものだ。

海航かば帰り支度の岩つばめ (海程419号)
 「航」の字を使用し、「海行かば」と書かず「海行けば」とも書かなかったところに、作者の重い思いがあるように思える。「うみゆかば」は「ゆけば」と書かれるよりは詠嘆の色が強い。更に作者は戦争に行っている。「海行かば水漬く屍」という歌が身に染みているであろう。この作品は知床旅吟として書かれているから観光船に乗っての景と簡単に受け止めやすいが、一句だけ取り出して読めばすぐ気づくように、読み取れる気分は観光というより航海の気分であり漂泊感が強い。今まで取り上げてきた作品と調子が違う。岩つばめは帰り支度をしていると感じ、その感じを明確に捉えきったとき、観光を忘れ「海行かば」の歌が脳裡に湧いてきたのではないだろうか。戦争で歌のとおりに多くの戦友が死んでいる。しかし歌と違うのは「かへりみはせじ(死をいとわない)」ではなく、生きて無事に帰って来たいという思いであった。その無念の思いを感受しつつ「海行かば」の詠嘆では表現が流れるとして退け、情景句として読めるように「海航かば」の客観を選び、しかし全体として心情を歌い上げているという性格を表現にあたえたのではないだろうか。

海霧(じり)に羅臼岳(らうす)のすべてが消えて北の旅   (海程419号)
 先ほどまでくっきりと見えていた端正な三角形の羅臼岳が湧いてきた海霧に消えてしまった。その姿はまだ目の奥に残っているが、海霧に消えてゆくその早さ、はかないものだ。だがこれが北の旅というものなのだろう。「北帰行」の引用は感傷的過ぎて不適切かもしれないが、なんとなくこんな気分も感じられるではないか。―夢はむなしく消えて、今日も闇をさすらう、遠き想い、はかなき希望(のぞみ)、恩愛(おんあい)我を去りぬ(北帰行)―

旅好きの大声はまなす実となりて  (海程419号)
 旅好きが旅に出れば当然に元気が出る。元気であれば声も大きくなる。晴れ渡った知床、空気は澄み気分の良さはこの上なし。知床ではまなすを見ればまさに知床旅情。思わず大声が出る。「おおっ、はまなすがもう実になっているぞ」。開放感に溢れ、旅の気分は最高潮。

おおわしに会いたし機窓波ばかり  (海程419号)
 翼を広げれば2メートルを越すおおわし。誰もが出会ってみたい。チャンスがあれば会えるかも知れないと、飛行機の窓から目を凝らしているが見えるのは波ばかり。都合の良いことがそうそう起るはずがない。心を残りではあるが諦めるしかないのだろうか。未練たっぷりでなお目を凝らし続ける。

涛沸湖初鴨いたり放馬のそば   (海程419号)

 涛沸湖はアイヌ語で「チカンプトゥ=鳥がいつもいる湖」と呼ばれているとのこと。「初鴨いたり」と書いたのは事実であると同時に、アイヌ語を聞いての発想もあるであろう。原生花園を挟んでオホーツク海と平行して広がる細長い涛沸湖。人家のない大きな広がりは放牧されている馬と早々に到来した鴨が友達のように交わる世界。「放馬のそば」と何気ない表現で景を確実にとらえつつ、旅と俳句を楽しんでいる悠々たる気分。表現する者の至福に満ちた世界である。

風倒木牧牛に人の子が走る  (海程419号)
 風が吹き荒れ、多くの木が倒れた。しかし風が過ぎれば牧牛はのんびりしたもの。いつものように草を食べ続けている。子牛だって母牛の後を追いつつくつろいでいる。我々も「昨夜の風は凄かったなぁ」と言いつつ旅の気分そのままに景色を楽しんでいるが、人間の子供はそうではない。「牛がいるぞ」と風倒木で荒れた放牧地を一目散に駆けてゆく。

ふぐり和みて若き蝦夷鹿知床なり  (海程419号)
 時期が来れば「ふぐり和みて」どころではなかろうが、今、若鹿のふぐりはおとなしく初々しい。若いということは未来があるということ。知床の美しさと希望、平和を背負うかのような若鹿にははちきれんばかりの生命の輝きがあった。

0 件のコメント:

コメントを投稿