2015年8月17日

金子兜太句集『黄』こう)


金子兜太句集 『黄』(こう)ふらんす堂 1200E 1991年刊

 『黄』自選句集 
平成3年 ふらんす堂

雪の日を黄人われのほほえみおり

雪降るとき黄河黄濁を極めん

雪の日は黄の字想う黄濁愛す

黄河そそいで黄海を成す雪の日も

黄海に黄河から来し魚影泳ぐ


『黄』 あとがき
句集『少年』にはじまる私の全句集から三八〇句を選び、それに近作〈黄〉五句を加えた。全句集といったが、最近刊の『皆之』からの抄出は省略し、その前の『詩経國風』までにしている。
 選出に当たっては、『少年』と『詩経國風』を軸とし、自分の体質がよく出ているものに執した。初期は初期なりに、いまはいまなりに、これが自分の俳句だ
とおもうものに執してみた。そして中国大陸の風土に引きつけられている自分の身心に気付いている。選出句が、後段、『詩経國風』を読みながらつくった句に
かたむいているのは、その現れであって、ついに、題を『黄』とし、黄五句で終りとするに到った次第である。
代表作を網羅し自選380句を収録。


佐佐木幸綱栞から 私が好きな兜太の句

どれも口美し晩夏のジャズ一団

 の自句自解が載っていたはずだと思って、わが家の書庫に金子兜太「今日の俳句」 をとりに行ったところ、「今日の俳句」の隣に岡本太郎の「今日の芸術」、「私の現代芸術」が並んでいるのに気づいた。「今日の俳句」は昭和四十年刊。岡本太郎の二冊は共に昭和三十八年刊。

ついでに近くにあった寺山修司の「現代の青春論」を開いてみたら、三十八年刊だった。

どれも私か大学を卒業した前後のころの本で、『今日の俳句』の中扉には兜太さんの署名がある。はじめてお逢いしして間もなくのころの本だと思う。

 あのころは、これらの本のタイトルがそうであるように。「今日」とか「現代」に、ある手触りの確かさがあった。雑多なものが生起し、あらゆるものが流れ込む。現在にはあらゆるものがありうるという感覚。

そういえば、前衛という言巷 がはやった。私は、そういう時代に兜太の俳句を知り、岡本太郎のアバンギャル論を読んだのだった。

 兜太の句と私はそういう出遇い方をしたせいもあって、兜太の句の現在性ともに、雑多なものを一挙に枹き込むエネルギーと、ふところの深さに今でも心が寄るのである。純粋に向かって一点に澄み込んで行くのではない。純粋を拒否して、ドサッと、あるいはゴソッと、多くを抱き込んでしまっている縄文土器の魅力。

  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている
  春憂う美女群浴の交交

 冒頭に掲げた「どれも口美し晩夏のジャズ一団」もそうであった。一人や一個ではなく、雑多な多数を一句に取り込んでしまう迫力がポイントである。ジャズをうたう口、腹を出している子、糞する馬。

句の中で、それぞれがみな自在にそれぞれのアクションをしている。庭中にびっしり来ているたくさんの青鮟、沐浴する幾人もの。

美女たち。大人の鮫、子供の鮫、スリムな美女、豊満な美女、みなそれぞれに雑多な個性をもったまま句に登場している。 どの句からも雑多な音が聞こえる。どの句も騒然としている。 近代俳句は純粋、静謐に磁針を合わせた。現代俳句も近代俳句が選択した進路 をそのままつき進んだ。連歌。俳諧は、一点に澄み込んで行く短歌の反措定とし て生み出されたことを、忘れているかのごとくだ。

 兜太はそこを現前させる。兜太の句の雑然、騒然たる様相は、縄文土器がそう であるように、われわれの前に原初、本源の姿をぬっとさし示すのである。

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