2016年6月23日

『現代俳句の断想』 安西篤

 
海程社 0568-22-0073  3000円
「金子兜太の現在」より

――その人と作品を中心に――

〈はじめに〉
 金子兜太は、96歳の現在もなお現役並みの俳句活動を続けており、今や俳壇のみならず、日本を代表する文化人の一人として、時代の牽引者の位置にあるといっていい。兜太自身、自らのアイデンティティは俳句であるというように、その生涯は俳句の歩みとともにあった。

長い俳歴の俳人は、兜太ならずとも見られるところだが、戦後70年の今日、これほどの脚光をあびているものは兜太をおいて他には見られない。では、なぜ今、金子兜太なのかが問われる。それには現在にいたる足跡の中に、その必然的な発展過程を見ておかねばならない。その上で兜太の現在を見極めてみたい。




1.今、なせ金子兜太なのか

 第一に、名実ともに俳壇の頂点にあって、時代を牽引する指導者的存在であることは、誰しも認めるところである。戦後70年、3.11以後4年という時代の転換期にあって、時代今いも求められているーダーシッフの所有者であるということがあげられる。96歳(平成28年現在)の高齢にしてなお現役並みの活躍をみせ、それも鬱然たる巨匠というより、たくましいフロントランナーともみえる干不ルギーを感じさせる。自ら90歳の新年に、「雑煮食ぶ暦年齢は虚なり」と詠み、男8掛け、女7
掛け説を唱えて、周りを鼓舞している。

 第二に、俳壇にとどまらず、文化交流のメディアとしての行動力と資質の持ち主であることから、語り部時代のタレントともみなされている。兜太は、昭和50年代以降の俳句ブームを先導し、文化ジャーナリズムの寵児となった。テレビ時代にふさわしいカンの良さと、簡潔明快な語り口のうま、しかも無類の聞き上手ときている。軽やかな座談風の語り口で時折ユーモアや卑猥なギャグなどもまじえて、臨場感豊かに表現する。

その論理は畳み込むような明快さで、歯切れよく締める。まさに一場の芸を思わせる語り部である。

 第三に、戦争と戦後俳句の数少ない生証人としての体験を、今日の問題として捉え返す見識の持ち主であることである。戦争で非業の死を遂げた死者に報いる生を生きなければならないという信念のもとに、自らの体験を語って平和を訴える。

また戦後俳句が、新しい社会変革の意識のもとに出発し、その後方法を模索しながら俳句形式の強さと美しさを獲得していった戦後俳人の生き残りでもある。しかもその体験を今日の問題として捉え返す見識と説得力を持ち合わせている。

戦後俳句を見事な鑑賞力で解明した昭和40年の著書『今日の俳句』(光文社カッパブックス)は、今なお古典的価値をもって愛読されている。
  
 第四に、幅広い選句眼と説得力のある鑑賞で、多様化の時代に指針を打ち出せる数少ない指導者の一人であることだ。その実績は、NHK、朝日新聞、朝日カルチャー等の俳句講座等で、長年にわたり多くの草の根俳人を育て上げた実績をもち、人気講座となっている。

さらに、年間170万句をこえる伊藤圉のお~いお茶新俳句大賞では、ジュニア層を中心に、あらゆる世代に渡る俳句大衆の育成にも強い影響力を与えている。なんといっても現役作家としての現場の臨場感と生活感に裏打ちされた肉声の魅力が、鑑賞の強みになっているからだ。

「金子兜太の現在」より

2、金子兜太の歩み――その作品を追って

(1)第一期は、俳句開眼(昭12)より、海軍軍人として終戦後トラック島 から帰還するまで(昭二二の時期。兜太18歳より27歳までの   期間に当たる。この時期の特色は、原郷としての秩父の風土と、戦争   体験の中に花開いた抒情の原質であった。
作品の上では、第一句集『少年』の前半期に当たる。

白梅や老子無心の旅に住む            (昭12)
蛾のまなこ赤光なれば海を恋う          (昭15)
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子          (昭17)

 水戸高校で初めて俳句を作った時から、故郷秩父において刷り込まれた原郷意識即して書かれた作品。俳句初学時代の作品ではあるが、すでに作者の抒情の原質というべきものが、よく出ており、兜太俳句の型を決定づけている。ことに「曼珠沙華」の句は、この時期の代表句。

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ          (昭19)
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ       (昭20)
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る        (昭21)

 昭和19年、トラック島に海軍中尉として派遣され、二年半の戦場体験の後に帰還するまでの、いわゆる戦争俳句。戦場のなかでの日常(魚雷の丸胴)と、帰還するきの感慨(「海に青雲」「水脈の果て」)である。戦場で非業の死を遂げた人達の分まも、生き残った生を大事にしたいという思いを抱いて帰国する。

 この間、兜太は、戦時から終戦にかけての極限状況の中で、死者への思いと生へ執着を重ねて、人間性の高ぶりを充填していった。この戦争体験は、原体験としてき付けられ、秩父の原郷意識とともに、兜太の叙情体質を開花させていった。「曼珠沙華」の句とともに「水脈の果て」は、兜太の原風景を代表する句といえよう。
著者 安西篤
「金子兜太の現在」 より

 第二期は、日銀に復職、結婚した後、組合運動の挫折を経て、福島・神戸長崎の地方勤務10年から東京へ帰るまでの時期。この間、銀行員としての先行きに見切りをつけ、俳句専念を志す。時あたかも戦後革新の波に乗って勃興した社会性俳句に、造型俳句という方法論を与えて、社会性俳句から前衛俳句と呼ばれた新しい時期を導いた。兜太28歳から41歳頃までの時期に当たる。句集では、『少年』の後半から『金子兜太句集』(昭36)を経て、『蜿蜿』(昭43)の初期までの時
代である。

死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む   (昭22)  『句集・少年』

 復員後の最初の所感。これからはなんとしても生きて行こうという覚悟とともに、戦争のない国を願う思いを込めて、もう未練がましい生き方はすまい。もし死んだら、骨を海にまいてくれと願う。そんな自分を沢庵を噛み締めて励ます。


朝日煙る手中の蚕妻に示す       (昭22)  『句集・少年』
 帰還した翌年、秩父長瀞の塩谷皆子と結婚。新婚第一夜を実家で過ごした朝の句。瑞々しい愛情のこもった所作が詠まれている。

朝はじまる海へ突込む鴎の死     (昭31) 『句集・金子兜太句集』

 句集『少年』によって現代俳句協会賞を受賞し、俳句専念を決めたときの句。鴎が神戸港の海に突っ込んで餌を捕る景に、トラック島の海に零戦で突っ込んで戦死した戦友たちを思い浮かべる。その時、「死んで生きる」と呟き、「二度生きる」生を俳句でと臍を固める。爽やかな朝の始まりと、その中に突如訪れる死に、再生への明るい輝きを感じていたのだ。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のどとく  (昭32) 『句集・金子兜太句集』

 この句は発表当初、銀行員に対する批評意識で書かれたものとの評価が多かった。ところが兜太が造型俳句の創作過程を例示するものとして発表したことから、外なる現実と内なる現実を統合した言語映像として表現されたものという方法論的解釈をされるようになった。一句の図式的表現が、かえって理論的説明には向いていたのだろう。造型俳句の端緒となった句。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン    (昭33)  『句集・金子兜太句集』

 上中で爆心地長崎の惨状を浮かび上がらせ、そこに現在のマラソンランナーの喘ぎながら走りこむ映像を重れている。それが時代を超えた歴史の傷跡として、「彎曲し火傷し」という生なましい現実感をあらわにしている。
代表句の一つ。

わが湖あり日陰真暗な虎があり    (昭36)  『句集・金子兜太句集』

 自分の意識の中の湖畔の日陰に、らんらんと眼だけを光らせた虎が寝そべっている。黒々と潜む虎を暗喩として、自分の中に御しがたい思いを飼っている映像。止みがたい内面欲求の表現である。外なる現実よりも内部現実に傾斜した作品。「彎曲」の句とともに、造型俳句の典型句とみられている。
 「金子兜太の現在」より

 第三期は、「海程」創刊(昭37)から熊谷に定住し、朝日カルチャーセンター俳句講座講師を担当、専業俳人に踏み切る頃(昭和50年代前半)までの時期。
兜太としては定住漂泊から衆の詩の時代への移行期であって、がっての社会性より存在性へと向かい、人間の有態を見据えるようになる。この時期の前半、60年安保後の保守派の巻き返しに対抗して、海程を創刊。

昭和42年に熊谷に転居、以降一茶・山頭火の研究を通じて俳句形式を見直し、定住漂泊への関心を深める。さらに、「衆の詩」の時代を提唱。

広く伝えるための工夫として、俳諧・韻律の力を強調し、50年代以降の俳句ブームを先導する。兜太自身まだ50歳代であった。
 
 この時期の句集は、『蜿蜿』(昭43)『暗緑地誌』(昭47)『早春展墓』(昭49)『金子兜太句集(『狡童』を含む)』(昭50)『旅次抄録』(昭52)『遊牧集』(昭56)『猪羊集』(昭57)等7句集がある。

 三日月がめそめそといる米の飯        (昭40)『蜿蜿』



 ここでは、単に秩父という一地域にとどまらず、日本の農村の基底を流れる精神風土に、「三日月」「米の飯」という物の質感を託している。それが「めそめそ」という有り様をみせているのだ。高度成長期の農村の悲哀。

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな        (昭43)『暗緑地誌』

 大自然の根源にあるおおらかなエロスを生なましく捉え、生命賛歌を謳いあげた句。代表句の一つとされている。夜の谷間に水しぶきを上げてもみ合う鯉の群れを「歓喜」の姿と捉えた。無季の何だか生命力のほとばしる夏のイメージがある。

犬一猫二われら三人被曝せず        (昭43)『暗緑地誌』

 熊谷に定住したときの句。家族は、犬一匹、猫二匹、それに妻子あわせて三人。長崎の被曝の惨状を知っているだけにヽ平和に暮せる今の生活への謝念と家族への愛の眼差しがある。「彎曲」の句からこの日常の存在感にいたる十年の歳月がある。しかし根底に流れる反戦への思いは変わらない。

霧に白鳥白鳥に霧というべきか       (昭50)『旅次抄録』


 新潟県瓢湖での作。霧の立ち込めた湖に白鳥の白だけが見える景。白濁の空間はどこまでも拡がり夢幻の世界となる。自らは徹底的に省略した風景を書こうとしていたという。景の芯にあるオブジェを求めて。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている       (昭53)『遊牧集』

 早春の暁の光と影に、生命のうごめきを感じている句。白梅が咲き、まだ夜の影の残る庭に、なにやらいのちの動きが感じられる。それを青鮫の背鰭のように感じたのだろう。景としては超現実の虚の世界だが、生々しい実感に基づく虚の世界だ。虚実皮膜の間の句ともいえる。

 猪が来て空気を食べる春の峠        (昭55)『遊牧集』

 春の峠に猪がやってきて、思い切りうまそうに空気を吸う仕草を「食べる」と捉え、猪に心を通わせる体感だ。まさに生きものへのふたりどころであり、アニミズムに通うものかおる。「衆の詩」の
時代への押し出しの一句ともいえる。




 金子兜太の現在

 第五期は、平成年間の今日までということになるが、句集の上では『両神』(平成7)『東国抄』(平成12)『日常』(平成22)までなので、兜太80歳代をもって一応の区切りとすることもできる。

90歳代に入っての活躍は、次の句集とともに第六期或いは、兜太の現在とすべきかもしれない。さしあたりここでは、既刊句集のある第五期まででまとめておきたい。

 第五期の兜太の俳壇のリーダー、スポークスマンとしての輝きはますます大きく、俳壇の栄誉を一身に担うことになる。即ち、平成8年句集『両神』により日本詩歌文学館賞、翌九年NHK放送文化賞、13年現代俳句大賞、14年句集『東国抄』により蛇笏賞、15年日本芸術院賞、17年スエーデンチカダ賞、日本芸術院会員、20年文化功労者、正岡子規国際俳句大賞、21年熊谷名誉市民、皆野町名誉町民、22年句集『日常』により毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞等の栄誉に輝いた。

 またこの間、中国、ドイツ、イタリア等の俳句熱との交流を行い、国際的な俳句事業にも率先協力しているほか、NHKや伊藤圉新俳句大賞等の俳句イベントを通して、ジュニア腦の俳句活動にも選者として積極的に関り、まさに八面六臂の活躍ぶりを見せた。


これが主にに70代から90代にかけての時期であるから、驚くほかはない。 その一方で、最愛の妻皆子(平成18年 81歳)、母はる(平成16年104歳)を失う。また多くの盟友、知人を鬼籍に送らざるを得なかった。自分自身も類天疱瘡や胆管癌などの難病を経験している。順風万帆とも見える生涯にも、いくつかの翳りや困難を乗り越えざるを得なかったの
である。

 この時期、俳諧で学んだ即興の昧と年来の方法である造型の手法を駆使して、おのれの存在そのものを自然に表現するにいたる。つまり作句方法が肉体化されて、ほとんど自覚的に意識されないまでの表現手法となっている。造型は比喩、即興は生まの直感なのであった。

 句集『両神』では、一茶に学んだ荒凡夫の自然(じねん)なる生き方を体して、「天人合一」る言葉により、天(造化)と犬を結ぶ「気」の働きに気づくようになる。天然自然の中で、犬や生きものの存在が交感を深めていることに気づくようになっているようだ。


酒止めようかどの本能と遊ぼうか      (平成1) 『両神』
長生きの朧のなかの眼玉かな        (平成3)  〃


 体力の衰えの自覚に伴い、酒を止めることにしたものの、さてそうなるとどの本能と遊ぼうかなと、赤裸々な人間像を打ち出している。「長生き」の句では、「朧」を老いの象徴のおぼろ感として、「長生き」と「眼玉」の両方にかけ、とはいえどっこい何でも見てやろうとする意思もみせる。長寿のおぼろ感をできるだけ愉しもうとしているようでもある。

 『東国抄』では、「土をすべての存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である『産土』の時空を心身込めて受けとめようと努める」という。「天人合一」の気の働きを、より自然に、身近なものとして受け取ろうとしているのだ。

よく眠る夢の枯野が青むまで        (平成9)  『東国抄』
おおかみに蛍が一つ付いていた      (平成10)  〃

 芭蕉の「旅に病んでゆめは枯野をかけめぐる」を踏まえて、芭蕉は死へ向かう境地だが、自分はよく眠って夢の枯野が青々と芽吹くまで生きてやろうという。兜太は兜太だ、の気持ち。「おおかみ」の句では、幻の狼を秩父の日常に溶け込んでいるイメージとして捉え、遥かな祖先の呼び声に誘われるようなリアルないのちの通い合いを感じている。
闇の中に狼がうずくまり、そこに蛍が一つぽつりといのちの灯をともすように現われている。いのちの原始の姿を捉えた代表作。

 「日常」では、より自在に囗常の生なましさをさらしつつ、兜人政のアニミズムを働かせて、生きもの感覚そのものを体現しようとしている。

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ    (平成14) 『日常』
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか  (平成20)  〃

 104歳の天寿を全うした母は六人の子を生み、その長男が兜太。うんこのようにひり出されたもんだとばかり、母を身近に感じている。 「ジュゴン」は、ある日ふとその駘蕩とした巨躯に魅入られて作った連作七句のうちの一句。今日まではジュゴンのようにおおらかに生きてきたが、明日は虎ふぐのように少し毒をもったものになっているかもしれない。それも面白い。生きもの感覚で生きる兜太の、生きもののメタモルフォーゼを造型してみせる。

合歓の花君と別れてうろつくよ       (平成18)『日常』

 最愛の妻との死別は、時を追ってこたえてくるようで、『日常』では悼句21句を上げている。「ブーメラン亡妻と初旅の野面」など、その思い出はつきない。初期の愛妻句と並んで、情の人兜太の一面を覗かせている。
 全体として第五期は、第一期の造型より映像が簡明で、その分人間臭が濃くなっている。自然が生きもの感覚として体に入ってきて、造型の肉体化か進んでいる。老いてますます成熟してきたともいえよう。
平成28年刊 海程社 0568-22-0073 3000円

その6 「金子兜太の現在とこれから」

 八十歳頃から始めた立禅は、精神の集中と体調の管理に大いに役立っているようだ。瞑想の中で、亡くなった思い出の人百数十名の名を読み上げる。「すると彼らのくいのちの影〉を感じる。彼らのいのちは死んでいない、また別の場所で生きている。これは期待というより確信に近い」という。土に帰っていく死者は、生きもの感覚を持つ兜太にとって、親しい存在である。アニミズムに満たされた他界は、土の手触りのようにも受け取れるのだろう。

 兜太は、九十歳に六ってから、語りおろしの形の著書を次々と出した。自分の生きざまを通して高齢化社会に生きる一つの典型を述べているのだが、これが多くの共感を呼んでいる。その主なものをあげてみる。

 日野原重明対談『たっぷり生きる』(平成22・91歳)佐々木幸綱対談『語る俳句短歌』(平成22・91歳)、『悩むことはない』(平成23・92歳)、半藤一利対談『今日本人に知ってもらいたいこと』(平成23・92歳)嵐山光三郎対談『年をとったら驚いた』(平成24・93歳)、『語る兜太』(平成26・95歳)、『私はどうも死ぬ気がしない』(平成26・95歳)、『他界』(平成26・95歳)等。


 これに呼応するかのように、金子兜太論が一斉に論じられるようにもなった。 九十歳になってからこれほどのブレークをする例はあまりないのではないか。

兜太はすでに社会的栄誉は手にしてしまっているのだが、その余光で晩年を気楽に過ごしてにるわけではない。大震災や平和の俳句の推進力となり、「アベ政治を許さない」の書で安保法案反対の全国的世論を喚起するなど、今なおその発言の重さで、大きな社会的影響力を発揮している。時代とともに歩む俳人なのだ。

 このようなエネルギーの源泉には、戦争体験がある。戦争に生き残ったものは死者とともに生きるという感情を自分の中に保つことが出来て初めて、本当に生きているいう実感をもつ。その平和運動は、生き残ったものの死者との連帯感の回復への努力」支えられているだけに、根強いものがある。

 しかも兜太の場合、その生き方は、やりたいことをやりたいようにやっているとで自由さなのだ。つまり荒凡夫の生きざまでこなしているところが、多くの支持を得てる理由でもある。生き方の面白さと作品がないまぜになって多くの支持を受けている。
実作を見てみょう。

 津波のあと老女生きてあり死なぬ     (平成23)
 被曝の人や牛や夏野をただ歩く      (平成23)
 津波跡鋭き山峡の僧侶かな        (平成26)
 遠く雪山近く雪舞うふたりどころ      (平成26)
 被曝福島狐花捨子花咲くよ        (平成27)

 いずれも今日的問題意識に即した作品が多い。
 「津波のあと」「被曝の人」は、震災直後いち早く被災の現実に反応して作られたもの。「津波跡」の句は、今なお被災の跡の生々しい山峡を弔う僧侶の姿。「遠く雪山」は、ふたりどころの風景を雪舞う厳しい寒気の中に見つめる。

「被曝福島」は、震災後四年の歳月を忘れまいとする思い。ここには、震災を風化させまいとするクリエイティブな感覚が働いている。

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