2016年2月20日

金子兜太の世界 魅力とは

角川・平成21年刊

金子兜太の魅力   <アンケート>

相原左義長・・・愛媛県現代俳句協会名誉会長

1.酒やめようかどの本能と遊ぼうか
はじめて愛媛県海程人を秩父俳句道場に出席させた時出合った
兜太先生の句であり、大いに問題になった句である。

2.夏の山国毋いてわれを与太と言う
昭和二十年末復員した私を見て、母は「与太者」と言った。
「与太」「与太者」という言葉で母は息子の「侠気」に少な
がらぬ信頼を寄せているのである。

3.黄のタオル春陰三日ほどつづく
本年五月はじめのNHK俳句王国で兜太先生か主宰で、主宰者の
出題「春陰」の句である。兜太師の最近作であり、新たに加えた
私の感銘句である。


赤尾恵以・・・「渦」主宰

1.銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく
 人体冷えて東北白い花盛り
 猾に遠く火を焚く村の衆

2.霧の村石を投うらば父母散らん
霧の村とは兜太生誕地の原風景だが、この句を幼年期の思い出と
すれば平凡な写生に過ぎない。兜太は故郷を思い、濃霧の時は一寸先
も見えない生活を憂い、投石して霧を散らそうとしたが叶わず、
霧の底に住む村の衆を散らしてしまう。
その中の父母に焦点をしばったことに郷愁、抒情が窺える。だが我々は
一撃を感じる。爆撃・大地震を経験していると投石も怖い。
この一句は、霧・石・父母を象徴する原風景への前衛思想とみる。

3.霧の山中飛の鳥となりゆくもの
作者赤尾兜子は霧にさからえなかったが、兜太はダイナミックな精神で「放漫で不安定の自分の気持に厳格な秋序をり与えようとする願いである」と断定した。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子       金子兜太

 その初期の秩父の句の一つ。秩父は山国だから田はすくない。畑径に曼珠沙華が赤く咲き、子供たちが遊んでいた。夏の日焼けがまだ十分に残っている子供たちは、着たもののまえをはだけて、腹をだして走ってゆく。腹は、麦や野菜を多食して、ふくらんでいる。「秩父の子」という発想が、ごく自然にでてくる。

 東京の学校にいて、休暇になると帰郷していた時期で、帰郷青年の幼時回想といった感傷とともに、育った郷土をあらためて見直している、自分でもおもいがけないほどの新鮮な眼のはたらきもある。学校を卒業するまでの私の句は、「機銃音寒天にわが口中に」とか「日日いらただし炎天の一角に喇叭鳴る」「喇叭鳴るよ夏潮の紋条相重なり」

「愛欲るや黄の朝焼に犬佇てり」「二等兵の肩章汚れ湖荒れる」のような、都会にいてじわじわと感じる「たゞならぬ世」(中村草田男)への感性的反応、いや不快の表明と、
「蛾のまなこ赤光なれば海を恋う」「山脈のひと隅あかし蚕のねむり」「上間口に夕枯野見ゆ桃色に」のような、帰郷したときの、あるいは、都会にいての郷里想望風なリリカ
ルな心情表出だったが、重心は大きく秩父にかたむいていた。

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ   金子兜太

 昭和十九年(一九四四年)三月、ミクロネシアの一珊瑚島嶼トラック島に、海軍主計科の一員として赴任した。その一と月まえの米機動部隊による二日連続の空襲によって、島はほとんど壊滅状態になっていたが、それでも航空基地はまだ生きていて、零戦や艦攻・爆撃機が動いていた。
七月のサイパン島陥落までは、トラック島は中部太平洋の要衝として、まがりなりにも機能していたのである。

 したがって、航空基地のジャングルのなかには、よく磨かれた鉄の匂うような魚雷が隠されてあって、いつでも雷撃機に搭載できる状態になっていた。その並べられた魚雷の丸い胴を、蜥蜴がチョロチョロ這いまわり、すぐ草むらに消えてしまったのだが、その一瞬のなまなましい膚触感に、しーんとした緊張があった。

 「古手拭蟹のほとりに置きて糞る」のような、防暑服と褌一本の生活は私の性にに合っていて、今でも忘れられないが、しかし「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」のような句にこめた、多数の非業の死者への思いは、それに増して私にかぶさっている。その重みは、いまでも変ることはない。

0 件のコメント:

コメントを投稿