2016年12月31日

「金子兜太 自選自解99句」

角川学芸出版 2,190E

『生長』
白梅や老子無心の旅に住む
裏口に線路が見える蚕飼かな
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

◆『少年』
蛾のまなこ赤光なれば海を戀う
富士を去る日焼けし腕の時計澄み
霧の夜の吾が身に近く馬歩む
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る
赤蟻這うひとつの火山礫拾う
犬は海を少年はマンゴーの森を見る
古手拭蟹のほとりに置きて糞る
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
椰子の丘朝焼しるき日々なりき
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
朝日煙る手中の蚕妻に示す
独楽廻る青葉の地上妻は産みに
墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
熊蜂とべど沼の青色を拔けきれず
きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
雪山の向うの夜火事母なき妻
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
平和おそれるや夏の石炭蓆かぶり
白い人影はるばる田をゆく消えぬために
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む


◆『金子兜太句集』

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
朝はじまる海へ突込む鴎の死
銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
豹が好きな子霧中の白い船具
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に
黒い桜島折れた銃床海を走り
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
わが湖あり日蔭真っ暗な虎があり

◆『蜿蜿』

どれも囗美し晩夏のジャズ一団
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
霧の村石を投らば父母散らん
鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し
三日月がめそめそといる米の飯
人体冷えて東北白い花盛り

◆『暗緑地誌』

林間を人ごうごうと過ぎゆけり
涙なし蝶かんかんと触れ合いて
犬一猫二われら三人被爆せず
夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
暗黒や関東平野に火事一つ
 
◆『早春展墓』

馬遠し藻で陰洗う幼な妻
海とどまりわれら流れてゆきしかな
山峡に沢蟹の華微かなり

◆『狡童』より

河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく
ぎらぎらの朝日子照らす自然かな
日の夕べ天空を去る一狐かな
わが世のあと百の月照る憂世かな
髭のびててつぺん薄き自然かな

◆『旅次抄録』

霧に白鳥白鳥に霧というべきか
廃墟という空地に出ればみな和らぐ
大頭の黒蟻西行の野糞

◆『遊牧集』

梅咲いて庭中に青鮫が来ている
山国や空にただよう花火殼
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
猪が来て空気を食べる春の峠
山国の橡の木大なり人影だよ

◆『猪羊集』

黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ

◆『詩經國風』

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人
抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴
流るるは求むるなりと悠う悠う
人さすらい鵲の巣に鳩ら眠る
人間に狐ぶつかる春の谷
日と月と憂心照臨葛の丘
桐の花河口に眠りまた目覚めて
若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥
白椿老僧みずみずしく遊ぶ
麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな
どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ

◆『皆之』

牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ
唯今ニー五〇羽の白鳥と妻居り
滴江どこまでも春の細路を連れて
れんぎように巨鯨の影の月日かな
夏の山国母いてわれを与太と言う
たっぷりと鳴くやっもいる夕ひぐらし
冬眠の鰒のほかは寝息なし

◆『両神』

酒止めようかどの本能と遊ぼうか
長生きの朧のなかの眼玉かな
春落日しかし日暮れを急がない

◆『東国抄』

よく眠る夢の枯野が青むまで
じつによく泣く赤ん坊さくら五分
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神と呼ぶ山の民
狼生く無時間を生きて咆哮
小鳥来て巨岩に一粒のことば

◆『日常』
老母指せば蛇の体の笑うなり
定住漂泊冬の陽熱き握り飯
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
合歓の花君と別れてうろつくよ
言霊の脊梁山脈のさくら
左義長や武器という武器焼いてしまえ
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか

◆所収句集一覧
『生長』(未刊句集)
『少年』(一九五五年、風発行所刊)
『金子兜太句集』(一九六一年、風発行所刊)
『蜿蜿』(一九六八年、三青社刊)
『暗緑地誌』(一九七二年、牧羊社刊)
『早春展墓』(一九七四年、湯川書房刊)
『狡童』(未刊句集)
『旅次抄録』(一九七七年、構造社出版刊)
『遊牧集』(一九八一年、蒼土舎刊)
『猪羊集』(一九八二年、現代俳句協会刊)
『詩經國風』(一九八五年、角川書店刊)
『皆之』(一九八六年、立風書房刊)
『両神』(一九九五年、立風晝房刊)
『東国抄』(二〇〇一年、花神社刊)
『日常』(二〇〇九年、ふらんす堂刊)
*「生長」「狡童」は単独の句集としては未完のものであるが、
『金子兜太句集』{一九七五年、立風書房刊}に収められた。


2016年12月29日

兜太句を味わう 「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」

『金子兜太句集』
湾曲し火傷し爆心地のマラソン             兜太

Twisted and seared
the marathon at the center
of the atomic explosion  (英訳・海程同人 小長井和子)

「あの夏、兵士だった私」 金子兜太

単行本(ソフトカバー) 2016年8月 清流出版 定価=本体1500+税
今こそ、伝えたいあの戦場体験!
トラック島、数少ない元兵士が語る、
戦場の日常、非業の死、食糧難……
反骨の俳人は、どのように戦後を生き
現在を見るのか?

「プロローグ とても、きな臭い世の中になってきた
第1章 あまりにも似ている「戦前」といま
第2章 「死の最前線」で命を拾う──トラック島にて
第3章 捕虜生活で一転、地獄から天国へ
第4章 日銀は仮の宿、?食い物?にして生きてやる


第5章 明日のために、いまやっておくべきこと

今日、アマゾンから届き、一気に読んでしまいました。情勢の分析が深く、内容が濃いです。竹丸は、今までの本で金子先生の来し方の概略は知っていましたが、この本は力んでいない分、思いが深く読み手を共感させるでしょう。素晴らしい本ですよ。

アマゾンで販売しています

2016年12月20日

兜太の語る俳人たち 『水原 秋櫻子』

水原 秋櫻子 (みずはら  しゅうおうし)(1892~1981)
俳人、医学博士。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。
短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き
込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり離反、俳壇に
反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。
「馬酔木」主宰。


高嶺星蚕飼(こがい)の村は寝しづまり          水原秋櫻子

 秋櫻子句集『葛飾』(昭和5年・1930刊)所収。-この作品を逸早く私が記憶したのも、したがって気まぐれなことではなかったのである。 句集『葛飾』を父親の机上に見付けだして、なんとなく拾い読みしたのは、もう中学生(旧制)になってからのことだった。昭和7、8年(1932、3)の頃だったろうか。

 秋櫻子が、昭和6年(1931)に主宰誌『馬酔木』に「自然の真と文芸上の真」を書いて、『ホトトギス』から離れたとき、秩父谷の伊昔紅はただちに同調した。そして、馬酔木支部句会のようなものを毎月自宅で催して、ガリ版刷りの俳誌『若鮎』を、これも月刊で出していた。

まさに若鮎だった。句会に集まるのはおおむね青年から中年で、句会のあとはかならず酒宴を張り、そして口論し、ときには殴り合いまでした。
中学生の私には、その様子がまことに物珍しく、俳句とはこのように人間臭いものとして映り、かつ焼きついたのである。いま、若鮎たちも老いあるいは死んで往時の面影はないが、しかし存命の潮夜荒、黒沢宗三郎、浅賀爽吉、村田柿公、渡辺浮美竹といった人たちに会うと、私には当時の雰囲気が流れてくる。

2016年12月19日

兜太の語る俳人たち 『金子伊昔紅』

遠い句―近い句』 富士見書房  [1993年4月]
○伊昔紅と秋桜子  ○楸邨と波郷 ○初期「馬酔木」の人々 
○出沢珊太郎のこと ○「成層圏をめぐって」
○竹下しづ女への親近 ○嶋田青峰との出会い○清貧を詠うひと
○銃後の町 ○肺碧きまで
○堀徹の青春 ○草田男の全人的投入 ○楸邨と隠岐 
○即物的抒情の二人○新情緒主義、横山白虹
○ビストルと露   ○月夜の葱坊主 ○「伐折羅」群像

『遠い句・近い句』より抜粋 1993年刊


金子伊昔紅(1889~1977)
金子兜太の父で農山林医として結核撲滅に貢献する一方、俳人としても「馬酔木」の同人で、水原秋桜子や高浜虚子らと親交があった。粗野だった秩父音頭を現在の形にし普及に努めた。

蚕卵紙青みぬ春のはたたがみ      金子伊昔紅

 水上にいる春雷の句が出てくると、どうしてもこの句が無視できなくなる。そして、この句のような、かなりに洗練されたものを頭にとどめるようになるのは、もう青年期に入ってからのことだった

 春雷を聞く頃になると、蚕卵紙(種紙)が青みはじめ、やがて毛蚕(けご)が生れて、育ってゆく養蚕農家の春から夏は、蚕卵紙の青みにはじまり、旺盛に桑の葉を食べる蚕とともにある。桑の葉を食べる葉騒のような音が消えると、白い繭を結ぶ。
 
 秩父は田がほとんどなく、畑地も少ないので、養蚕で暮しを立てる農家が大半だった。明治17年(1884)の秩父事件も、繭・生糸相場の変動が直接の原因になっている。昭和後期から平成のいまでも、秩父には養蚕をおこなう農家が多いのだ。

 伊昔紅の患家に養蚕農家が多いことは、したがって当然で、蚕飼で忙しさの極みにある家を訪ねるときは、気をつかったのだろう。ところが山の農家は義理堅くて、医者を見ると、できるだけのもてなしをしようとする。伊昔紅にこんな句もある。〈客に打つうどん蚕飼に惜しき手間〉。

 私の記憶のなかにも養蚕のことがずいぶん積っている。戦争から帰ってきて、すぐ結婚したとき心句に、〈朝日煙る手中の蚕妻に示す〉があるのも、そのためである。

 伊昔紅の「蚕卵紙」の句は、そんな回想を呼びおこしてくれるのだが、作品の出来ぐあいとして目ても、「蚕卵紙」と「はたたがみ」との語感の照響(こんな言い方をさせてもらう)がなかなかだとおもう。

「はたたがみ」の語感には、紙のさわさわと鳴る感じがあって「春の」とくると、よけい明るい。まるで、青みはじめた蚕卵紙の音そのもののように感じられてくるのである。
「いや、ありゃあカミナリさんだよ」と笑う気分もあってー。



2016年12月10日

№3「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津 勉


秩父

日の夕べ天空を去る一狐かな     (『狡童』)

秩父事件の中心地帯である西谷(につやつ)は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。いや、そう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。

 僧といて柿の実と白鳥の話     (『旅次抄録』)
        
禅僧大光(たいこう)は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのかふつうで、あの生ぐさい味が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。しかしみょうに練れた味があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。
柿の季節は白鳥飛来の季節でもある。秩父盆地を南に向って流れる荒川べりにも、すでにだいぶ来ているようだ、と僧はいう。


山国や空にただよう花火殼     (『遊牧集』)

山国の大は花火が好きだ。秩父事件でも知られる吉田町は竜勢(りゅうせい)の打ちあげでも有名。秩父の人の暮らしは、周囲を里山で囲まれ、更にその向こう上武甲信との県境に連なる二千メートル級の連山によって南の空は限られている。空か狭い。そこに光のはじけるものを打ち上げたい気持ちはよく分かるのである。その花火殼が空にただよいつつ落ちてくる。花火の終わったあとのあっけなさ、空しさのようなものがいつまでも消えない。

山国の橡の木大なり人影だよ    (『遊牧集』

郷里の山国秩父、そこの里山の中腹に小屋を得て暮らしていた頃にできた作。歩いていると橡の大樹に出会う。20メートルをこえる高木もあり、その幹は太い。初夏咲く白花は美しく、私たちはその実を拾い、橡餅や橡団子をつくって食べる。里山に暮らす人たちには、仲間のようなあるいは兄貴のような存在と私には思えていた。だからこの大木が人影に見えることも珍しくはない。

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫    (『遊牧集』)

早春の三つの花、春を告げる黄の花、などと勝手に呼んで、まんさく、さんしゅゆ(山茱萸)、きぶしが咲くのを待つのか、毎年の慣わしのようになっている。
なかでもまんさくが早い(まんさくの語原は「まず咲く」がなまったものともいわれている)。――薄黄の、細くねじれた花が枝にかたまるように咲く様子は、ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じなのだが、もともとが山地の花だから、郷里の秩父盆地の谷間のあちこちで、この満作踊りを見受ける。そして、俳諧師小林一茶が書きとめていた「荒凡夫」という言い草が、ここの花によく合うともおもっている。


  秩父・雁坂峠
猪がきて空気を食べる春の峠    (『遊牧集』)

秩父音頭(むかしは盆唄だった)の歌詞のなかに父が作詞した「炭の俵をあむ手にひびがきれりや雁坂雪かぶる」がある。いまでは木炭が見直されているか、それでも炭俵をあむ手仕事を知る人は少いだろう。その手にひびがきれるころは冬。雁坂が雪で白くなる。子どものとき、祖父などが、雁坂は雪だなあ、冬だぜ、と言っていたのを思い出す。雁坂峠には栃本という集落があって、むかしは「秩父甲州往還」の関所だった。わたしは、以前に二度ほどそこに泊ったことがあるか、猪の話もいくどか聞いた。山畑を荒らす。その肉(山鯨ともいう)を食べると情がふかくなる。猛スピード。lその猪が、いまごろは峠にのこのこ出てきて、春の味の、澄んだ空気を腹いっぱい吸いこんで(いやいや、食べて)いるのだろう、とおもってぃる。

夏の山国母いてわれを与太と言う  『皆之』)

母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや104歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。

 
春落日しかし日暮れを急がない    (『両神』)

故郷の秩父の民宿に集って句会をやったとき、最終の会でこの句ができたのだが、夕暮れどきで、里山の中腹にある民宿の向かいの山の頂に夕日が近付いていた。春の落日は光芒をひろげて美しい。日暮れを引きのばすかのように、ゆっくりと落ちてゆく。その風景と向かい合って、この句あり。むろん、まだまだ歳はとらないよの気構え。
  

おおかみに螢が一つ付いていた   (『東国抄』)

七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は「土」なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を「産土」うぶすなと思い定めてきた。そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるか、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる。群のこともあり、個のこともある。個のとき、よく見ると螢が一つ付いていて、瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と螢、「いのち」の原始さながらにじつに静かに土に立つ。嵐山光三郎さんがこの句を読んで、「あんたの遺句だ」と言ったのを覚えて
いる。

おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民    (『東国抄』)

郷里の秩父(「産土」を代表する山として日頃敬愛している両神山(りょうがみやま)には、狼がたくさんいたと伝えられているが、土地の人たちが狼を龍神と呼ぶと聞いて、両神山の名もそこから決まってきたのではないか、と私は思ってきた。いま住んでいる熊谷からも晴れた日には台状の両神山が見える。いまでもその台状の頂に狼がいる、と思えてならない。

狼生く無時間を生きて咆哮     (『東国抄』)

狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)
                                       
言霊の脊梁山脈のさくら      (『日常』)

この脊梁山脈は、郷里秩父盆地の南に連なる二千メートル級の連山。陽光を遮って盆地を暗くしているのだが、春とともに桜も咲く。そして暗い山脈の山肌に点々と見える桜花には隠微な美しさとともに霊感のようなものが感じられてならない。言葉に宿っている不思議な霊感とはこれか、と思ったりする。



№2 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E

秩 父

 霧の夜のわが身に近く馬歩む     (『少年』)
                           
 学校の休暇で郷里の秩父に帰ったときの句。炭馬(すみうま)という、炭を 運び出す馬がたくさんいた。秩父街道を荷馬車がずいぶん動いていた。だ から、働いている馬は身近なもので、街道でも山径でも、よく出会った。
 並ぶようにして歩いていたこともある。実際は人が口輪を取っているのだ が、霧の夜などは殊に、馬体の温かみがしみじみ感じられて、そこに人を 感じないくらいだった。生きものどうしの何んとも言えぬ懐しさ親しさ。

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う   (『少年』)

 これも大学生時代の作品。夏休みに郷里に帰った際、寝起きしていた蔵座 敷の窓に蛾が飛んできた。そのときのもの。大きな真っ赤な蛾の眼。それが 光線の変化の加減でキラリと光る。私は山国秩父の育ちなので、あこがれは 海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の 夢があった、と言ってよい。娥の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ

曼珠沙華どれ屯腹出し秩父の子   (『少年』)

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いない。

 朝日煙る手中の蚕妻に示す      (『少年』)

トラック島から帰った翌年昭和22年(1947)の4月、塩谷みな子と結婚。新婚旅行などは夢の夢の頃で、小生の実家で初夜を過ごし、朝、二人で近所を散歩した。農家はどこも養蚕の時期で、親戚の農家に立ち寄って、その様子をみな子に見せ、蚕を手にとって、これで秩父の農家は現金収入の大半を得ているのだ、貴重な生きものなんだ、と説明した。「示す」に、「これが秩父だ」、の気持ちを込めていた。

裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな    (『生長』)

青少年時こんな風景にいつも出会っていた。ちょうど親戚の家に行ったときの句で、秩父鉄道沿いにあり、裏口に線路が見えている風景と、蚕飼が進んでいる家の中のざわついている雰囲気と。郷里の匂いがいっぱいに伝わ兮蚕飼は当時の秩父にとって唯一といっていい生業だった。

霧の村石を投うらば父母散らん     (『蜿蜿』えんえん

「霧の村」は、私の育った秩父盆地(埼玉県西部)の皆野町。山国秩父は霧がふかい。高度成長期と言われている昭和三、四十年代のある日、私か訪れたときの皆野も霧のなかだった。ボーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうなあ、と、ふと思う。経済の高度成長によって、都市は膨らみ、地方(農山村)は崩壊していった時期だ。山村の共同体など一たまりもない。老いた両親はそれに流されるままだ、と。

山峡に沢蟹の華微かなり      (『早春展墓』)

郷里の山国秩父に、明治17年(1884)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投入されるほどの大事件だった。その中心は西谷(にしやつ)と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな  (『狡童』)

菩薩寺である秩父は長瀞町本野上の総持寺の境内にこの句碑を置いてもらっている。私の最初の句碑である。秩父盆地の西側の山裾に張り付いたお寺で、だから朝日がすばらしい。東の里山の重なりから顔を出した太陽が真正面から照射するのだ。まさに「ぎらぎらの朝日子照らす」。これが自然というもの、との思いなので自然(じねん)の読みは採らない。呉音のじねんでは「おのずからそうあること」式の理屈が這入り込む感じで嫌なのだ。私は他界した妻のみな子を〈自然の児〉と思っていたので、彼女がこの句にしなさいと言ったとき、直ぐ受け入れたのである。むろん、初めから彼女の読みはしぜん。



№1 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

秩父こそ金子兜太の源と思います。
詩人の正津勉氏が編んだ「日本行脚俳句旅」  の秩父・熊谷編を何回
かに分けてアップします。本当にコンパクトなのに過不足無く纏められ
ていると思いました。管理人・ 竹丸
アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E
秩父は、兜太の郷里だ。
大正8年(1919)9月23日、埼玉県小川町の母の実家で生まれ、秩父盆地皆野町の父の家で育つ。父元春(医師、俳号・井昔紅)母はるの第一子。15年、皆野小学校に入学。昭和7年(1933)、熊谷中学校(現、熊谷高校)に入学。

11年、2.26事件を雪中に知る。秩父事件についての古老からの聞き書きを校友会雑誌に出す。

 熊谷は、現在の在所だ。
 昭和42年(1967)、47歳。7月、転居。これには「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という妻みな子の託宣あったと。いま一つ、ここを終の棲家に選んだの、もちろん郷里の秩父が間近だからだ。

 秩父と、熊谷と、ここでの句が多く採られているうえに、じつに簡にして、ズバッと要を得た解がほどこされている。編者にはそれにくわえて付言するほどのなにもない。いや、しかしただ一つだけど、ある。

 それは両神山である。兜太の産土の山だ。わたしは山遊びをする、ついては両神山行のしだい、をここに端折ってみる。両神を歩くことはそう、そっくりそのまま、兜太を辿ることだから。

 両神山。秩父山地の北端に聳える霊峰。日向大谷は登り囗の両神山荘。宿の玄関のそこに貼られた「狼の護符」? 歩き出すと石の鳥居と小さな祠があり、両神山を開いたという観藏行者の石像を安置する。近くに「矜迦羅童子・ごんがらどうじ」と刻まれた丁目石の一番が立つ。ここから清滝まで36童子の名が刻まれた丁目石が、1丁(約110メートル)ごとに立つ。

ここにいます童子らは不動明王の眷族で登拝者の守護にあたるとか。さきざきに多く石像や石碑が立っている。丁目石に導かれて、薄川と七滝沢の合流点、会所へ。巨大な岩の間に石像が立つ八海山へ。急坂を登り弘法の井戸へ。

  両神山は補陀落初日沈むところ       兜太

 句集の題「両神」は、秩父の山・両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山 頂近い集落平草にゆき、この山を正面から眺めることが多い。

……。あの山は補陀落に  違いない、秩父札所三十四ヶ寺、板東三十三ヶ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めている。
                    (『両神』後記)

 補陀落、観世音菩薩が住む山。ここまで目にしてきた像や碑や山に籠もる気からそれと感じられる。だいたい山名から由緒ありげだ。イザナギ、イザナミの二神を祀ることから呼ぶという、「龍神を祀る山」が転じた、などなど諸説あるとか……。

両神神社の本社裏手の御嶽神社の奥社。両社に鎮座まします、狛犬もどき、独特の風体をした、これが山犬。ということは狼、何でそんなまた? これに関わって謎めいた句がある。

  語り継ぐ白狼のことわれら老いで        兜太

「白狼」? おそらく秩父三山の両神山、武甲山、三峰山ほか、広く奥秩父や奥多摩の山々に伝わる、日本武尊東夷征伐の際に、山犬が道案内したという伝説にちなむ。

だがまたべつの記憶にも関わることをその底に含意しているとみられる。秩父事件である。明治17年(1884)、この大規模な農民蜂起の舞台は、ここ秩父の里山からじつに信州は八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯である。

いまここで詳しくしないが、このとき立ち上がった困民党を導いたのが、ほかならぬ
「白狼」と擬され語り継がれている。そのように解せるのでは。「白狼」? それはそして兜太自身でこそないか。




2016年12月2日

「兜太句を味わう」河の歯ゆく朝から跪まで河の歯ゆく




河の歯ゆく朝から跪まで河の歯ゆく    金子兜太 (句集・狡童)

 冬の北海道に数日の旅をして、この日は、札幌市内のレストランで遅い昼食をとっていた。一人旅の気やすさもあって、窓のむこうをながれる豊平川の川面をながめながら、ゆっくり食べていた。

 豊平川は広い。しかも石狩川にそそぐ、と思うと、川でなく河と書きたい大きさがさらにひろがるのだが、風が吹いていて、その河面には荒れ気味の無数の河波が立っていた。ときどき白い波がしらがのぞき、それがつぎつぎに重なってながれてゆく。河波を河の歯だとおもう。

 わたしは若いころから食べものをゆっくりかむくせがあって。したがって食事時間が長い。「早飯早ぐそ早草鞋」が男子の心がまえのようにいわれていた時代に育ったわけだが、この三つともわたしには実行できなかった。
しかられてもどうしても食事時間を短縮できない。トイレの滞在時間を縮めることは、生理的に納得できない。旅立ちの支度を急ごうと思えば思うほど指先が動かない。

 しかし、わたしが現在健康でいられる一囚に、この遅さがあると、ここにきていよいよ確信しているしだいである。 いま、水をえた魚のように、わたしの食事はゆっくりながれている。ガラス越しの河の歯はぞくぞくとながれて絶えることはない。朝から晩まで絶え間なく、とおもえば、河波をいのちあるものと痛感し、無常の感なしとせず。

「俳句の作り方が面白いほどわかる本」金子兜太


2012年6月刊 中経出版 1200E  (文庫になっています)
第1章 俳句ってなんだろう
第2章 俳句の技法 あれこれやってみよう
第3章 兜太先生と一緒に俳句を鑑賞しよう
第4章 俳句の楽しみ

「小林一茶」小沢書店


1987年刊 1800円
小林一茶の2万句のなかから90句を選び、一句毎に鑑賞し評伝を
加えた寛政三年紀行・寛政句帖・西国紀行・挽歌・父の終焉日記・
暦裏句稿・享和句帖・文化句帖・七番日記・八番日記・文政句帖・
文政句帖以後・あとがき 

2016年11月30日

兜太句を味わう「水が照るこんなに照るよ冬なれや 」



水が照るこんなに照るよ冬なれや   金子兜太    「句集・遊牧集」

 先日隠岐を訪れたのを機に金光山の共生不動尊におまいりしてきた。お顔がおおまかで土くさく、なんともなつかしいのである。

 その山上には水がわいていて、大山の伏流水といわれてかれることがない。これを大きな金属の容器でくみとる。くんだ水が冬ぐもりの光を映していて清らかだった。

 こういうときは、「水光る」と書いて「水てる」と読みたい気持。そして「照る」とズバリかくときは、「水照り」ともいいかえて、湖沼や海のようなひろがりが、キラキラでなく、語感はよくないがテラテラと光をひろげている状態をいうことにしている。

 この「水照り」が記憶にのこるときは、なにか劇的な感銘をおぼえるときに多い。日常のなかで、冬という季節の到来を痛感したときの感銘が、この句のようになるわけである。

 国文学の暉峻康隆氏は太平洋に面する志布志(鹿児島県)の出身で、父君は僧。父君他界のとき話を人づてにきいて、感銘したことを思い出している。父君は死病と知ってから絶食し、水以外は囗に入れなかったという。

 そしてある日、やおら起き上って、床の上に正座し、そこにいる人たちに向かって、「お世話になりました」とふかぶかと頭を下げたというのである。それから日ならずして亡くなった由だが、遺骸の向うに志布志の海の照りを見る思いが、わたしにはある。

2016年11月23日

2016年11月 527号 〈好作三十句〉  金子兜太・抄出

海程 好作30句

河岸段丘川上村のキャベツ光る    石 川 修 治

サングラス歩幅は滅法広くなり     石 橋 いろり

終の息母はいちごに使いけり      伊 藤 道 郎

蘭鋳飼いたし夕日射す厨         大 池 美 木

暑さ言い取り敢えず摂る昼餉かな   大 西 恵美子

迷魂や最上舟唄にかなぶん       大 野 泰 司

何者と問われて休す薄暑かな      荻 谷   修

夜の秋聖書カバーに母の帯       奥 山 富 江

椰子の実を唄ひ涙す生身魂       かわい きよし

いつまでも戦後赤肉メロン生る     小 松   敦

黴臭きサルトル愛でて読む夜かな   佐久間 正城

蠅叩蠅拒むかに湾曲す          高 田 獄 舎

空蝉を抜けて緑色傾(かし)ぐかな      竹 本   仰

ふっと来るデジャブな場面桔梗は   立 川 真 理

光継ぐ被爆の蛍人なくに        立 川 瑠 璃

出征に妻の裸婦像無言館       谷 川   瞳

大夕焼この世の果てを見し如く    中 條 雅 夫

言葉尻とらえてつぷつぷ麦の飯    遠 山 恵 子

飛車角を思いのままに梅雨の雷    烏 井 國 臣

萍や難民の子ら捕虜ごっこ       中 川 邦 雄

母逝くやあらん限りの蛍呼ぶ      西   美恵子

福島はフクシマにあらず桃甘し    丹 羽 裕 子

母が父に嘘言う平和豆ごはん     根 本 菜穂子

烏賊墨を吐く腰痛じくっと悪さして   増 田 暁 子

塹壕に迷ひ螢の光曳く         増 田 天 志

蛇渡る身を奔流に打ちつけて     村 本 なずな

広島しずかに水水母水水母      望 月 士 郎

蛇衣を脱ぐ被曝地の川の縁      山 本 きよし

無頼なる医師と前後の富士詣     吉 田 憲 助

水ようかん私の反戦って弱い     六本木 いつき


竹丸ひとり合点日記
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2016年11月5日

「米寿対談」<俳句・短歌・いのち>金子兜太・鶴見和子


「語る 俳句 短歌」金子兜太&佐々木幸綱 


藤原書店2010年6月刊2400E
黒田杏子編・最高の俳句短歌入門・二人の巨匠が一晩かけて語り明か
した貴重な対話禄
1 俳句 短歌の魅力
2 アニミズムと人間
3 俳句の底力 短歌の底力

節目の年に――はじめに  金子兜太

 幸綱氏とは戦後の若いときから妙に気が合っていて、対談や座談会を
いくどかやっている。今更改めての気持だったのだが、この対談を勧め
てくれた黒田杏子さんは言う。幸綱さんはいま七十歳、早稲田大学教授
を終えたばかりでもあるから、来し方行く末を睨んでの積る話があるは
ず兜太さんはいま九十歳。

これも節目。丁度区切のよい歳に当って、お互いに話したいことかおるに
違いありません。健康法でもなんでも、日常の心構えのようなことを話し
合うだけでも興味をもっ人が多いはずですよ。

 加えて、藤原書店店主藤原良雄氏は、小生の郷里秩父(埼玉県西部の
山地)が生んだ西洋史学の碩学井上幸治氏に私淑してきた。その井上氏
は、明治十七(一八八四)年の秩父事件についてもよく調べておられて
著書も多く、事件研究者の中心でもあった。

 小生も同郷の事件として関心 を募らせてきて、井上氏からたくさんの
御教示をいただいてきた。敬愛する同郷の先輩なのだ。藤原氏は、そ
の井上幸治氏の郷里秩父で対談をやってくれと言う。小生の乗り気は
高まるばかりとなったのも止むを得ない。

 夢のような二日――おわりに       佐佐木幸綱

                                  
 対談は、二日にわたって、初秋の秩父・長瀞の清流を広く見わたす
旅館長生館二階の一室でおこなわれました。

長瀞は兜太さんのご生家からほど近い。いわば兜太テリトリーです。
しかも長生館の玄関ロビーには、大きな額に入って、金子兜太の堂々
たる字で書かれた「猪がきて空気を食べる春の峠」の句が掛けられて
いました。

 緊張して出かけて行ったのですが、なんだか兜太さんのお宅にうか
がったようなくつろいだ気分になりました。そして、もう半世紀近く
昔のことをふと思い出したりしました。
 兜太さんの雑誌「海程」が創刊されて間もなくのころ、雑誌用の
座談会にゲストとして呼んでいただいたことがありました。

「海程」の若手俳人三人といっしょに話そうという企画です。会場
は金子兜太邸。杉並にお宅があったころだと思います。その日、座
談会のテーブルに、当時は貴重品だったジョニーウォーカーの黒を
出してくださった。
あまり飲んだことがなかったせいもあって、座談会が終わるまでの
二、三時間に私かそれを一本飲んでしまったらしい。飲みはじめて
しばらくは憶えているのですが、途中からはまったく記憶がない。
後で恥ずかしい思いをしました。

 そんな昔のことが思い出されました。あのころ、兜太さんはまだ
四十代でいらっしゃった。私は二十代でした。それが今、九十代と
し七十代になって対談させていただく。大げさではなく、夢のよう
な感じでした。

 対談の席には、黒田杏子さんが同席してくれました。ここ何年か、
黒田さんとは折にふれてよくいっしょの仕事をさせてもらってきま
した。同年生まれということもあって、機会も多かったのだと思い
ます。黒田さんが選者のテレビ俳句番組に出させてもらったことも
あります。

 本では、黒田さんが構成を担当してくれました。彼女の構想力、
構成力はたいへんなもので、すっかり信川しておまかせの気分で
しゃべらせてもらいました。

ありがとうございました――あとがきにかえて  黒田杏子
 二〇〇九年一月三十一日(土)、古稀を迎えられる幸綱先生の
「早稲田大学最終講義」を聴講させて頂きました。九月二十三日
(水・秋分の日)、兜太先生産土の地、埼玉県秩父郡皆野町で句
碑除幕ほか、先生の卒寿を祝う集いが盛大に開催され、参上いた
しました。

 その昔、日銀を金庫番として五十五歳で定年退職されたのち、
兜太先生が朝日カルチャーセンターで「一茶」ほか漂泊系の俳人を
とり上げる講座をもたれました。午前の休暇を職場に申請しては、
新宿の教室にかけつけておりました。何冊もの大学ノートに万年筆
でびっしりと書きこまれた克明な一茶研究の跡。鳥肌が立つよう
な時間でした。

 そののち、私か十三人の俳人に聴き手をつとめました『証言昭和
の俳句』(角川書店)にも、代表格でご登場下さいましたが、まず
雑誌「俳句」にその内容が掲載されるや、「オレたちの戦後の行動
と仕事を、消さないで、きちんと残してくれてありがとう」とサ
インペンで大書された葉書を頂きました。さらに、『金子兜太養
生訓』(白水社)をまとめる際、「オレを支えてくれてい るのは、
非業の死者の島から生きて還ってきていること。戦後に復職した
職場と、見事に保守がえりをした俳壇での冷飯。この二つだとい
うことを覚えておいてもらうといいかな」と。

 幸綱先生の作品や著作には可能な限り、ずっと眼を通してき
ました。ある日、先生から鶴見和子対話まんだら・佐佐木幸綱
の巻『「われ」の発見』(藤原書店)が送られてきました。その
晩読了した私は、はさみこまれていた読者カードに感想を書き
こみ投函。わずか百字にも満たないその言葉が版元の藤原書
店の『機』(月刊PR誌)に掲載されたことから、鶴見和子さ
んとの思いがけぬ交流がはじまりました。私はケア(ウス
「京都ゆうゆうの里」の彼女の居室に何度も招かれ、亡くな
られるまでの数年間、またとない交流がとぎれることなく
続き、さまざまな教えを享けました。

信じられない事実ですが、幸綱先生からのこの対話集のご恵投
がもたらしてくださったご縁でした。七月三十一日。私たちは
米寿を機にこの世を発たれた彼女のお命日を、鶴見俊輔先生の
ご承認を頂いて「山百合忌」と名付けました。毎年東京駿河台
の山の上ホテルに於て、「鶴見和子を語る夕べ」を全国から集
まられるさまざまな分野の皆さまと続けております。

 このたびは、長い年月にわたり、ご教導を賜り、さまざまな
場でお励ましとご恩を頂きました、この国を代表される俳人と
歌人、おふたりの誹り(囗われるその場に同席させて頂くことの
出来ました時間とご縁に感謝を捧げます。テープおこしとその後
の編集に協力してぐださった吉田ひとみさんにも感謝いたします。

2016年11月4日

長瀞・宝登山神社の金子兜太句碑除幕式


谷間谷間に満作が咲く荒凡夫   金子 兜太

たらちねの母がこらふる児の種痘  金子伊昔紅

「平和の俳句」の選者を務める俳人金子兜太さん(97)=皆野町出身=の
句碑の除幕式が3日、長瀞町長瀞の宝登山神社であった。金子さんや親類、
俳句仲間ら約50人が集まり、俳句の刻まれた石碑が地元の神社で後世へと
伝わることを祝った。

 句碑は皆野町産の濃紺の油石で、幅1.3メートル、高さ1.1メートル、
奥行き70センチ。金子さん本人が「谷間谷間に 満作が咲く 荒凡夫 兜太」
と揮毫(きごう)している。秩父の谷間でマンサクの花をめでる自らの姿を
詠んだという。

 句碑は、金子さんの功績をたたえるとともに、秩父路散策の道標にしようと、
地元の食品製造会社や造園会社の関係者が中心となって建立した。金子さんの
句碑のそばには、同じように俳句に親しんだ父の伊昔紅(いせきこう)
(本名元春)さんと弟の千侍(せんじ)さんの句碑も並んでいる。
 金子さんは「こうして句碑をつくってくださった方に感謝したい。
父や弟の句とともに並ぶのはうれしい」と喜んだ。
 

2016年10月28日

兜太句を味わう「夕狩の野の水たまりこそ黒瞳 」


夕狩の野の水たまりこそ黒瞳          金子兜太

 「枯野を見る会」がある、と書いたことがあるが、枯野とまではいかないものの、冬の訪れをひしひしと感じる夕ぐれどきの野に立っていたとき、この句ができた。

銃の狩猟ではなく、古き時代の、おおぜいが鳴りもの入りで鳥獣を追い出していく狩りの風景を思い浮かべていたのである。その声が遠のき、野には夕空を映した水たまりだけが残っていた。枯れ色のなかに、黒瞳のように。

 黒瞳はその場での感覚から生れたことばだが、その感覚のおくに、青年期に体験した戦地での記憶がしみこんでいることに気付く。それは飢餓で死んでいった人たちの眼だ。やせ細った顔にぼんやりと眼がひらかれていて、なにを訴えるでもなく、いたずらに澄んでいた。胸のなかにはさまざまがあるはずなのに、なにも伝わってこない。ただ澄むだけの眼。黒瞳はすこし甘いが、しかし黒瞳。
 
自分の句のこんな記憶にこだわっていたとき、片山淳子さんの句、「先頭はもうほうたるになっている」に出会った。

 所属してい参現代俳句協会の全国大会での受賞作だったが、わたしは出来のよいほたるがりの句といったていどに読んでいたこしかしヽ片山さんが受賞のあいさつのなかで、最近亡くした姉への思いをたくしてつくった、と話しているのをきいて、わたしはにわかに感銘したのである。ほたるは姉のたましいでもあるのだ。水たまりの黒瞳に、そのほたるの火が映る思い。 俳句には不思議な出会いがある。



飯食えば蛇来て穴に入りにけり     金子兜太

 飯を食べていたら、まるでそれが合図のように蛇がするするとやってきて、穴に入った、ということだが、じっさいは、食事中に偶然、秋の蛇を見ただけのことで、誇張である。

 しかし、このとき、自分という人間も蛇も同じ自然界の生もの、飯を食うことも穴に入ることも同じ生のいとなみ、というおもいにとらJれて、生きものどうしのえもいわれぬ親密感のなかにいたことは事実だった。そのための誇張である。

 蛇は秋もふかまると穴に入って冬眠する。数匹から数十匹が寄りあつまり、からみ合っているという。穴に入らないのもいて、穴惑いという季語もあるが、わたしの見たのはそれだったのかもしれない。

 とにかく、蛇は不気味かつ不思議な生きもので、嫌う人が多い。ことに女性の俳句で蛇が好きだとかいたものに出会った記憶がない。しかしわたしは蛇が嫌いではない。とくに机の引き出しなどで飼う気はないが、石をぶつけて追いはらう気持など毛頭ない。

 小学低学年のころ、ヤマカガシだったか手に巻きつけて、担任の女性の先生の前にぬっと差し出して、親しみを示したことがあった。先生はぎょっとして身を引いたあと、あらかわいいわね、といったのだから、あんがい蛇好きだったのかもしれない。いや、教育のためのご配慮だったのかもしれぬ。


竹丸ひとり合点日記
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2016年9月1日

金子兜太主宰に聞く・海程500号までの道程 


2014/2.3~ 海程500号 金子兜太主宰に聞く  

聞き手は/河原珠美、室田洋子、柳生正名、
司会進行/堀之内長一、伊藤淳子

司会 年に「海程」は創刊五十周年を迎えましたが、「海程」誌も本号で記念すべき五〇〇号に達しました。主宰が変わらずに五〇〇号を迎えた俳誌はあまりないのではないかと思います。今回は五〇〇号を記念して、あまり肩肘張らずに、ふだんはなかなかお聞きできないようなことも含めて、金子先生にお話をおうかがいしたいと考えています。まず五○○号を迎えたことについて、先生はどのような感慨をお持ちでしょうか。


「海程」五〇〇号までの道のり

金子 感慨はあんまりないんですよ(笑)。実は五〇〇号ということより、五十年のほうが何だか印象的でしたね。五0O号になったかぐらいの感じです。

 海程ははじめは同人誌で、途中から主宰誌に変わったわけですが、その主宰誌に変わった背景には、阿部完市君が仕事のついでにあちこちの地方の海程人と会って話を聞いてきたことがありました。地方の人たちは自分かどういう俳句を作っていくかという目標をなくしてしまい、みんな勝手なことをやっていますよ、というわけです。 


海程に参加している人はみんなプライドを持っている。プライドを持っているから、地方にいても自分の俳句がいちばんの中心だと思っている。このままだと、海程はつぶれてしまう。先生は好きじゃないかもしれないけど、そろそろ主宰誌に切り換えて、あなたの考え方でみんなを指導する、まと
めていくぐらいの感じでやったほうがいいのではないかと彼からアドバイスがあったのです。おれも、詩の世界というのは、難しい俳句を作っていることがプライドになるようなものじゃない。単純な

ものにだってすばらしい詩があるし、難しい詩だってだめな詩があるわけだから、そういうものじゃ
ないと思っていたから、そこで阿部君と意見が合ったのです。多少議論もあったけれども、海程の名古屋大会で結局主宰誌に決まりました。

あのころ、そのときほぐしを盛んに図ったことは事実なんだ。やわらかくしていこう、やわらかくしていこうと。ほかの主宰誌を見ていると、いかにも自分がすべてを指導していくというような考え方の人が多いよね。おれは一緒になって友達になって遊ぶのは得意だけど、どうも自分が指導するこ
とが性分に合わなくてね。いま五〇〇号と言われたけれども、それでも主宰者という実感はないんだなあ。




司会 放ったらかしということでしょうか。

金子 放ったらかしが、いつの間に基本方針になってしまってね。

司会 楸邨先生と似ていますよね。

金子 そう、似ています。楸邨も絶対に人の句を直したことはなかったですね。放っておけばいいという気持ちがあるんですね。今でもそうです。だから、おれにとって五〇〇号というのは印象に残らない。むしろ、編集してくれた桜片処。、

大石雄介、守谷利とか、その前の大山天津也、酒井弘司、細川義男、今の武田伸一とか、代々の編集長や編集に関わりた人の苦労を私は感じます。特に大山などはなかなか勉強していて、俳句外のいろいろな詩人、歌人を連れてきて、うちの仲間と一緒に座談会をしてくれたのです。佐佐木幸綱とか、吉行和子の妹の吉行理恵とか。海程というのはむしろ主宰が頑張ったというより編集者が頑張った雑誌じゃないかと思っています。編集者に恵まれています。

 大山天津也は一九七〇年、交通事故で四十二歳で死にました。あの時、海程に「梨の木」という文章を書かせてもらったのだけれど、自分ではあれは小説だと思っている。「梨の木」をいま一度読み直してください。

花鳥諷詠に傾く俳句界に歯止めをかける

司会 初期の海程を見ますと、毎号のように座談会があって、俳句への情熱が滾っていますね。そういう時代だったということもありますが。

金子 六十年安保の翌年に俳人協会というのができたでしょう。有季定型という虚子のスローガンを掲げて、俳句はこういうものだということを高らかに打ち出したわけだ。その後には虚子の直系が日本伝統俳句協会をつくった。それまでの俳句の世界というのは、社会や人間ということをテーマにして作っていて、季題や季語などは問題にされなかった。

したがって自然、花鳥諷詠などという考え方も縁遠いという気持ちがみんなにあったんです。そういう熱気があるところに水を差されて、それに対しての抵抗として、六十二年に海程は同人誌として出たんです。

 梁山泊の気持ちでつくったんだとおれは前に言ったことがあるけれども、我々はつぶされてはいかんと思って……。つぶされるとは思わないけれど、そこで戦後俳句の大きな流れが堰き止められて、流れる方向を変えられそうな雰囲気になってきたわけだね。その時期にできたわけですから、みんな気負って、自分たちで何とか頑張ろうという気持ちでやっていたと思います。それから十年後ぐらいに阿部完市が地方へ行って、心配して、主宰誌へというようなことになったんです。これはしようがないですね。 
 
思い出すのは、私かその時期に『今日の俳句』という戦後俳句の総まとめみたいな本を出して、これもわりあいにみんな読んでくれました。それがあって、花鳥諷詠に傾いている世相に対して一応歯止めをしたような状態があったんです。

あったのだけれど、七十年代になって高度成長が始まるころになると、私か見ていてもはっきり花鳥諷詠にどんどん傾いていったんです。しかも、みんな経済的にも楽になってくるものだから、よけい社会性だの蜂の頭だのなんて難しいことを言うよりも、もっと花鳥訊詠の世界に身を投げて緩やかに作りたいという雰囲気になっていった。その雰囲気を受けて、しかもその時代の雰囲気をかなり背負った形で俳句作りをするのが一人出てきた。それが鷹羽狩行です。

鷹羽狩行は、次第に花鳥諷詠、というよりもむしろ有季定型に傾いていく風潮の中で、有季定型寄りで、若干戦後俳句の空気というか、一言でいえば、現在ただいまというものを大事にする。花鳥諷詠てはなくて、現在ただいまの気分、気持ち、感情。理性ではなくて感性的にとらえた俳句を彼は作り出したのです。彼としては偶然のことでしょうが、あれはお手柄です。かたや「ホトトギス」があり、かたや鷹羽狩行の現代俳句がある(彼は現代俳句とは言ってないけれど)。

だから、もっとやわらかく、対等に、あるいはそれ以にに俳句を作るというグループでないと海程はつぶされてしまうという阿部君の気持ちがあったのではないかな。あの時期が頭に残っていますから、五十年というのは、「ああっ、ずいぶん頑張ったな」という気がするのです。

▲ 造型俳句論、ふたたび

司会 それでは、今の先生の話を受けて、柳生さん、いかがでしょうか。

柳生 自分が海程に参加する前の記念号ではどんなことをやっているのかと思って見てきたのですが、三〇〇号記念の時に、先生が「滑稽と挨拶」をテーマに講演を行っていました。先生がいま言われた戦後俳句の流れと俳人協会、日本伝統俳句協会の流れがぶつかり合う中で、海程もいままでどおりの突っ張ったことだけでやっていてはどうなのかという、そうした問題意識で、たぶんこのテーマが出てきたのではないかと想像しました。三〇〇号の時が「滑稽と挨拶」だとすると、五〇〇号ではどういうテーマを先生は出そうと思われているのでしょうか。

金子 いや、まだ考えてないんだけど(笑)。いま言われたので気づいたのは、前に実業之日本社から出した私の『俳句入門』が復刊されて角川文庫から出ました。見たら対馬康子君がいい解説をしている。そのテーマが、私の造型俳句論をわかりやすく、しかも掘り下げて、アニミズムにまで結びつけて受け取ってくれている。あれは非常にいい解説で感謝しています。実は正直いって書いた

当座は、あんまり反響はなかったんです。つまり。よくわからないということ。いま自分で読んでみても何かごちゃごちゃ難しいことを、たいして中身もないのに言葉だけ難しく並べて書いているんだよね。これじゃ無理だろうなと思ったけれど、それを対馬康子君がほぐしてくれたので、ホッと気づいて、これからおれのやることは自分の書いた造型俳句という考え方をもっとほぐして皆さんに使

えるだけ使ってもらう。この方法をね。そういうことが一つ大事かなと……。やはり、造型俳句という考え方で統一しておいていいのではないか。

造型俳句論では、映像が大事だということを私は盛んに言ったんですね。これはそんなに難しいことを言っているわけではないんです。皆さん、お気付きだと思うけれど、二言でいうと客観、主観という考え方。正岡子規が写生と言ったものだから、その写生と言ったのが虚子に引き継がれて、虚
子はそれを客観写生に統一して、主観写生は危ない。写生に主観を加えると碧梧桐のようなこと

になってしまって、自分勝手なことを言い始めて、挙げ句の果ては自由律に行くというようなことになってしまう。これは危ないから私は二度踏みたくない。そうすると問題は客観写生だ。この客観写生と主観との闘いという、自己を二元化してその間の関係を考えていくというのは近代的な考え方なんです。

 自分をもっと一元化して、作る自分が一元化されなければいけない。自分の中に客観と主観があって、それを一緒にするか別々に扱うかカタカタして、おれは客観を中心に書くんだと言ってみたり、おれは主観が中心だという……。そういう客観だ、主観だという人間的な考え方は近代的な考え方で、古い。正岡子規の影響を虚子が客観写生に一元化しようとして「ホトトギス」の中の主観派

の連中をみんな追い出したりした。蛇笏など、みんな追い出された。これは完全に近代的現象であって、そうではなくて、現代の方法は主観だ、客観だというのではなくて、映像として作る。主観も客観もない、そいつを全部一緒にしてしまって映像を作るという考え方が大事というか、それでなければだめなんだ。また、それでないと大きなことが書けない。主観だ、客観だなんていうと小さいことしか書けない。そのようなことを考えて、書いたんですが、かえって混乱させてしまった。

 映像とは自分の中のすべて、客観も主観もない、自分という主体の中にできあかってくる映像世界というものを書けばいい。五〇〇号はちょうどいい機会だから、客観とか主観とかいう写生ではなくて、映像で書くということをもっと一般的にもわかるようにこれからときほぐしていって、造型俳句ということをみんながわかってくれればいいんじゃないかと思っています。


映像の句「鶏頭の十四五本もありぬべし」をめぐって

司会 それについて切実な疑問があったようです。室田さん、いかがですか。

室田 東京例会でしたか、先生が今と同じように、近代の子規、虚子の写生から現代の兜太の映像へということをおっしやいました。私は先生のお話をメモした句報を地方の方に送ってあげているのですが、このメモを読んで、これは具体的にはどういうことを意味しているのかと質問されました。

私たちは例会で先生のお話しを直接うかがう機会が多いのでわかるような気がするんです。でも、地方で海程だけを読んでいる方々は、はっきりわかりきらないのかなと思いました。

金子 そうか、そうか。例句を挙げてみましょう。皆さんにいちばんわかってもらえると思うのは、正岡子規の最晩年の句「鶏頭の十四五本もありぬべし」。あの句を私は映像の句だと思っています。映像という書き方でというか、方法と言っておきますか、映像という方法で生まれた句だと。それは、どういうことかというと、鶏頭を見ている子規、つまり子規の客観的な目というものが感じられないでしょう。それから、子規が鶏頭についてどう思っていたかという主観の目というようなものもあの句には感じられないでしょう。

どっちかの側に傾いて書かれたということではなくて、そこに鶏頭がズバリとおるという映像があって、それがいろいろなものを暗示してくれるという句ではないですか。鶏頭の存在感をとらえている。その存在感の中に死に近い自分の思いが込められている。そういう句だと思う。だから主観も客観もない。客観写生も主観写生もない。鶏頭と正岡子規との取り組み。相撲でも取っているんだ

な。取り組みの中から生まれてきている。子規の中に生まれている鶏頭の映像。その中には命ということも含めて、鶏頭の映像というものが書かれるという、そういう意味の映像だと言いたい。なかなかうまく説明できませんが、そういうことなのです。鶏頭の十四五本、そういうものがあると書いた。その映像が伝えてくれる内容を味わう。この説明で多少ご了解いただけるかと。

室田 とてもよくわかりました。

柳生 客観写生がいいかどうかは別として、虚子の言った客観写生がこれだけ広がったのは、見たものを見たまま書けばいいんですと言われると、理屈を超えてとりあえずだれでもわかった気にはなるわけです。でも、自分が作るとなったら、例えば主観も客観もない、悟りの世界みたいなところまで行ける人はそう多くないはずです。我々、俗な凡人がそこに少しでも近づくとしたら、どういう努力をしたらいいのか。皆さん、そこのところで何か見えたらうれしいなと、思っているような気がします。

金子 鶏頭を見ていていろいろなことを思うわけでしょう。いろいろなことを感じている。その思ったり感じたりしていることが全部ひとまとめになって、書けたと思う瞬間があると思うんだ。それが映像で書けたということだと思います。あの場合でも子規は「鶏頭の十四五本」ぐらいまでもかなり
ためらって、「ありぬべし」と言った時に、おれの今の気持ちが全部鶏頭を通じて伝わっている。鶏

頭がそこにある姿として伝わっていると思ったんじゃないですかね。彼としては客観写生のつもりで書いたかもしれません。鶏頭を書いた、自分の思いを込めたと素朴に思ったかもしれないけれど、
もっともっと深い、子規の胸の内と鶏頭とが一緒になってしまって、それで一つの映像、姿形としてとらえられたというふうに思います。

柳生 主観と十四五本咲いているという客観が一つになって、どっちにも傾いていないというか、両方が一気に噴き出してきているような感じがする。

金子 そうですね。おもしろいエピソードがあって、虚子はたしかはじめ「子規句集」ではこの句を省いたんです。つまり、虚子の考えている客観写生の線からいうと、ああいう俳句は異端なんだよ。それで省いてしまった。そのことを逆に言えば、虚子の到達しなかったところを子規が書いていたと
いうことにもなる……。 

時間をかけて映像を熟成させる

司会 河原さん、いかがですか。

河原 推敲の仕方についておうかがいしたいと思います。例えば、ある思いを持って句ができたとします。自分はわかっているものだから、それで安心して句会に出してみると、先生に「下五ががっかり」と言われる。その「下五ががっかり」のところががっかりでないようにするのに、どういう発想の転換をすればいいのか。先生に言われると、「ああ、そうだ、やっぱり当り前だった」とわかるのですが、言われる前はわからないというところが残念なところです。

金子 これはおれの体験だけど、今のように鶏頭を見て一つのことを考えるでしょう。何か考える、その一つのことだけを鶏頭に託して書くというのが、いわば客観写生の段階であって、これだと人様が見ておもしろくないとか、わからいということが出てくる。そういうものをある日ある時、一
の中でずっと温めているうちに、鶏頭というのがそういうのを包含した姿として出てくる。そういう瞬間をとらえ.ることになりませんか。おれなども今わりあい時間を置ているんです。庭に小鳥が来る。感覚は簡単に出てくるけど、すぐ書かないで四、五日は放っておく。そうすると夜け時になって句が一つの具体的な姿として、おれの思いをめて出てくるという瞬間があるわけだ。


河原 熟成させるということでしょうか。ある程度、自分中で醸していく。

金子 時間をゆっくり置くということ。映像を作るというはそういうことでもあるんでしょう。時間をゆっくり置い熟させていく。宮崎駿のような映像作家も一つのものをまめていくのに時間をかけるようです。時間をかけることが事なのではないかな。

河原 チャチャッと作って、チャチャッと出すのはだめとうことですね。

金子 ホトトギスみたいに、一日に四回ぐらい句会を開いちゃっちゃかちゃっちゃか一人一〇句ぐらい作ってやるとう、ああいうことをやっていたのでは絶対にだめなんだ(笑)。客観写生作家にはなっても映像作家にはなれない。ああいうことではいい俳句はできない。

柳生 虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」という句は、ある意味、虚子的な造型というか、映像だと思うんです。

金子 映像と言えるよ。

柳生 もちろん客観写生ではないし、造型ですよね。虚子も造型の大事さというか、映像を自分で作っているという自覚がありつつ、でも、もしかしたら弟子がみんなそれをやり始めると自分の立場がなくなるから、弟子にはあまりやってはいけないみたいなことを言いながら、自分はいちばんいいところはそれで作っていたのかなと時々思ったりします。

金子 そういう面があるよ。おれも「白牡丹といふといへども紅ほのか」、あのもったいぶった句を見た時に君の言ったとを感じたよ。

柳生 鶏頭の句とも雰囲気がちょっと似ていますよね。金子 うん、似ている、似ている。自分ではああいう主観的な句が書きたかったのではないかな。だから、さっきの子規のあの句など、嫌がってしまった。こういうことはだめだって。それから、主観派は全部追い出されています。前田普羅、
飯田蛇笏、原石鼎、みんな追い出されている。そういう点、非常に潔癖だったんだよ。だけど、内心は自分が作りたかった。そこがおもしろいところですね。あそこは彼も商売人なんだよ。あの人は商売人としては非常に上手な商売人で、スローガンがうまいでしょう。客観写生、花鳥訊詠、うまいこ
とを言うねえ。         

柳生 造型、そして映像というものを踏まえて、これからの俳句の向かう方向がどうなっていくかというのは、海程に参加している若い人もいろいろ考えているでしょうし、関心があると思います。金子先生のイメージされるこれからの俳句は、どんな方向に向くと思われますか。例えば、僕などは俳人がノーベル文学賞を取るぐらいというか、本当は金f先生が取らなければおかしいと思うし、取ることで俳句が一つ進化すると思うんです。

金子 これからの俳句というと難しい……。今の質問だけど、スウェーデンの詩人でノーベル文学賞を取った人がいたでしょう(編注‥2011年、トーマスートランストロンメル)。俳人だとも言われている、あの方のことをスウェーデン大使館でしゃべれと言われてだいぶ勉強したんです。勉強して驚いたのは、イマジズムというのがありますね。アメリカのエズラーパウンドから出発した映像主義というか、イマジズム。あの詩の運動の影響力が結構強いということに気づきました。
 
子 ゲーリー・スナイダーというイマジストは、愛媛県の正岡子規国際俳句大賞を受けて、一緒にお話ししたことがあります。R・H・ブライスという人が『俳句』という四冊本を英文で書いて、その一冊は芭蕉、蕪村、一茶、子規という四人の句を千何百、訳しています。それが戦後間もなくアメリカに行って、それをイマジストが取り上げた。イマジストにも東海岸のイマジストと西海岸のイマジストというのがあったようで、ゲーリー・スナイダーとギンズバーグは西海岸のイマジストだったようです。ことほどさように影響力が強かった。元祖のエズラーパウンドはイギリスにいた時期があって、
ヨーロッパにもヨーロッパーイマジストと言われる人たちがたくさんできた。ノーベル賞を受けた詩人もヨーロッパーイマジストの影響を受けているんです。だいぶ交わりがあったと、そばにいた女性の記録があります。

 だから、イマジズムの映像なんていうのはもっと勉強しないといけない。私もあんまり勉強していないので偉そうなことは言えないけれど、私らが考えているのと、いま柳生君やおれの言ったこととあまり変わらないと思うんです。長いことは言わない。ギュッと言う。客観だ写生だなんて野暮なこ
とは言わない。それがノーベル賞を受けている。イマジズム、俳句という流れの中でノーベル賞作家が出てきたことは人きいし、これから日本の俳人でも可能性があるんじゃないですか。おれなどはもう年を取りたからだめだけど、もっと片いところで……。

柳生 先生がもう少し長生きすれば……(笑)。

金子 いやいや、まるで無理でしょうね(笑)。

 ▲口語定型をめざす

河原 私か入ったころはライトバースが全盛期で、いま海程ではそれが当り前のようになっていて、口語で書くこともはじめから受け入れていただいていました。口語で書くことの難しさ、緊密な韻律を作る難しさとか、口語は口語の問題があるかと思います。先生のお考えをお聞かせください。

金子 自由律俳句の連中とも接触していますが、まず何よりも、口語定型を作りなさいと言っています。日本語の定型はすばらしい音数律で、リズム感があるわけで、これがないとどうしてもだらけてしまう。だから、口語定型を作りなさいと言っています。放哉とか山頭火でも句をよくご覧になると、「咳をしても一人」式の、我々がいいと思っている句というのはほとんど定型に近い。日本語の定型はすばらしい詩形式なのではないでしょうか。 


河原 それは口語でもあてはまるということですね。もちろん五音と七音の塊。

金子 そのあてはまるような努力をすることが口語俳句の目的ではなかったかとおれはいつも言っているんだ。そうすると、いやがられるんですけどね。難しいことを考えているわけじゃなくて、文章というのは口語で書くようになったんだから、俳句も口語でいいじゃないかと単純に言ってしまいま
すが、俳句という詩の形式はそんな単純なものではないんだと。言っています。短いからいいというのなら、それは俳句じゃないと言っています。定型ということを意識して欲しい。

 我々の場介は逆に、五・七・五を考えて定型詩を書いているわけだから、ここへ口語を持ち込んでしまう。自由自在に持ち込んで書くという考え方でいいんじゃないですか。特に河原、室田のお二人さんがいい意味で大衆性があるというのはそういうことなんです。あなた方のリズムほわりあいに平気で口語を使っているんですよ。内容も口語的で日常的なところがあってね、それがまた親しみを持たれているわけです。それが非常に大事でないでしょうか。

河原 そういう口語はよくないという人もいます。ですます俳句とかね。

金子 そんな野暮なことを言う理由がない。野放しで口語で書くから、よくない、野暮な感じになるんでしょうが、五・七・五の定型にはめ込んでごらんなさい。すばらしい響きを持つんです。「咳をしても一人」なんていいじゃないですか。
「入れものがない両手で受ける」「鉄鉢の中へも霰」。ああいうのはやはり五・七・五が基本です。あの人たちはもともと五・七・五をやっていたわけだから。


季語は世界に冠たる詩語

室田 俳句は短いので類型とか類想があるのはしようがないけれども、その中で、本歌取りも悪くはない。だけど、それをまたさらに発展させていくすばらしい季語を見つけなさいと先生がおっしゃっていました。季語は詩語、詩の言葉でふるというのが、すごい印象的でした。

金子 絶対にそうですよ。やや誇大な言い方をすれば、世界に冠たる詩語と言っていいんじゃないかな。こんな美しい言葉は世界の詩でもあまりないでしょう。いま自由詩や短歌などを読んでも、彼らはわざと意識的に季語を外して書いているような作品が結構ありますよね。私はああいう詩に言葉のうえの貧しさを感じることが多いんです。むしろ自由自在に季語も何でも持ち込んで書いている詩のほうが豊かな感じがします。やっぱり季語ってすばらしいでしょう。だから、どんどん使ったらいい。それは口語も蜂の頭もない、季語はすばらしいということで使ったほうがいいと思います。
 
柳生 僕ぐらいの年になってくると季節が直接体に響いてくる。だから、季語というのは美しい言葉であると同時に、季節の流れが直接感じられる、体を通して感じられる言葉だという気がします。

金子 おっしゃるとおりです。体を通して感じられること。体感というかね。おれなんかも年のせいで晩秋なんていう言葉はとても身に沁みます。

 うちの人たちはわりあい季語をおろそかにしてきたでしょう。あれが皆さんの作っている俳句が特殊に見られてきた理由ではないですか。季語があるとかないとかではなくて、季語というのをおろそかに、特別視してきた。その人の言語感覚が句を狭くしてしまっているという面があるのではないかな。だから、季語に対してはもっと寛容で、どんどん受け入れたほうがいいと思うな。おれなどはいま特にそれを切実に感じるよ。

原爆や原発事故も自分の体験としてとらえる

室田 社会性俳句の話がありましたが、今であれば、例えば福島の原発事故とか、そういうことが現代の社会性俳句になっていくだろうと思います。そうしたテーマで俳句を作るうえでの心得というか、注意するところはどこでしょうか。

金子 おれの場合、言うことが決まっていて、自分の体験としてとらえて欲しいということ。あくまでも新聞を読むような気持ちで、事実としてとらえているのではだめだと思います。体験としてとらえて欲しい。我が事のように思ってとらえて欲しい。おれはそんなこと、我が事のように思っていな
い。あれは福島のことだという人には作ってもらわなくてもいいわけだ。原爆然り、戦争だってそうです。我が体験としてとらえて欲しい。そういう実感が大事です。


司会 題材がどうのこうのではないということですね。

金子 そうではないです。あれは題材だという扱い方はだめだと思います。ホトトギスの人などに、原爆とか原発とかを書くことをえらく嫌う人がいるんです。それは我が体験として受けられないものだから嫌悪感を持ってしまうのでしょう。それはそれでいいと思います。べつに無理して作る必要はない。

柳生 先ほど先生がおっしゃった映像というのも、主観と客観があって、ある意味でその間というか、その二つが出会った時にその間で起こるものがたぶん映像なんだろう。長崎ならば長崎、福島ならば福島と自分というのが出会った時に、自分の中に立ち上がってくるものを書かないと……。だから、福島のことだけを書くのでもだめだし、自分のことだけを肖くのでもだめで、その出会いみたいなものが大事だということなのかなと思います。

金子 まったくそのとおりです

河原 働き盛りの人とか、介護に追われている人とか、句会の前にあわてて俳句を作る人も、私も含めてたくさんいると思います。自分の体がなかなか俳句を作るモードにならないことがよくあるのですが、先生はそういう時にどんなふうなおまじないとか、行動をなさるのでしょうか。何か俳句モードのスイッチをオンにする秘訣のようなものがありましたら、皆さんにこっそり教えていただけますか。

金子 そういう場合に密かにやっていることは、夜明けの目が覚める時、その時間をつかまえて俳句を作ります。そうすると、映像が熟してくる。仰向けになって寝て、自分の中で映像作りをやるということですかね。それをやるとできてきます。夜明けの床を利用してもらうといいと思います。若い
人はそういうのは……(笑)。

柳生 じゃあ、寝覚めのぼんやりしている時間を長くとればいいのかといったら、たぶんそうでもなくて、その前に先生であれば、いろいろなものを自分で体験して、よく見て、その存在感をつかんでおいて、それを熟させるということがあるわけですね。

金子 イエス(笑)。おれは紙を持っていて、メモをどんどん書いています。自動車に乗っかって来ている時にちょこちょこと書き曾めて。みんなまとまっていないけど、自分の中でワーツと出てきたものを書く。これが大事です。
 
柳生 それが熟していくということですね。

金子 そうです。

室田 パンを発酵させるみたいな感じ?

金子 発酵、発酵。

河原 だから、種がないとだめなんでしょうね。

金子 そうです。でも、種はたくさんあるでしょう。寝ている間に考える。自分の体験を追っていると種も出てくるんですよ。体験を追うことが大事です。おれの場合、もう年だから幸いなことに夜中に目が覚めることも結構あるんです。だから、横に溲瓶を置いておいて(笑)、それで夜明けに集中
する。

司会 最近、何かというと、「あれをするな、これはだめ」という主宰が多いように思います。俳句の創作にあたって、あれこれ制約を設けるのはよくないといつも思っているので
すが……。

金子 大賛成です。特に文法を言うでしょう。あれがいちばんよくない。助詞のことを議論して、これは「で」がいいかとか、「だ」がいいかとか、まったく意味がないと思う。細かいことにこだわってね。べからずが好きだね。

司会 最後に、柳生さん、いかがですか。

柳生 映像の話とも関係しますが、俳句というのは、句会のその場でわかっていいと思う俳句と、その場ではいいと思えないけど何か印象に残って、後で、ある時、もしかしたらああいうことかなって気がついて、よさがだんだんわかってくる俳句があります。特に映像で作るというのは、見た瞬間いいと思うかどうかというより、そのへんの読み手の心の中でも熟していく俳句を目指すことのような気もします。だから、句会だけの結果にとらわれ過ぎるとよくないかもしれません。


金子 そうです、そうです。 

           (対談終わりです)




2016年8月4日

東国抄 金子兜太 (2011年~2016年)


熊谷市 荻野吟子句碑は芥子菜の土手が見渡す限り続く階段の下にあります
2016年12月  東国抄305    金子兜太

(しし)も居てわが紅葉の暗みかな

秩父困民党ありき麦踏みの人ありき

魂のごと死のごと一団の紅葉

荒涼の晩秋の山蟹よ

被曝福島また津波あり青ざめて

福島や被曝の野面海の怒り

須賀川の火祭胡瓜食む我や


2016年11月     東国抄304    金子兜太

ひと日もよ白曼珠沙華黒揚羽

利根川に花野溢るる夜明けかな

老桜樹眼の前にあり冬眠す

谷間より魚の戯言妻恋いの

茫々と雪の吾妻山(あずま)よ離村つづく

枯原の土手確とあり被曝せり

雪曇り海鳴つづく離村かな


2016年10月     東国抄 303    金子兜太

  草田男頌 六句
わが師楸邨わが詩萬緑の草田男

草田男有り詩才無邪気に溢れて止まぬ

楸邨草田男わが青春のしづの女

季語を含む詩語よ最短定型ありて美(は)

草田男の自信満々季語に遊ぶ

草田男ありてジヨルジュー・ルオーが我に

井月よあくまで鶴を空に見し

2016年8.9月 東国抄 302    金子兜太

戦さあるな人喰い鮫の宴(うたげ)あるな

暑しと水暑しと笑いわが樹林

大きく真白く蘭の花咲く猛暑かな

亡妻の育てし蜩時雨かな

深海の巨大な蛸よ眠らんか

牛蛙からすみとんぼがこんなに居る

老いらくの恋などといま昼寝かな


2016年7月 東国抄301    金子兜太

黒猫の夏の落葉に頭掻く

鹿と人和し山影にありき

蝉時雨秩父の人の話し声

困民党ありき柿すだれの奥に

地蜂くる熊蜂がくる飯了る

臍の垢とるなとるなと夏雲雀

堀之内長一たんぽぽまみれかな


2016年6月      東国抄300        金子兜太

おうけつに しとしたそうな たぬきのこ

甌穴に尿したそうな狸の子

水浴びの子らの谷間の放射能

山百合咲く弱気の虫よさようなら

日本オオカミ復活せよと夏のわれら

初夏(はつなつ)の熊谷の野よ尿放つ

あーあーと美女健啖の夏なり

桑の実と蚕飼の昔忘れめや

2016年5月 東国抄299   金子兜太

花榠櫨貧しかり青春の故山

猪走り鹿走り入ら押し黙る

さくら咲くしんしんと咲く人間(じんかん)

旅も谷も花に埋められ孤の夜明け

真栄寺僧ふところに寒椿

枯蓮の夜闇に皓歯あられもなく

蛇穴を出づ鼠小僧の母の家

2016年4月 東国抄298   金子兜太

  熊谷市新地区三句

行雲流水蛍訪(おとな)う文殊の地

草莽の臣友山に春筑波嶺

荻野吟子の生命とありぬ冬の利根

白雪埋める被曝地帯の紅梅なり  福島を想う

青空に茫茫と茫茫とわが枯木   弟千恃他界

紅梅を埋めし白雪無心かな    妹稚木他界

猫の背に春の落葉の降ることよ

2016年2.3月 東国抄297   金子兜太

  朝日賞を受く(二句)
炎天の墓碑まざとあり生きてきし

朝日出づ枯蓮に若き白鷺

真栄寺僧ふところに寒椿

満天星紅葉亡妻はしやぐはしやぐかな

年迎う被曝汚染の止るなく

秩父巡礼穴を出た蛇ついてくる

蜘蛛の糸枯葉を吊し止まぬかな

2016年1月  東国抄296    金子兜太

流星の野面松風被曝の翳

わが武蔵野被曝福島の海鳴り

阿武隈の白鳥いかにさすろうや

秋刀魚南下す被爆被曝の列島へ

海鳴りなり秩父夜祭から帰る

五十銭の奢りの祖父と祭かな

鹿や猪やと昔海底の秩父

2015/12 東国抄295   金子兜太

福島病む吾妻山(あづま)白雪夜の声
質実剛健自由とアニミズム重なる
葭葦(よしあし)と牛蛙鳴く刈られゆく
朝狩(あさがり)へ渕の目玉の光るかな
山の友冬眠もなくひた老いぬ
秩父困民党ありき紅葉に全滅
  『波』記念号へ
羊村あり「波」の音きく日暮かな

2015/11  東国抄294    金子兜太

転た寝のわれに句を生む産土あり

被曝福島狐花捨子花咲くよ
覗く樹間に白曼珠沙華ふと居たり
白曼珠沙華白猫が居るぞ
わが面(つら)と曇天嫌いの彼岸花
人の暮しに川蟹の谷蛇渡る
この顔にいくたび会いし花野かな   俳誌「顔」へ


2015/10       東国抄293    金子兜太


  トラック島回想(五句)

飢えしときは蝙蝠食えり生きてあり
パンの実を蒸し焼く幸(さち)のわれらに無し
生きてゆく虚無グラマンの目の下で
百に近き島影とあり餓死つづく
狂いもせず笑いもせずよ餓死の人よ
夫一茶を梟と呼ぶ春の妻
朝蝉よ若者逝きて何んの国ぞ

2015/.8.9      東国抄292    金子兜太


峡に住み蝮も蠍座も食べる

集団自衛へ餓鬼のごとしよ濡れそぼつ
緑暗のガマ(地下壕)焼く火陷放射機なり
ハイビスカスの真紅の一花生きるかな
  「沖」誌四十五周年へ(三句)
能村登四郎ありき向日葵畑ゆく
曇天の星月夜なり人の息
眼を閉じても水光(みでり)の冬の家郷かな

2015/7   東国抄291    金子兜太


紅梅の青葉となりし一と笑い

牽強付会の改憲国会春落葉
白木蓮一花残して風の餌食
里山の野に蟹棲むと童唄
雲巨大なりところ天啜る
姥捨は緑のなかに翁の影
緑渓に己が愚とあり死なぬ

2015/6  東国抄290      金子兜太


茸狩る山を越えれば風の国

冬紅葉君満面の笑い顔
われ生きて猪の親子と出会うこと
片栗にとぐろを巻きし真蛇かな
母さんの涼しい横顔黒潮来
葭切が団扇祭りの酔い囃す
直実が団扇であおぐ猛暑かな

2015/5  東国抄289       金子兜太


大雪なり朝の雲ども夢のまにまに

青春の十五年戦争の狐火
  沖縄にて
相思樹空に地にしみてひめゆりの声は
蒼暗の海面(うなづら)われを埋(う)むるかに
洋上に硫黄島見ゆ骨の音も
歳を重ねて戦火まざまざ桜咲く
沖縄を見殺しにするな帛畆寿

2015/4 東国抄 288         金子兜太


鹿や猪やと起きては喋る鳥帰る

薄氷や和(わ)の国人(くにびと)に死を強いるや
陽のなかの春の枯葉を祝ぎいたり
小正月猪(しし)の親子に黄水仙
茫々と雪の吾妻山よ離村つづく
炭焼の人の赭顔も被曝せり
南溟の非業の死者と寒九郎


2015/2.3  東国抄 287     金子兜太  

 
産土の落葉ここだくお正月
人の暮しに星屑散らす枯野かな
小正月猫を労る星ありて
甲武を分かつ雁坂峠鹿越える
人ら老い柿黙黙と熟れて落つ
菅原文太気骨素朴に花ハツ手
困民史につづく被曝史年明ける

 2015/1  東国抄 286          金子兜太


十七歳でわれ産みし母寝正月

雑煮頬ばる母よ六人を産みて
麺棒が嫁入り道具長寿の母
雪雲の会津火祭の須賀川
火祭の胡瓜食むわれ童らと
枯原の土手確とあり被曝せり
雪曇り海鳴りっづく离村かな

2015年1月 新春詠 野に大河    金子兜太


野に大河人笑うなりお正月

初日出づ父の句にあり「去年糞」
漂鳥の被曝の人々米稔るに
遠く雪山近く雪舞うふたりごころ
生きて起きて冬の朝日の横なぐり
寒紅梅長寿の母に朝の唄
融けてゆくにこやかににこやかに斑雪(はだれ)
大雪なり朝の雲ども夢のまにまに
武蔵野に春の雪ちょう静寂(しじま)かな
猪もわれも命のかぎり眠るのです
(現代俳句に掲載されました)
2014年1月 東国抄277    金子兜太
初日出ず父往診の秩父谷
青春の「十五年戦争」の狐火
死と言わず他界と言いて寒九郎
河岸に居座り緑泥片岩冬眠す
白雪の吾妻山(あずま)遠目にふるさと去る
津波の翳夫妻を襲う冬の宿
満作につづく通条花の気息かな 

 2014年2/3月東国抄278    金子兜太
北武蔵野面の枯れに河の韻
遠く雪山近く雪舞うふたりごころ
起きて生きて冬の朝日の横なぐり
うわみず桜の根方猫の子集うところ
ボールペンときどき落とし冬眠す
養花天巨岩の照りを横にして
阿武隈山系被爆の人影に雪が 

 2014/5  東国抄 279    金子兜太 
背梁山脈狼囲む春の鳥
雪積めど放射能あり流離かな
黒文字の黄の花老年合唱団
雪の吾妻山(あずま)よ女子高校生林檎剥く
大雪なり朝の雲ども夢のまにまに
干柿に頭ぶつけてわれは生く
十羽ほど尾長きて春雪を航(ゆ)けり 


  2014/6 東国抄280    金子兜太
峡に生きああ対岸の桃の花
われに遠く鹿走りゆく家郷かな
山住みの向うの尾根に春の人
谷に猪眠むたいときは眠るのです
青だもの白花秩父困民史
われ歩む白木蓮散り敷きし地を
雲積めど放射能消えず流離かな

 2014/7 東国抄281    金子兜太
  村越化石他界
生きることの見事さ郭公の山河
穴を出て雪に出会いて頑固かな
亡妻の姉も逝きしよ通条花の里
津波跡鋭(と)き山峡の僧侶かな
融けてゆくにこやかににこやかに斑雪
牛蛙鳴かなくなりし無聊かな
放射能売り歩く人夏の鳶

2014/8.9 東国抄282    金子兜太
九条の緑陰の国台風来
サーフィンの若者徴兵を知らぬ
老年の奇妙な愛憎青葉騒
緑のなかへ老顔突込む梅雨(つい)りかな
夢に鹿老練の生なぞとありや
妻が愛せし黒猫シンよ暁暗よ
ひぐらしの広島長崎そして福島

2014/11東国抄  284   金子兜太
月に眠り紫苑に朝の眠り託す
生命(いのち)死なずと月下美人に呟く
岩陰に白曼珠沙華一遍行く
若者に集団的自衛権てふ野分
蛇穴へ美男に長生きは少ない
「大いなる俗物」冨士よ霧の奥
  
2014/12   東国抄285   金子兜太
枕辺の夜寒の瀞(とろ)を鮎おちる
秩父困民史ありき福島被曝史を
山畑に蒟蒻育て霧に寝る
秩父路の木槿と語る妻ありき
鶲来て昨夜(きぞ)の月影を啄ばむ
青春の「十五年戦争」釣瓶落し


雑煮頬ばる母よ六人を生みて

2013.1 東国抄266   金子兜太
 小沢昭一他界
正月の昭一さんの無表情
蛇穴を出て詩の国の畑径(はたけみち)
森汚れ海の歎きの山背吹く
夢寐襲う曽遊福島の被曝
人も山河も耐えてあり柿の実や林檎や
野に住みて白狼伝説と眠る
いびきなく小用は多し寝正月

 2013年2/3  東国抄267    金子兜太
平家蟹の顔の親しみ詩心激し(赤尾兜子を思う)
北武蔵雲行き人行き狐火も
鳴くに鳴けず雪ふるなかの百千鳥なり
人という生きもの駅伝の自ら息
とにかく生きると春の落葉に雪積らせ
白寿過ぎねば長寿にあらず初山河
隣りの家赫ッと陽当り実千両

2013年5月 東国抄269    金子兜太
満作咲き猪道をゆく人の声
花粉噴く杉の大樹と墓参かな
わが海市古き佳き友のちらほら
わが友よ春の嵐に子犬拾う
夜明けの夢川音花を散らすかな
渕走る蛇に夜明けの蚕飼かな
上溝桜(うわみずさくら)いつきに咲きて亡妻(つま)佇てり

2013年6月 東国抄  270 金子兜太
人声のしみる立夏の暑さかな
夜明けの灯宇宙飛行士の影も
花は葉に鹿撃たれ谷川に墜ちる
即身佛の誰彼(だれかれ)あやめ咲きにけり
 アマゾンに鰐ありわが庭に土竜
 牛蛙腰のふらつく月日かな

2013年7月 東国抄271    金子兜太
緑陰に津波の破船被曝せり
秩父谷(だに)朴咲く頃はわれも帰る
嘗つて海底(うみそこ)秩父に育ち鰯面(いわしづら)
山葵田を眺めることも生きること
棚にタオル薔薇無雑作に床にかな
科(しな)の花かくも小さき寝息かな
海市に見ゆ大型テレビの踊り子たち

2013年12月東国抄 275    金子兜太
腰弱くなり神無月歩く
晩秋の無為の瀬音に目覚めけり
山径の妊婦と出会う狐かな
緑泥片岩河岸に据り冬眠す
谷間より魚のだわ言冬眠す
谷ふかく夜明けの鹿の交尾かな
遠離る鮎掛の人故山かな

2012/1 東国抄256 金子兜太
列島沈みしか背ぐくまる影富士
海に月明震度加わり初景色
被曝福島米一粒林檎一顆を労わり
有るまじき曽遊の地福島の被曝
冬の緑地帯風評被害の風音
セシユウムのかの阿武隈(あぶくま)河の白鳥か
復興へ破船人影(ひとかげ)冬の松

2012年2月 東国抄257   金子兜太
武蔵野に雪富士われにわれの若さ
雪の富士雪の浅間と頬に閲(せめ)ぐ
雪の外輪雪の浅間の裸形(らぎょう)も立つ
樹相確かな林間を得て冬を生く
関東平野に空ら風わずか今日もわずか
孫二人智(とも)の桜厚(あつ)の紅梅
戦友の南部の姉帯(あねたい)春成るや

2012年6月「海程」 東国抄260 金子兜太
    蓮田双川他界
野に泉味わえば渋し鋭し
長寿の父母の筋骨頂き麦青し
地震の恐れの東京は御免(ごめん)熊ん蜂
バラ咲きぬ長寿無用と長生きして
われに近付く五月の猪(しし)の親子かな
チューリップ畑の少女煎餅噛む
森林汚染ひろがる夏潮のみちのく

2012年8.9月 東国抄262    金子兜太
 小堀 葵他界
楊桃の小堀葵と思いきし
梅雨出水苛(いじ)めとは卑劣の極み
老梅の実の落つ呆れるほどの数
新聞紙夏の狐へとんでゆく
河現われ緑林つづき夢に入る
帰るなり蜂眼前をほしいまま
 辺見じゅんさん昨秋九月二十一日他界
じゆんさんのいのち玉虫色にあり

2012年11月東国抄  264  金子兜太
日本オオカミ復活せよと玉蜀黍(もろこし)噛む
不思議なほど雲は動かず晩夏かな
咲きてあり原曝の地の野萱草
老人舗道に溢れ残暑を動きおり
慈悲心鳥老人殖えて喋るかな
九十代が普通となりて酔芙蓉
歳経れど葡萄もトマトも口に溢れ

012.12 東国抄265  金子兜太 

山影(やまかげ)に人住み時雨恋うことも
霜の影人影(ひとかげ)に濃し山暮し
山影に人住み狼もありき
山影に人あり鹿を撃ちて食(た)ぶ
山影ゆく小学生に雨の粒
狼と人和すことも情念なり
山影情念狼も人も俯伏き

2011年 新春詠  『冬眠』  金子兜太

今を生きて老い思わずと去年今年
今年寅年と呟きて入歯磨きおり
去年今年生きもの我や尿瓶愛す
小学六年尿瓶とわれを見くらぶる
比叡の僧霧に鹿呼ぶ仕草して    
南を限る山脈(やまなみ)に風蚕飼おわる
泣く赤児に冬の陽しみて困民史
渺たるよ炒飯と赤ワインの夕餉
牡蠣にレモン今日の鴉の声高し
冬眠の蛙芭蕉に風邪薬



2011年12月号 東国抄255   金子兜太
一老生かさんと釣瓶落しに医師たち
東京暁紅ひたすらに知的に医師たち
暁声春なり吾を見守れる声も
知の若さの医のなかにいて寛ろぐ
野糞を好み放屁親しみ村医の父
剛の村医の眼光清潔餅搗き唄
風評汚染の緑茶なら老年から喫す

2011年11月号 東国抄254   金子兜太
今も余震の原曝の国夏がらす
被曝の牛たち水田に立ちて死を待つ
平凡な都市緑陰に僧構(かま)える
蝉時雨きつねのかみそりの居場所
一室に徹底の人寝待月
検査入院名月が待っているとは
長江に映る灯を名の妹死す

2011年10月号 東国抄253    金子兜太
   東日本人震災(三句)
「相馬恋しや」入道雲に被曝の翳
水田地帯に漁船散乱の夏だ
燕帰る人は被曝のふるさと去る
しかし死なずと青春ありき青蜥蜴
おしいつくみんみん狐のかみそりも
海に月明対岸に人々のことば
くちなしや蛙とび込む人の家

2011年7月号 東国抄251    金子兜太
津波のあとに老女生きてあり死なぬ
放射能に追われ流浪の母子に子猫
三月十日も十一日も鳥帰る
燕や蝉やいのちあるもの相和して
秩紅に山羊連れて少女期の亡妻(つま)が
秩父暮れやすし山樅魚に東一華
栗の花好きで喋って疲れすぎて

2011年6月号 東国抄250    金子兜太
東一華咲きしと酔い覚めの男
鳥帰る天明飢饉の碑の産土(うぶすな)
山光を島帰る放射能まみれの空
山峡は暗し白鳥は来ずと婆
親しもよ猪紙る僧の頭
宇宙人のごとしよ山椒魚の卵

2011年5月号 東国抄249    金子兜太
     高橋たねを他界      
流氷の軋み最短定型人(じん)
    峠 素子他界
冴えて優しく河原の石に峠素子
狼が笑うと聞きて母笑う
味噌玉転がる隣の山羊が来るぞ
口臭の君よペンギンの群固まる
紅梅に白雪罪罪と野の始まり
鳥帰る猫の子歩く子馬跳ねる

 2011年2.3月号 東国抄 247 金子兜太
少年笑い少女振向く初笑い
青年に職なし老人ごまめ噛む
空つ風来ずなりし関東平野かな
朝日のなかで生牡蝸食べて野に暮らす
糞尿愛好症とかや寒九郎
山国や手の甲に越冬の亀虫
紅葉に日矢不意に来る者の親しさ

2011年1月号 東国抄 246 金子兜太
お遍路の玉蜀黍で巫山戯合う
妻と見ていた原郷の月曼珠沙華
小鳥来て実験棟群に銀鈴
いのち問われて十六夜を過ごす
立待や自然死なら何時でも宜し
病床に寝待の月の面影追う
更待を竜胆の無表情と過ごす

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