2015年9月19日

兜太句を味わう「暗闇の下山くちびるをぶあつくし」

晴れ晴れと笑う金子兜太。写真は蛭田有一氏が撮りました。


暗闇の下山くちびるをぶあつくし     金子兜太   『少年』            

(池田澄子 兜太100句を詠むから)

金子  これは好きな句だ。

池田  これは、昔はよく分からなかったんです。「くちびるをぶ厚くし」の意味が。ごろごろした坂道をドンドンドンドッつて降りてくると、こう唇が膨らんでくるような気分がするのではないかと、ある時気が付きました。そういう感じでいいのでしょうか。

金子  それでいいです。そういう肉体の状態ですね。

池田  この句は一句として面白いと思っていますが、どういうときに作られたかを知ると、一層よくなる句です。

金子  福島支店から神戸へ転勤になった、その福島支店最後の時の句です。

池田  福島支店最後の、送別会をしてもらったときの句、一人で山を走って降りたという。

金子  送別会を安達太良でやった。一人ですけどね、山をぐんぐんと鬱屈し気負った心情で下っていっか。その時の心情の高まりです。

池田  ああ、心情、思いを具体で見せた。映像化した。

金子  なにか鬱屈した、挑む思い、なにかに。次の生活に挑む気持ちで山を降りてきた。一人で、たったったっと。貴女の言ったその状態。

池田  平らな道じゃ、そうは感じませんね。たったったっと下るので体の重みがどんつどんつどんつて、唇がだんだん分厚くなっちゃうという感じ。なにくそって感じ。

金子  ついこの間ね、北上の日本現代詩歌文学館から、「啄木に献ずる詩」というタイトルで開館二十周年記念展をするから、啄木への思いを自分の詩なら詩、短歌なら短歌にして送ってよこせと言ってきたのでね、この句を色紙に書いて送りました。『一握の砂』刊行から百年だそうです。啄木に思いを馳せてね、書きました。ちょうど東京時代の彼の最後、あの鬱屈した挑むような思いというのは私は分かるわけだ。この気持とぴたりです。

池田  追われるような気分。それに負けてたまるかっていう気分、俺はこのままでは終らないぞという気持でしょうか。

金子  何かまた開いてやろうという。挑む持ち。

池田  それで神。神戸にいらして、本当に開けよしたよねえ。

金子  だからその、偶然ねえ、関西前衛の中に飛び込んじやった。あれけ俺にとっちや運がよかったんですねえ。

池田  タイミングというか。待たれていたような、いいタイミング。

金子  そうです。相当いいタイミング。私はねえ、運がいい男だと思ってるんですよ。戦争中に死ななかったしなあ。このタイミングも非堂に運がよかったですねえ。あの関西前衛熱気がなかったら、俺はやめてたかもしれない。違った道になってたかもしれない。

池田  そこで本当に金子兜太が出来上がったということでしょう?気持ちの上でも。

金子  その通りです。その通りです。

池田  その中でこんなかわいいの句があるんですね。

蛭 田 有 一 オフィシャルサイト
http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/10-1gall.html

2015年9月14日

谷佳紀の「東国抄鑑賞」


東国抄は海程に掲載されている、金子兜太の俳句作品です      谷佳紀の東国抄鑑賞    
 長生きせよと庭のあちこち初明り  兜太(俳句2005年1月)

 「庭のあちこち」という景の把握の確かさ。狭くはないが庭園というほどでもなく、すっと見渡せるさ、常緑樹も多いそれなりに広い庭であることが一目瞭然に読み取れる。裸木の影の濃さ、葉陰を洩れる初明りの眩しさ。健康に自信があり、長生きに自信があり、成すべきことをさらに進めるのみという決意が伝わってくる表現だ。

野に住みて木々と眠りて三日過ぐ  兜太(海程391号)
 健康そのもの。悠々たる気分を、悠々と書いている。俳人は「棲む」と書きたがるが、これではしつこく隠者の趣になる。さらりと「住む」と書き、生活の忙しさを離れた正月の気分、日常の軽やかさが感じられるようになった。

 森の奥鶴ほどの影拉致される  兜太(海程391号)
 森で実際に感覚したというよりもイメージの感が強い。それと言うのも、森というものが私たちの生活になじみが薄いためだろう。山なら民話でいつも出てくる世界であり、林ならやはり生
活の場で、共に村と一体化された身近な存在である。ところが森で浮かび上がってくる民話と言えば赤頭巾や眠れる森の美女、白雪姫のように西洋の物ばかりで、日本の森には生活の匂いがない。奥深い山の森、またぎや修験の世界、神の領域なのではないだろうか。だからこそ「拉致」という語に危険な匂いがなく、神秘な匂いがするのだ。光の一瞬の変化をとらえる感覚の鋭さと感性の透明感を感じるのである。

 長野は雪関東平野夜泣きの子  兜太(海程409号)
 夜泣きの子の傍にいて長野に思いを馳せているのではなく、長野にいて関東平野に思いを馳せているのだ。そうでなければ「長野」の具体感が失われ、表現の奥行きもなくなってしまう。
長野へ旅をする。深夜眼が覚めると雪であった。暗がりに降る雪の静けさの中にいて関東平野の

広漠さに思いが至る。ここまでは普通だ。不思議なのは「夜泣きの子」である。どのようにして夜泣きの子を発見したのだろう。雪から関東平野をイメージし、さらに夜泣きの子へイメージを膨らましたとも読み取れるが、それではイメージの連想に寄りかかりすぎているように思える

。そうではない実体感が夜泣きの子にはある。降る雪に和するように聞こえてくるかすかな夜泣きを実際に聞き、関東平野に思いが至ったと推測するのだがどうなのだろう。いずれにしろ「夜泣きの子」によって関東平野がイメージではなく生活の場として具体化された。またそれは長野

であることの必然性をも生み出した。関東平野に隣接した地であることによる肌の感じ、表現の具体性は、地名が九州や北海道であった場合、肌の感じが失われ、イメージの抽象性が強まることで明らかである。

2015年9月13日

兜太句を味わう「海流ついに見えねど海流と暮らす」

海流ついに見えねど海流と暮らす  金子兜太 (老いを楽しむ俳句人生から)

 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅半ば、紅花の咲く尾花沢に到着し、立石寺、大石田を経て新庄に二泊、そこから本合海にでて、最上川を下る舟に乗った。
 「本合海エコロジー」(会長木村正)の人たちは、この地の自然と歴史を愛してまず芭蕉の句碑「五月雨をあつめて早し最上川」を建て、この秋には、斎藤茂吉の歌碑「最上川いまだ濁りてながれたり本合海に舟帆をあげつ」を建立した。そして同時に、名勝矢向楯の前、最上川渦巻く川岸に、「郭公の声降りやまぬ地蔵渦」(兜太)、「ひぐらしの網かぶりたり矢向楯」(皆子)の二句を刻んだ碑を建てた。
わたしたち夫婦の句がお役に立ったしだいで、望外の光栄というほかはない。

 除幕式には俳句仲間とともに参上した。川岸での祝宴には、有機栽培米の味噌のにぎり飯、くず米と塩餡の餅、最上川の川蟹、鮎、ナスの丸漬が並んだ。まさにこの土地の昔からの暮しのもの。

帰り、新庄駅で待つあいだ、なんとなく大った構内の映画館で、浅田次郎原作『鉄道員』に出会う。シナリオは、1999年に他界した岩間芳樹が書いたものでぜひ見たいと思っていたのである。岩間は若いころからのなつかしい友。この偶然にあきれる。
 海流の句は中秋の下北半島尻屋崎での作。海流は遠く沖合いにあって目には見えないが、しかし太く生き生きと流れている。人の縁のつながりも海流のごとし。

矢向楯の句碑

淺田次郎   1951年(昭和26年)生まれ
陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い。

淺田氏のエッセーを読むのが好きで見かけると買う。
彼は一日のうち半日は読書に費やす。資料よりもお楽しみのようです。
アパレル会社を経営していたのでお洒落でスーツからパンツまでブランド
好き、買ったばかりのブランドパンツにお漏らしをしたなんて書いてます。
面白くて笑ってしまうが、読者サービスのしすぎじゃないかと・・・。
氏は神田の老舗カメラ屋の息子として生まれたが家が倒産、苦労の割に
朗らかモードの人です。是非エッセーをおすすめします。


金子兜太先生を、そして海程会員の応援ブログです。 
管理人竹丸メール endo.hideko@gmail.com

兜太句を味わう「三日月がめそめそといる米の飯」



三日月がめそめそといる米の飯   金子兜太  (老いを楽しむ俳句人生から)

 少年期(昭和初期)、三食に一度はかならず麺類だった、というと、いまの時代信用しない人がいるかもしれない。しかし事実であって、わたしの麪類好きはそのためだといってもよい。田のある平野部ではそんなことはなかったはずだが、わたしの育った山国秩父では田が少ないから、どうしても、うどんやそばで補うしかなく、残る二食も麦飯だった。米麦の割合はさまざまたが、開業医のわが家ではどうやら米のほうが多かった、というてぃどである。

 秩父音頭(むかしの盆おどり唄)の歌詞に、「いとし女房と麦茶漬」といった言い草があるが、農家の昼どきのこと。冷えた麦飯に、出がらしの茶をかけてかき込む。おかずも漬物くらいだからたくさん食べる。夏などは裸で一とときの昼寝をむさぼるのだが、仰向けの体の胃ぶくろのところだけがぷっくりふくれていたものだった。

 そんなしだいで、東京で勤め人をしている親戚などを訪ねたとき、米の飯が当りまえのように食卓に並べられると、ひどく贅沢な感じをもったものである。こんな贅沢をして、無理をしているなあ、とおもい、とても気のどくな気持になったことを覚えている。

 そうした少年期の記憶のせいか、飯というものに対する思い入れがいつもあって、旅先などではことに、しみじみと米の飯をのぞき込むことがある。そして、妙に哀しい。

兜太句を味わう「二階に漱石一階に子規秋の蜂」

 
2004年1月刊 海竜社1500E
第1章 俳句と遊ぶ<春夏秋冬・暮しの一句>
第2章 人間にこだわる<人間のおもしろさをよむ>
第3章 いのちをいたわる<生きものをうたう句>
第4章  自然をじかに感じる<日本の風土・再発見の旅>

二階に漱石一階に子規秋の蜂         金子兜太    (老いを楽しむ俳句人生から)

 四国は松山のか愚陀仏庵(ぐだぶつあん)での句だが、この小さな木造二階建ては、「近・現代俳句」の元祖・正岡子規にとっては忘れることのできない家なのである。

 明治35(1902)年、子規は35歳でこの世を去った。2002年が百年忌あたり、子規の評価はさらに高まった。さまざまな記念行事が企画されたが、それに先駆けて、2000年9月初めには、正岡子規国際俳句賞の第一回大賞が、フランスの詩人イヴ・ボンヌフォア氏に贈られた。氏の記念講演「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」は、一流詩人にふさわしい格調高い内容だった。
  
 庵とはいうが、この家は漱石の下宿だった、伊予尋常中学校に奉職した漱石は、明治28(1985)年から翌年まで、約十か月ここにいたのだが、その途中に子規が同居して晩夏から中秋までの二か月を過ごしたのである。
 子規は、日清戦争に従軍し、大連から帰国する船上で、フカを見ていて喀血した。東京に帰るまでの療養のためだったが、地元の教師たちの句会、松風会を指導し、漱石もそれに参加して、本格的に俳句をつくるようになる。漱石にとっては俳句そして俳諧への開眼の機会だった。二人とも28歳。
秋の庭をうろついて句づくりしていると、日当りのよいところに蜂がいた。秋ですこし大人びた蜂に、わたしは二人を思い合わせていた。

子規と漱石が同居していた愚陀仏庵は昭和20年の松山空襲で焼失し、跡地には石碑が建っています。現在、愚陀仏庵は松山藩主久松家の別邸萬翠荘の敷地裏に復元されています。


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