2015年5月5日

句集『むしかりの花・金子皆子』鑑賞 谷 佳紀

金子皆子第一句集『むしかりの花』昭和63年刊 卯立山文庫

兜太夫人の皆子さんは平成18年の3月2日に亡くなり秩父の野上町総持寺に眠っていられます。寺にはに金子先生の句碑があります。

むしかりの白花白花オルゴール  皆子
  
                        
鑑賞・谷 佳紀

句集 『むしかりの花』 金子皆子    

平成14年刊行の句集「さんざし」は、第一句集「むしかりの花」第二句集「黒猫」からの抄出、そして「さんざし」の後、平成十六年に刊行された句集「花恋」の第一章となる「紫雲英田」で構成されている。それらの中から作品を選んで鑑賞をした。

(昭和23年~35年)

朝毎の食器触れあい梅開花
 朝食の用意、それは一日の始まり。梅が開花した。ほんのりと空気が和らぎ温かさを感るが、まだまだ寒い。特に朝は冷える。食卓に並べる食器のぶつかる音が響く。「あなた、朝食の用意が出来ましたよ。」夫を呼ぶ声も明るい。

 風邪の子へ家中灯しレモン絞る
 子供が風邪を引いた。かなりひどい。熱にうなされている。夜の暗さを嫌い、明かりを消さないでくれと言う。使っていない部屋も廊下も灯し、家中が輝いている。明るさに安心したのか少し穏やかな顔になった。さぁレモンを絞って飲ませましょう。

 濯ぐ主婦紅潮のゆび桜指す
 洗濯機の無い時代はすべて手洗い。春とはいえど水はまだ冷たい。手はすぐに紅潮する。このつらい作業も主婦の勤め。生活の慣れ。元気な身体は苦にしない。洗濯をねぎらう夫に「桜が咲きましたわよ」と指すゆびはすらりと伸びて美しい。紅潮した紅さが桜に負けず綺麗だ。

 夕汽車のこだまの中の家愛す
 山間の村。日暮れがさーぁとやってくる。一日に何本も無い汽車のこだまが日暮れを知らせるように家を包んでいる。夕暮は汽車の響をいっそう近づける。朝早く勤務に出かける夫を見送り、遅く帰ってくる夫を迎える平凡な生活だけれど、とても大切な生活。夕汽車のこだまが気持ちよい。

 春山の底なる母の骨思う
 山裾に土葬された母。肉は土に溶けもう骨になっている頃。芽吹きの季節。山はいっせいに目覚め賑やかになった。生まれてきた赤ん坊のように愛しい芽吹きだ。山の底に睡る母。母も命の豊かさに満足しているだろう。


 夏痩せの母子に白い坂と橋
 夏の暑さがつらい。子供もつらそうだ。食欲は無くすっかり痩せてしまった。毎日上り下りしている坂も雨が降らず、砂ぼこりをたてている。橋も汚れている。夏痩せで力が出ないためか、坂も橋も白くぼんやりしている。この暑さが早く去って欲しい。


 悦び常に探し木片蹴る冬の子
 冬のこの寒さの中、私は縮こまっているのに子供って元気だなぁ。寒さにへこたれず常に動き回って遊んでいる。木片を蹴っているだけでも楽しい。悦びを探す生き物なのですね。生々しくって貪欲。本能の塊です。


 夾竹桃小暗さもなし雀の死
 夾竹桃が咲いている。衰えることを知らない、なんと元気な花なのだろう。あら雀が死んでいる。かわいそうに。でもあっけらかんとして未練を少しも残さない姿。そこらに転がっている石ころのように、自分が雀であったことを忘れたような、何にもない死。このからりとした無。生きていた喜びに充分満足して命を終えたのでしょうね。


 魚描きて魚の目青し夏終る
 魚を描いた。海を泳いでいたときのような元気な魚だ。海のように青い魚の目。海は魚の目ではどのように見えるのかしら。暑かった夏も終わった。しばらくは暑さが残るのでしょうが、清々しい秋がやってきた。海を映していた魚の目が、今は秋の深い青空を映している。


 一人子に烈風青葉はりつく窓
 烈風が吹き荒れている。吹き飛ばされた青葉が窓にはりついて離れない。子供が不安そうにその青葉を眺めている。一人子のために甘やかして育ててしまったかしら。違うわ。不安なのは私なのだ。今日まで無事に育ってきたけれど、これからも無事にやっていけるか、私が心配しているだけなのだ。子供は風を面白がっているように笑っているじゃない。


 店頭の異人稚葉(わかば)の人参束
 あら珍しい。異人さんが八百屋さんにいる。なんて背が高いのでしょう。私の背は肩にも届かない。ぶら下げているあおあおとした稚葉の人参束がとても小さく見え、人参の赤色が普段よりもきれいに見える。素敵な異人さん。


 少女の光る下着つるばら一間(いっけん)伸び
 少女が元気に飛び跳ねて遊んでいる。飛び跳ねるたびにちらちら見える下着。日を跳ね光って見える。少女の清潔な心のように光っている。育てているつるばらの芽が伸びた。この少女も健やかに育つだろう。

 鴎飼わな少年と母にある斜面
 子供と散歩に出た。堤防に上り海を眺めれば鴎の群れが飛んでいる。「ねぇお母さん。あの鴎を飼いたいね」「そうね、飼いましょうか」とりとめのない会話をしながら群れを眺めていると、すべての風景が白と青に染まり、堤防の斜面は海の底深く沈み山の頂に立っているように心が開かれる。

 ばらと肩やがて胸中の起伏となり
 「ばら」があって「肩」がある。自分の肩だろうか。そうでない。明らかに作者はばらを見ている誰かの後ろにいて、肩を意識しているのだ。「肩」という響が強いためか、ぶっ切られたようなそっけないフレーズの後に、「やがて胸中の起伏となり」という美しい言葉があらわれる。特に「起伏」という語が美しい。ああ女性の俳句だと思う。男では肉体の生々しさが強調され、このように率直な情の生々しさを書けない。ばらを見ている誰かがいる。肩ががっしりしていて逞しい。その肩とばらが溶け合い、やがて自分の胸中に、胸の起伏に重なって溶け込んでいる。静かな、しかし激しい情である。


 青い甲虫(昭和37年~42年)

 からすからす呑み込んだ小石火打石
「からす」は嫌われ者だがそれは最近のこと。この時代はまだ親しい鳥であった。「からすのあかちゃんなぜなくの」という童謡は誰でも知っている。この作品の韻律も風景も童謡風、嬉嬉としてからすを見つめている情の溢れがある。アニミズムと生活に垣根がなかった最後の時代かもしれない。現在の社会環境はもうこのような情景を不可能にしてしまった。「からすからす」と言葉を重ね、更に「小石火打石」と畳み掛けた断定には「可愛らしい!」を突き抜けた表現の鋭さがあり、火の色が鮮やか。いまだに新鮮で古びない。

 水も木立も赤光野づらに招かれて
 天も地も真赤な夕焼け。「川」と書かず,「池」と書かず、「水」と書いたのは「水溜り」であろうか。雨後の清浄な空気に誘われるようにやってきた野。心身ともに透明感が増し、「招かれて」と書かなければ真実でないかのような、鮮やかで華やかな光景が眼前に広がっている。

 花アカシア二日泊まりて創れぬ繭
 作者にとって「繭」とは生活にあるものとか、懐かしい思い出というだけのものでなく、心の古里とも言うべき、心身に染み付いた失われてはならないものなのであろう。そうでなければ「創れぬ繭」という、懐かしく慈愛に満ちた言葉を発することは出来ない、また、子育てという女性のいとなみをも思い起こす美しい繭でもある。真っ白い花房に包まれた初夏、二日間泊まった旅の美しさ。

 四十路若し鬼草色にとんでくる
 「泣いた赤鬼」の後日談のような楽しいお話が想像できる優しい鬼。四十歳になったとて元気一杯。夏草の野に立てば、草いきれがよりいっそう若さを掻きたてる、溌剌たる人生。

 海と松の暗さが恐いバスケット
 バスケットを用意して出た海岸。しかし海は暗い色をたたえ、休憩地の松林はよりいっそう暗い。バスケットを開けても暗さが気になるばかり。たしかに海岸に多い防砂林としての松林は暗い。日本海かもしれない。秩父育ちの作者にとって、この海は馴染めなかったのだろう。

 六月の真夜の家裂く金の馬
 じめじめじとじとした梅雨の季節。そんな鬱陶しさを吹き飛ばすようにあらわれた「金の馬」。真夜中の家を裂き、光に充ちた世界へと導く。荒々しくも神々しい神話の出現。「金の馬」の現実は落雷かもしれない。そうであろうとなかろうと、作者の雄叫びは力強い。

 雑木山ひとつてのひらの天邪鬼
 小さな雑木山がひとつある。てのひらに天邪鬼が乗っている。雑木山も天邪鬼も初々しく、雑木山が天邪鬼なのか、天邪鬼が雑木山なのか。作者自身も雑木山であり天邪鬼であり、二つは重なり、いつまでも戯れている。にこにこ、さやさや、民話が生まれる俳句。


 榛の木(昭和43年―45年)

 くらしの朝夕飛翔の花合歓よ妹
 合歓は木の様もそうだが、花はまさに飛翔。門か庭か勝手口か、生活の明け暮れに眺める合歓の木。この季節、妹となにを語り合っていたのだろう。作者が男なら「妹」は妻になるのだが、作者は女性。それゆえに愛情の発露というよりも生活の明け暮れが濃厚になる。

 この作、形だけで言うならば「くらしの朝夕飛翔の花合歓よ」で書き終えてよい。しかし蛇足のように「妹」を書かなければ作者は満足できなかった。と言うよりも、「妹」を書くためにすべてがあったと言うべきだろう。

 作者は情(じょう)の人である。情に添って情を紡ぐように言葉は生み出され絡まり表現になる。韻律も情の流れが形作る韻律である。そのような韻律に言葉が調和しているため、私たちがごく普通のものとしている五七五の形式の韻律からずれていても、違和感なく受け止めることが出来る。

この作も、形式の論理を優先する俳人なら「花合歓よ」で書き終え、決して「妹」まで書こうとしないだろう。「妹」までどうしても書きたいなら、書き換えて無理やりに押し込むしかない。しかし作者の情の論理は字余りという文字数の計算を念頭から消しさった。韻律の不自然さは情の強さからはむしろ自然なものであった。読者である私たちも「妹」に籠められた情の強さを読み取ったあとでは、「妹」にこだわりつつも「妹」を消せなくなる。そしてあらためて読み返してみれば、「花合歓よ」で書き終えられたのでは、景が強まり、情が淡くなり、中途半端なものたりない思いがし、「妹」が無いと落ち着かない。「妹」は作者の心のありどころを示し、その内容が不明であっても、無ければ完結しない表現になったのである。

 青い榛の木いちにい三本私も鬼で

 茂った大きい榛の木がある。その回りで鬼ごっこやかくれんぼをしている。それだけの光景。単純な世界だが、遊んでいるのはなにやら妖精のような気がしてくる。軽やかでふわふわしていて、幻を見ているようだ。

 まわる麦秋遠く大きな女友達
 見渡しても見渡しても果ての無い麦の穂波。その穂波の彼方に女友達が見える。麦を刈っているのだろうか。「友達」でなく敢えて「女友達」と限定するのは、「男」という存在に違和感のようなもの、油断出来ないという用心があるためだろうか。いずれにしろ「遠く大きな」という強調は、女友達の逞しさと作者の安心感を明らかにした。憧れのような感情をも持っていたのかもしれない。「まわる麦秋」も麦秋の広がりを一言で言い切った。


 海に緑の夜空の顔か落ちている
 真っ昼間の景である。また「緑」という色は木の葉の緑か、それとも「藍」か。日本語では青系統も緑である。「緑の夜空の顔か」という色合いは書かれているとおりの緑色でもよいし、濃い藍色でもよい。これらは読み手の感性に任せ、自由に感じ取ればよい。作者とて押し付けは出来ない。いずれにしろ交通信号機の色が緑から青に変わってしまったように、「緑」は「緑」だという昨今のつまらない厳密さでこの表現を限定してはならない。
真っ昼間の明るい海に深い緑色か藍色をした箇所があった。それに気づいた瞬間、「ああ、夜空の顔が落ちている」と感じ取り、一切の説明抜きでそのまま表現した断定の潔さ。さらに注意しなければならないのは「夜空の顔」には暗さよりも親しみと慈しみがあることだ。明るい海に淋しそうに落ちている夜空の顔を優しく受け入れている。


 川がらす好きな水輪の一つうつむく
 清流がある。あちこちに水輪が出来ている。大好きな水輪。消えては生まれる水輪を見ていて飽きることが無い。そこへ川がらすがやってきて、ついと潜った。川がらすが潜る勢いで凹むように出来た水輪は、初々しく、恥ずかしいのか、うつむいているように見える。「一つうつむく」とはなんと正確な描写であろう。

 ところでこのように「さんざし」の鑑賞文を書くようになってから、私が意図的に避けてきたものがある。それはなんとなく感じられるもの、バロック音楽における通奏低音のように絶え間なく響いているがあまりにも微かなためというよりも、表現の表面を覆う民話のような世界が鮮やかなため、なんとなく聞こえてくるが聞き逃している音についてである。しかし「好きな水輪の一つうつむく」にある「初々しく、恥ずかしいのか」というだけでない淋しげな風情について語らなければ、もうこの先、嘘しか書けないような感じがするのではっきりさせてみようと思う。

すでに取り上げた作品からもそれを感じようと思えばすぐに気づくと思われるが、取り上げなかった作品「指にくる夕映えは鳥はばたかせ」「明きふるさと泣けば草丈手をかくす」「土に終わるひとりの神楽風の顔」にははっきりとそれが現れている。最も民話的と思われる「からすからす呑み込んだ小石火打石」にしても、何故「火打石」なのかを問い、小石を呑むという行為に思いついたとき、喉の紅さの比喩とだけでは不充分な痛みを感じないだろうか。無邪気さの奥にある痛み、それはまさに本来の民話のテーマであり、表面ではいつも隠されているが

私たちの内面の痛みでもある。なぜか作者の表現にはそれがいつもある。人間というものの原罪と言ってしまえば簡単だが、生きるということはこういうことでもあるというがごとく、淋しさとか悲しみがひっそりと佇んでいる。この作品にしても一羽の川がらすの生態に過ぎないが、「好きな」と書いて出てくるものが「水輪」であるとき、その水輪は無の空間であるがごとく、明瞭にしかしすぐに消えるものをとどめるように「うつむいて」浮き上がってくる。川がらすを発見し胸をときめかしているのではない。水輪に気持ちが引き込まれているのだ。それを綺麗なもの可愛らしいもので見過ごしても良いが、水輪に引き込まれる心情を思えば、そこに淋しい佇まいが見えてくる。そういうものを感じつつ、しかし作品の光景は夢見る明るい清流が展開している、という二重性がある。どの表現にもいつもそれがあるように思える。

 鳥の道にある家鳥のたちし後(あと)

 「鳥の道」とは渡り鳥の渡る道筋のことなのか、朝夕に鳥が移動する道のことなのか私は知らないのだが、句柄から渡り鳥の道筋と読む。
 春、渡り鳥が帰る途中に寄る家がある。そこそこの沼や林を持つ家なのだろう。今年ももう来た頃と訪ねてみると、もうたった後だった。早春の荒れた空虚感と、芽吹きが始まりつつある季節の躍動感が綯い混じった空間が広がっている。

作者は季節に敏感である。しかも飼っている犬や猫と親しむように季節と親しんでいる。それゆえであろう、俳句用語で言えば季語になってしまうものであっても、美学とは無関係な、作者と同じ体温を持つ季節の言葉となっている。

 鳥のうなじと吾がうなじとにあり雪しろ

 たんたんと書かれた激情。雪解け水の冷たさ激しさ濁りを思えば、鳥のうなじ、おのれのうなじにそれを見るということは尋常なことでない。鳥も決して猛禽類でなく、はとぐらいの鳥だ。実に強く、実に怖い雪しろである。

 木洩陽にいる黒猫の目の国
 木洩陽の中に溶けるように安らいでいる黒猫。大きくふっくらとしてまだらな輝きを放っている。静かな、眠っているような穏やかさは、赤ちゃんに触れる優しさを私たちに抱かせる。しかし光を吸って輝いている目の鋭さは、紛れもなく野獣。罠をいたるところに仕掛けた野望渦巻く国。

 巡礼なりオレンジ色の蛇西風に
暑い太陽の光に輝く蛇は西風を愉しむ如く現れオレンジ色の光を放つ。神の出現か。いやいやそうではなく、巡礼なのだ。私の心を負って諸国を巡る巡礼。オレンジ色の光輝は眩しく祈りに充ちた色。

 夕暮の木は好き胸の奥までの並木

 太陽が消えかかり、昼間の喧騒が遠のく夕暮。今日の忙しさを忘れ一瞬の静けさと落ち着きを得る時間。胸の奥にずうっと並木が生まれ、どこまでも続き、しばし並木の虚空に眠るひと時。

 枸杞の実(昭和46年~48年)

 羽交(はがい)をこぼれていった昼月・いもうと
 淡い水彩画の夢見るような世界。ちょっとした風に吹かれて消えてしまいそうな淡い色。少女の眠りに紛れ込んでいるようなふんわりした情。しかしそのような思いの底から浮かび上がってくる、いい知れぬ悲しみの色。これはなんだろう。作者において「いもうと」とは、失われてしまう愛しいものの象徴なのだろうか。昼月もはかなく憂いに濡れている。温かな羽根に包まれていた「昼月・いもうと」がこぼれ失われる。大切なものがいつもそっとこぼれ落ち失われてしまう。それに気づいているのだが何も出来ない。そのはかなさを悲しむだけ。得るということは失うということ。

  からすアワアワ私が溺れるという春
 「からすガアガア」ならはっきりするが「からすアワアワ」とはどんな状態だろう。具体性がない。あえて景を思い浮かべるならば、無音の夕暮、彼方を群れて飛ぶ風景を思うが、読み手によってみな違うだろう。それでいながら情の確かさがある。「私が溺れるという春」もはっきりしない。なぜ「私が溺れる春」でなく「という」と書かねばならないのか。「からすアワアワ私が溺れる春」と書いた方が情の質が明らかになり表現として整う。しかし作者はこのような情を拒否したのだ。おそらく自分は自分であって春と一体化したいと願っているのではないし、春に溺れたいわけではないという主体性の確認、客観視することによって「溺れる春」という情から離れようとする意思が、このような表現になったと思われる。「という春」と書くことにより、春を自分から引き剥がし、眺め、解説する。こうして主体性を回復し、自分を確立する意思の表れが「という」に込められているように感じられるのである。

 千の椋鳥姉(あね)さま姉さませつ子千代紙
 呪文のような、祈りのような、助けを求めているような、異様な韻律にぎょっとする。「千の椋鳥」ということ自体が通常の群れ方でない。せつ子とは姉さまのことか。「せつ子千代紙」は「せつ子・千代紙」ではなく、切り離せない一単語としての「せつ子千代紙」のようである。何がなんだかわからないが、何かにすがりたい思いが、熱を帯びた言葉となり、繰り返し繰り返し唱えられる。混乱し「姉さま姉さませつ子千代紙」と呪文を唱え祈るしかないのだ。

 青年歩く連翹の花の色ひとり
 「青年ひとり歩く連翹の花の色」でない。「何人かの青年が歩いていて、その中のひとりが連翹の花の色である」という読み方も出来る。しかしこれでは、何故こんなにややこしく書かねばならないのか疑問である。文脈どおりに読み、花の色が「ひとり」なのだ。焦点は連翹にある。満開の連翹のそばを青年が通り過ぎた。誰もいなかったときよりも連翹は輝き、「ひとり」という感を高めた。連翹が好きで、連翹の姿かたちに個の美しさを見たのであろう。青年も素晴らしい青年であったに違いない。人通りの少ない住宅地の光景が見えてくる。

 鈴買って部落を歩いているのは雨
 鈴を買ったのは雨であり、その雨が部落を歩いているという。鈴は鳴っているのだろうか。もちろん鳴っている。
それなりに強い雨が降っている。締め切った部屋に閉じこもっていると、雨の強さにもかかわらず、かすかな雨音が聞こえてくるのみ。その静けさになんとなく鈴の音が混じり、雨が鈴を鳴らしつつ歩いているように思えてくる。鈴と雨、作者にはこの二物に関わる思い出がたくさんあるに違いない。悲しい思い出、楽しい思い出、時には怖いこともあったのではないだろうか。何の限定もなく、淡く現象が書かれているだけだから、我々も取り止めのない思いに浸るだけだが、鈴は遍路の鈴に化し、先祖への思いに向かっているような気がしてくる。

 鮮しき枸杞を酒中に知佳子の雪

 嫁と姑の争いは無縁。知佳子賛歌を詠うとき作者は幸せに充ちている。今年も枸杞酒を作ろうと焼酎に漬け込んだ日に降った雪の美しさ。雪の故郷を知佳子さんは思い出し大喜びをしている。枸杞も父母の元から取り寄せたものかもしれない。

 水すまし(昭和49年―51年)

 れんぎょうの花刻(はなどき)透明なり知人

 「さんざし」の作品の時刻を探るとき、夕暮を思うことが多い。この作品の場合、連翹の色の鮮やかさ、「透明なり」という光の輝きから、朝日の清々しさを感じつつ鑑賞した方が良いかもしれないと思いつつも、やはり夕暮と思うのだ。夕暮のちょっと埃っぽい、なんとなく疲れと濁りを感じる光であるからこそ「れんぎょうの花刻透明なり」という感覚に知人が浮かび上がるのではないだろうか。朝の新鮮な光では心が空っぽになり、他者が入り込む余地はなく、このような表現が生まれることはないという、夕暮の人恋しさを感じるのである。

 叱られて花噛み華やぎ黒猫

 「花」は桜ではなく草花であろう。花が溢れている季節ならいつでも成り立つ光景だが、四月か五月頃だと思う。悪さをして叱られて、庭に逃げた黒猫が花を噛む。それも反省してではない。叱られたことでちょっといじけつつも構ってもらえたことが嬉しくて、はしゃいで花を噛む。だから「華やぎ」なのだ。可愛がられている黒猫。毛並みが艶々輝いている。その輝きが実に良く感受できる作品である。

 脚包む青強しひいらぎの花の夜
 「青強し」という意識をどのように感受すべきか。冬の薄っぺらな灯りに晒された血の気のない脚というだけでは「青強し」が強すぎる。昼間見たひいらぎの白い小花が残像として強くあるという「青強し」でなければならない。いつもなら血の気のない細い弱弱しい脚、存在の不確かさを象徴するような脚が、「青強し」と花の残像に庇護されることによって、くっきりと浮かび上がっている。存在を確認している作者の意識と闇の中にあるひいらぎの花が、青白い脚を包む影となって見えてくる。

 人はたしかに沢蟹の清流をかえり
 権謀術数の人間社会。欲望は人を騙し騙され、戦争や殺人を引き起こす。そんな激しい事件ではないけれど、日々の生活に起こる色々な出来事に心は疲れ生きることの辛さが身に沁みるときがある。そんなある日、沢蟹の棲む清流に佇み上流を思いやれば、心の中をしみじみと通過してゆく流れの音。その音を生み出す流れの源に向かって遡り連なる幻の人の群れ。救いを求め人はたしかに沢蟹の清流をかえって行くのである。

 なずなの花に足濡れこころなどの白蝶
 朝露に足を濡らし、なずなの花咲く野を行く。朝日が暖かく気持ちが浮き立つ。白蝶がちらちら舞っている。なずなの花の白さえも蝶のように見える。眼前に広がるなずなの花咲く野。幻想の蝶が溢れるこころの野。濡れた足の冷たさが幻想を現実に戻してくれる。

 妹の雨夜みずすましになろうか
 「妹の雨夜」とはイメージの雨夜、つまり雨夜を妹と呼んでいるのか、それとも妹が好きな雨夜、妹を思い起こす雨夜というように現実の妹に即して読むべきか判然としない。私は雨夜を妹と呼んでいると読む。その方が作品の世界が拡散しない。作者の表現には幻想と現実が錯綜し分かちがたい魔術めいた世界がある。この作品もそれであり、妹への呼びかけと、雨夜への呼びかけが同次元に存在し、異界に入り込んでしまう。一読可愛らしい気がするが、静かな明るさを帯びた雨の昼間ならまだしも、真っ暗な雨夜をみずすましになって愉しみたいという願望は童話にならない。いかなる異変が起きたとて不思議でない異界への扉が開かれている。

 みどり児の熟寝(うまい)は赤き実か地か
 「実・地」は「じつ・ち」とも読めるが「じつ・ち」では観念的になる。表現の具体性、実感の強さから迷うことなく「み・つち」と読む。みどり児が熟寝している。顔が真赤だ。まるで赤い実(み)のようだ。いやそうではない。この自然の命の漲りと無垢は地(つち)そのものだ。単純明快な生命賛歌である。

 旅次照葉(昭和52年―55年)

 赤子泣く明るく指組むは風雲
 「風雲」は明るく指を組んでいる。したがって走っている雲でなく、とどまっている雲である。「かぜくも」ではなく、風が吹く前兆としての「かざぐも」であることは明らか。私は風雲がどのような雲なのか知らないが、作者は親しみを持っている。風を予感する雲の下、明るく元気な赤子の泣き声に微笑んでいる元気な作者の姿がある。

 春鳥きて鳴けり衰弱も花のよう

 「衰弱」しているのは誰だろう。人間ではないのかもしれない。「衰弱というものは」というような作者の衰弱感とも読めるが、それでは作品がきれいにまとまりすぎて力が弱い。自画像ではないだろうか。ご病気や気分的なもので衰弱したと自覚している。そんな自覚による自己愛が「春鳥きて鳴けり」であり、慰められているのである。

 雨蛙のまぶた金色嬰児(みどりご)も不思議

 雨蛙をかくもしげしげと観察したことがないので「雨蛙のまぶた金色」の真偽のほどはわからないが、作者がそのように見たことは確かであり美しい。この美しさは不思議さでもあり、嬰児の不思議さ、可愛らしさにもつながっている。雨蛙そして嬰児という美しさは、命の美しさでもあり、陶然としている作者の美しさが目に見えるようだ。

 いたどりの花か頭(かしら)か野を吹き抜け

 いたどりの背の高さ、葉の大きさ、茎の太さ、そして逞しさ。いたどりそのものを掴み取った表現は力強い。「花といえばよいのだろうか、頭といえばよいのだろうか」と逡巡する情の動きは愛情そのもの。吹き抜けてゆく風が心地よい。

 いまから眠る午前三時の照葉樹林
 季節は夏。まだ真っ暗だが、もうすぐ空が白み始める時間である「午前三時」。昼の暑さが遠のき、ほどよい涼しさが漂う。家庭の雑事だろうか、それとも他の所用か、都合があってもうこんな時間になった。夜明けが近いけれどいまから眠りましょう。照葉樹林の葉ずれの音が聞こえる。木々もこれから眠るのかしら。静かな落ち着いた心境。短時間の眠りであっても、疲れが取れる眠りになるだろう。

 風吹くような鳥のねむりに会いました
 家事を片付け終えたあとの散歩中の光景だろうか。不愉快な出来事に心乱れていたとき、ふとであった光景に落ち着きを取り戻したのかもしれない。それとも旅行中の小さな発見か。鳥の眠りに出会うまでの心情は色々想像できる。単純でなんでもない光景だから、なんでも想像できて、しかも穏やかな心が広がってゆく。

 霧白光朴の白光に嬰あり

 季節は霧で秋だろうか。それとも朴の花で初夏だろうか。初夏だと明るい生活の匂いが強くなるが、嬰に実体感が薄く象徴的雰囲気があり、朴であり朴の花でないことから、季節は秋であろう。しかし作者は朴の木に花を強く感じている。「霧白光朴の白光」という薄ぼんやりとした白い光景に陶然としているが、あまりにも抽象的な景色であるためだろうか、何かそれに酔いきれない不安定な感じがある。「嬰(やや)あり」という四文字の不安定感はそのような作者の心境を表している。そして「嬰あり」と感じ、「嬰あり」と書くことにより救われた安堵の吐息も聞こえくる。

 まんさく咲きしか想いは簡単になる
 精神に突き刺さり、果てしのない空間が広がる表現。「想いは簡単になる」は悟りではなく断念である。早春の安らぎと荒涼が同時に出現している。

 黒猫(昭和56年―60年)

 階下の孫ら眠りに花か水鳥か混る

 階下の部屋で遊んでいる孫の様子がいつも気にかかる。おや、先ほどまでの賑やかさはどこへいったのだろう、どうやら眠ったようだ。
「階下の孫ら」と書いたことにより孫の様子がはっきりし、作者の意識が具体的になった。「孫」の俳句は難しい。甘さに気持ちよく酔える作品は中々ない。ところで作者の人間性が出ていて面白いのは「階下の孫」ではなく「階下の孫ら」とわざわざ複数にしたことだ。おばあちゃんとしては事実にこだわるのだろう。このこだわりが韻律のたるみになっているが、一方では一音の長さが孫の様子に気を配っている様子を強調する効果を生み出してもいる。否定すべきか肯定すべきか判断に迷う「ら」である。

 山繭の薄緑の時間なのだから
 ものを見てその感じを率直に書く。それによって、時間の中に吸い込まれていくような官能が生まれた。作者の持ち味がよく出た作品。

 夏星よ黒猫百歳の耳立て
 百歳になったかと思われるほどの黒猫。一日中、起きているのか眠っているのかわからない生活ぶりだが、涼風に吹かれて星の下、今はしっかりと耳を立て厳しい姿を見せている。その姿を頼もしく眺め,まだまだ大丈夫と安堵する。

 むかしむかしがありぬ令法(りょうぶ)の花盛り
 花を見て花を楽しむ。花の美しさに引き込まれ、花の感じが言葉になって自然に湧いてくる。「むかしむかしがありぬ」。どんな昔々なのか、何があった昔々なのかは意識していない。昔話の「むかしむかし」のように表現を引き出すための「むかしむかし」なのである。令法の花盛りに呆然としてたたずんでいる実感が「むかしむかしがありぬ」という感覚を呼び覚ました。

 土佐は不思議天上に豆の花溜める
 土佐のイメージは豪快豪放、男性的な土地柄と言う感じだが、豆の花の優しさで土佐をとらえるというのも作者の優しさ。頭上に咲き満ちている豆の花の美しさは天女の舞姿のようだ。土佐によほど魅せられたようだ。空気の透明感さえ感じられる。

 巨木ユーカリ旅のねむりに白葉騒

 「白葉騒」とはなんと綺麗な葉のそよぎなのだろう。夢見るような惚れ惚れする樹木の感じがする。穏やかな旅の楽しさが伝わってくる。

 水牛と少女水牛と青年の広漠
 少女が水牛の世話をしている。別の場所では青年が水牛と働いている。眼前に広がる田園風景。「広漠」という一語を持って少女や青年の心まで明らかにし、大きな景色を書き切った。

 うつぎ咲く黒猫うつぎの夢の中
 黒猫に注がれる目の優しさ。いつも半睡半覚の状態にいる黒猫。このうつぎはもはやこの世のうつぎではなく、お釈迦さまに見守られている花のようだ。

 帰郷(きごう)とはりょうぶの花の白房にあり
 「ききょう」ではなく「きごう」とあえてルビを振るのは、「ききょう」という甘さをともなった日常性よりも、胸を張った意識的な姿勢を強調したかったからである。それだけ作者はりょうぶの花の清新さに同調し、気高さを主張したかった。

 むしかりの花(昭和61年―63年)

 栃の実は夕日の落しゆく冷えか
 秋の日中は暖かくとも、夕暮ともなれば急激に冷えてくる。空気が澄んですがすがしいが、風邪に注意しなければならない。栃の実はあく抜きをしてとち餅にしたり、とち煎餅にしたり、古来からの食べ物。胃にも良いという。作者にはなじみの木の実なのだろう。淡々とした秋の心情。

 冬の夜の黒猫菜の花の匂い

 冬の夜外は真っ暗だが部屋は明るく暖かい。冬も半ばを過ぎて春が近づいているが、相変らず寒さは厳しい。でも心なしか生活を共にしている黒猫の動作が柔らかくなったように感じられる。春が近くまで来ていることを感じているのだろうか。体から菜の花の匂いが漂ってくる。
猫の体臭が菜の花の匂いというのは突拍子もない感覚とも思えるが、鋭敏な季節感が働いているゆえに違和感がない。菜の花が部屋にありそれが匂っているという読みは最悪。黒猫を無視した読みになる。

 雪舞う日緋鯉曾祖母祖母に候(そうろう)
 おどけた口調が曾祖母祖母に寄せる情愛を濃くしている。雪が舞っている。体の芯から冷えてくる寒さだ。緋鯉は池の底でじっとしている。しかし寒気に冴えて緋鯉の色は鮮やか、温かさが漂う色だ。緋鯉を見つめていると、火鉢の脇に坐って冬を過ごしていた曾祖母や祖母の姿が思い出される。

 京菜一ト株一ト抱え歳晩の明星
 京菜の大きい株は周囲一メートルにもなるという。これはそれほどではないが、一抱えなのだからやはり大きい。鍋料理で暖をとろうというのだろうか。目立たない表現だが明星の輝きが鮮やかだ。

 むしかりの白花白花(しろはなしろはな)オルゴール
 むしかりの花賛歌。「オルゴール」はどこかで鳴っているのではなく、むしかりの花の印象であろう。山道の静けさと沢音の響き、むしかりの花の白さに少女のように胸が弾む。

 桔梗桔梗わが家に少年が二人
 桔梗に話しかけているようでもあり、桔梗が少年のようでもある。だがもっとはっきりしているのは、心弾む思いを誰かに伝えたいという思いだ。ものすごく浮かれている心地よさが表現に溢れている。たまたま桔梗があり、桔梗に少年の清潔感と愛らしさを感じ「わが家に少年が二人」と話しかけた。「桔梗(きちこう)よ」では韻律が悪い。「桔梗桔梗」でなければ弾まない。少年はお孫さんだろう。

と、ここまで書いて、これでよいのだろうかと疑問が湧いてくる。作者の表現には二面性を感じることが多い。華やかな裏の淋しさ、喜びと同時に響いてくる辛さ、それを掃いきれない作品がある。この作品もその一つ。「心弾む思い」と書いた瞬間にしんしんとした淋しさが伝わってくる。桔梗という花が淋しさをともなっている花であることもあるのだろう。桔梗に向かって「少年二人によってどんなに励まされているか」と語りかけていると思える淋しさ。そのような鑑賞を否定できない。
この作品の本心は喜びなのか淋しさなのか、私にはわからない。

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