2015年12月12日

兜太のエッセー「俳諧有情・時雨」

1992刊 創拓社 1300円
俳句ごよみ
・随想「春」俳諧有情――春の月、虱、餅草、蜂たち、猫の恋、初午、冴え返、春北風 花粉症、春の湾、青い山
・随想「夏」虹、葭切、祭り、青葉潮、泰山木の花、蛍、父の日、鰻めし、俳諧有情――夕顔
・随想「秋」秋和り、星月夜、夜長、終戦日、流星、梨、曼珠沙華、酸漿、高きに登る
・随想「冬」俳諧有情――時雨、冬紅葉、冬至と大晦日の食べもの、忘年、日記買う、恵方詣初泣き、ラクビー、河豚、雪
随想「雑」借金昔話、顔、殴る、感じる、似ている、海暮らしの日々、死から生
・兜太のすべて
   

 昭和初期、山国秩父で育った私の幼少年期の、義太夫の女師匠についての思い出を、いますこし書いておきたい。
 朝、いつものように、この初老の女師匠は、歯ブラシを使いながら山空を見回していた。黒眼鏡が朝空を映している。眼のまったく不自由なこの人には、山も空も見えないはずなのだが、それでも見回している。

 子供の私は、思わず尋ねてしまった。「お師匠さん、なに見てるんだい」師匠はすぐには返事をしないで、口のまわりを歯磨粉で真ッ白にしたまま、なおゴシゴシとこすっていたが、やがてこう答えたものだ。「どの山あたりで死んだらいちばん好い気持ちだろう、と見くらべているんだよ」。


 しわがれ声でドスのきいたひびきがあった。それにしても、子供にはトンとわからない返答だったので、また尋ねた。「だってまだ死なないんだろう。それに、お師匠さんに山が見えるのかい」。


 お師匠さんは囗から歯ブラシを引きだすと、コップの水でグズグズと嗽して、白くなった水を吐きだした。「見えるさ。よーく見えるんだよ。あの山とあの山が、ここがいいよ、ここで死になよ、といってくれてるんだ


 結局子供の私には理解できなかったので、不思議な感じのままに終わった。冗談ともとれ、大真面目ともとれて、変ンな婆さんだと私は思っていた


  死ぬ山を目利しておく時雨哉

 ところが、この一茶の句を読んだとき、私はすぐ女師匠とのその朝のことを思い出したのである。あれから五十年近い歳月がたっていたのに、言葉の端端までを思い出す気持ちだった。

 この句は。一茶『七番日記』の、52歳のときの書き留めのなかにはいっている。女師匠と同じように、当時の年齢で見れば一茶も初老だった。


しかも、一茶には肉親はいない。師匠も天涯孤独と聞いていた。さらに、世間的な苦労をしてここまできていることでも、二人は似ている。いや、女師匠のほうが一茶よりも苦労していたにちがいない。師匠に義太夫を習っていた機屋さんのなかには、師匠は秩父盆地の農家の出で、父親が、明治17年の秩父事件(当時は秩父暴動と呼ぶのが普通だった)に加わっていて、そのため事件後捕らえられ、一家困窮のうちに娘義太夫になったのだ

と話す人もいた。

 女師匠がいつ叔母の家の二階を去ったのか知らない。私か戦地にゆくまではいて、戦後帰ってきたときは、もういなかった。おそらく、戦時下に義太夫なぞ唸っているとは不謹慎、ということになったのだろう。

女義太夫
冬至と大晦日の食べもの   金子兜太    (つれづれ歳時記)

 年がつまってくると「冬至」がくる。新暦で12月22.23日頃にあたる。太陽がもっとも南に傾くため、一年中で、昼がいちばん短く、夜が いちばん長い日で、東京では、昼間が9時間45分、夜間はじつに14時間15分におよぶという。

 この日柚子風呂に入る習慣があるが、湯気のなかに浮いている黄色の柚子が太陽に見えて、〈太陽への憧れ〉がこんな風習を生んだのではないか、と思ったことがある。いや、いまでも思っている。太陽といっしょの入浴とは、まことに明るい。

 粥(「冬至粥」)を食べ、南瓜(「冬至南瓜」)を食べる。南瓜にも〈南にある太陽〉への憧れを思うのは、私の独断というものか。
 その食べもののことで、昭和8(1933)年、改造社版『俳諧歳時記』は、兵庫県武庫地方では「ん」の二つ重なったものを七種類食べる習慣がある、と記していた。「運」が強くなるように、との願いを込めたものだそうだ。一年でいちばん昼の短い、いわば暗く寒い日に運をつけておこうとする気持ちがなんとなくわかるわけだが、その七種類は以下のものから選ぶ由。「きんかん・かんてん・にんじん・れんこん・ぎんなん・なんきん
(南瓜)・なんきん豆・うんどん(うどん)。

 このことを知ったとき、私は郷里の秩父盆地での習慣をすぐ思い出したのである。私は秩父も中はどの皆野町で育ったのだが、冬至となると、夕飯にかならず「けんちん汁」が出たものだった。これと白菜の漬ものぐらいで、主役は「けんちん」。「けんちょん」などと祖母などはいっていたが、字引によると、「けんちぇん」「けんちゃん」という言い方はあっても、「けんちょん」はない。しかし、けんちぇん・けんちゃんとけんちょんはそんなに違いはしない。訛って慣用されていたのだろう。

 とにかく、その呼び方が懐かしいのである。中身は二豆腐をくずして油で炒めたものに、笹がきごぽうや人参、大根、こんにゃくなどなどを加えたもので、何んでもぶちこんでいる、といった感じだった。しかし旨かった。油の昧が嬉しかった。

 この汁の呼び方の「けんちん」が、「ん」の二つ重なりなのに気付いたのである。武庫地方の習慣を知るまで気付かなかったことなので、なるほど、なるほど、と一人で頷く始末。郷里の山国の人たちも、「運」を願っていたのに違いないと勝手に推量して、兵庫県と埼玉県と、かなり相隔った土地の習俗の重なりに興味をひかれつつ、衆庶の生活心情の共通性を思い合わせていたものだった。

 そして柚子湯に入る。太陽とともに湯にひたって、体の芯まで温めるのである。「けんちん」の「ん」が二つ、同時に体中にしみこんでゆく。
とまあ、私は冬至の日の郷里の習慣を自分勝手に思い直している。 歳末の食べもので直ぐ頭に出てくるのは、これと餅、そして、「晦日蕎麦」である。「年越蕎麦」ともいうが、晦日は晦日でも、大晦日に食べる蕎麦で、東京では「みそか蕎麦」といい、関西では「つもごり蕎麦」ともいう。

 これがいうまでもなく長寿を願うためのもので、「蕎麦の如く長く」という意向がこもっていることはいうまでもない。しかし、その通説より面白い説にこんなことがある。つまり、昔は金粉を散らしたとき、それを集めるのに蕎麦粉を撒いてそれといっしよに掃き集めるやり方があったので「金を集める」という縁起があるというのである。晦日蕎麦は江戸期以後の風習。
 冬至に運を強め、年の終わりの夜は長寿やら富やらを願う。願いつつ大いに食べて、体を温めるのである。

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