2015年8月1日

金子兜太「戦争と俳句」を読む

金子兜太
  トラック島にて 六句
重油漂う汀果てなし雨期に入る

古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る

被弾の島赤肌曝し海昏るる

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 戦後日本 四句
彎曲し火傷し爆心地のマラソン

三月十日も十一日も鳥帰る

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

今も余震の原曝の国夏がらす


 金子兜太の「戦争と俳句」を読む
  
著書『悩むことはない』より           安西  篤

 まず、『悩むことはない』(2011年文藝春秋社刊)の構成についてみておこう。全体が語り下ろしの形をとっていて、兜太の明快率直でユーモラスな語り囗が存分に楽しめる。しかも内容は体験に即しか真実に裏付けられている。全く借り物でない人生観なのだ。

 第一章〈問われて笞う〉は、兜太現在の生活信条や生きざまを、率直に述べている。要点は、[ありのまま]に生きることに尽きる。幸・不幸や使命感、倫理などに捉われない本能的な原始感覚で、全てを受けて立つ生きざまがある。

 第二章〈生い立ち来たるところ〉では、その生きざまをもたらした故郷秩父の原風景を描く。そこにある糞尿と土への親しみが、「生々しい」ものを基本においた純粋経験につながり、物を判断する尺度となった。「生々しさ」は、「生きもの感覚」によって、物に即し、相手と抱き合えばいい。生々しい人間を書くことに徹するのが俳句のあり方だ。自分はそれに徹底してきたから、「自分自身が俳句の塊りである」と言い切ることができる、と兜太はいう。

 そして第三章〈戦争と俳句〉へ引き継がれる。
 兜太の戦争体験は、昭和十九年から二十一年の引揚げまで。場所は南太平洋日本海軍の要衝トラック島である。着任当時、此にトラック鳥の基地機能は壊滅的打撃を受目りており、やがて内地からの補給が途絶えると、全鳥飢餓状態に陥る。その中で出会ったさまざまな人間像と俳句との関わりを、兜太は語っている。

 この極限状況の中で、当初は俳句を作るまいと考えていた。上官からの、自活と士気高揚のために句会をやってほしいという要請にも応じなかった。ところがほどなく、俳句復活の機会がやって来る。死者に報いるために俳句は作らないと決めていたのに、歩いているうちに自然に出来てしまう。これはもう身体現象だった。さらに、文学青年西沢陸軍少尉と親しくなったことから、陸海軍合同の句会を提案され、自らの俳句魂に気づくとともに、上官の志にも応えようと決意するにいたる。この句会は、陸海軍の枠を越え、階級絶対主義の軍隊で士官と軍属工員の差別もない、奇跡のような風景をもたらした。戦場下でのさまざまな事情で、兜太自身長く携わることが出来なかったにも関わらず、句会活動は拡がりを見せ、終戦時まで続いたという。

 この理由を西沢少尉は、兜太の人徳・指導力と俳句という詩型のもつ汎人間的魅力によるという。おそらく、極限状況の下での人間の生への執念は、最終的には感性の力に負うところが大きいのではないか。これには兜太の「生きもの感覚」が拠り所になったに違いない。俳句の場を通じて、それを引き出すガイドの役割を演じた。しかも俳句型式が、誰にも開かれているものであった。戦争という極限状況をも乗り越える詩型の力を、あらためて教えられた。


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