2015年8月1日

「金子兜太句集」風発行社


『金子兜太句集』 風発行社([半島」を収める) 

定価250円 1961年7月刊 

(句は春陽堂俳句文庫「金子兜太」から)

娼窟に縄とびの縄ちらちらす  (神戸18句)

平和おそれるや夏の石炭薦かぶり
少年一人秋浜(あきはま)に空気銃打込む
港に雪ふり銀行員も白く帰る
夜の餅海暗澹と窓をゆく消えぬために
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
車窓より拳現われ干魃田(かんばつでん)
青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
人生冴えて幼稚園より深夜の曲
激論つくし街ゆきオートバイと化す
朝はじまる海へ突込を攻め
悄然たる路上の馬を雛の間より
白い人影はるばる田む鴎の死
山上の妻白泡の貨物船
銀行員等(ら)蛍光す烏賊のごとく
強し青年干潟に玉葱腐る日も
もまれ漂う湾口の筵夜(むしろよ)の造船
豹が好きな子霧中の白い船具
湾曲し火傷し爆心地のマラソン (長崎にて 10句)
暗い製粉言葉のように鼠湧かせ
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
岬に集る無言の提灯踏絵の町
青濁の沼ありしかキリシタン刑場
森のおわり塀に球打つ少年いて
殉教の島薄明に錆びゆく斧
手術後の医師白鳥となる夜の丘
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に
殉教の島薄明に錆びゆく斧
手術後の医師白鳥となる夜の丘
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に 



金子兜太句集』後記      金子兜太

句集『少年』をだしてから、六年たった。今度は『少年』の全部と、それ以後のものを残らずまとめて、約八百句を一冊にした。
『少年』以後のものは、神戸の頃の後半(三部・神戸に所収)と長崎の全部(四部・長崎)、それと東京に戻ってからのもの(四部・東京) である。

『少年』以後の作品については、内々第二句集として別にまとめたいと思い、題も「半島」というのを考えていた。神戸の後半ごろから、関西にいる友人たちの刺戟もあって、
ぼくの俳句は日頃考えていた方向に向って独自性を強めていったように思う。

長崎というエキゾチックでしかも忍従と悲惨の歴史に満ちた環境のなかで、より独自的に作ってみたいとも思い、またある程度得心のできるものもできたように思っていた。

東京にきてからも、そのペースは崩していないつもりだ。何とか第二句集をと念願していたのもそのためだった。

 しかし、沢木欣一は、『少年』は絶版になっているし、案外読んでみたいという人も多い。それに初期の抒情も捨てがたい句を全部まとめてみたらどうか、と奨めてくれる。たしかに、考えてみれば、第二句集を別にだすということには一種の気負いとうぬぼれがある。

そんなものはしばらく隅に寄せて、俳句を作りはじめてから今までの二十年余の遍歴を、ここでさらけだし、読んで貰う人たちの批評に委ねてみることの方がよい。乏しくとも真剣であったことに間違いはない自分の道行きをまとめておく方がよい。そう考えた次第である。

 まとめ終って、二十年余の集積は光の帯のように、ぼくを祝福してくれているのを知った。ぼくのいままでの生活のなかで、残ったものはこれだけに過ぎないが、これだけのものでも残し得たことは貴重なことであった、と気付いた。戦時中、トラック島にいたぼくに、父が、「お前が死んでも、お前の俳句は残る」と書いてきたのをふと思い出し、何とも感傷的な気分にさえなるのだった。これからも作りつづけたい、とつくづく思う。

 この句集を出すに当って、結婚前の多忙な時間を割いてくれた細見綾子さんの御尽力と、解説の労を煩わした原子公平にこころから感謝したい。
      一九六一年五月三日      金子 兜太


第二句集 『金子兜太句集』 解説・海程同人 安西篤
      
解題   安西 篤 (金子兜太集第1巻から転載)付・「解説」(原子公平)/「あとがき」/「略年譜」、総頁290頁、判型・B6判変型、造本・上製畿械函入、発行1961年7月1目初版、発行所・風発行所「現代俳句新書」として編まれたもの。全体は四部に分かれ、一・二部を「少年」、三・四部を「半島」としており、この時期での金子兜太全句集の形をとった第二句集である。
第一句集『少年』は三部の半ば(昭和30年6月頃)までをカバーしているため、ここでは『少年』との重複部分を省略した「半島」三部および四部を掲載した。

この句集は、戦後俳句史のなかでも稀にみる劇的なタイミングで登場した。上梓された昭和36年(1961)は、前年の60年安保の後を受けて俳壇にも保守化と古典返りの波が押し寄せ、ついにその年の暮には現代俳句協会の分裂と俳人協会の発足という大きな転換期を迎えていたのである。『金子兜太句集』出版記念会は9月30日だったが、四日前の現代俳句協会賞選考委員会で兜太たち世代と対立した保守派長老俳人たちは一人も出席しなかった。その夜は豪雨で、「招待席の座布団が、坐る人もないままに、灯を受けてしらじらとしていた」と兜太は書いている。

 このような風雲のなかで生れたこの句集は、反動のに対するカウンターパンチの役割を果たした。すでに発表していたへ「造型俳句論」)の具体的成果はことに第四部に結実しており、「作品は四部一巻分の生長として必然的にまとめられなければならなかった」(原子公平「解説」)のである。


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