2014年11月22日

金子兜太句集『蜿蜿』 

 

第3句集 『蜿蜿』えんえん
発行1968年4月25日初版

(句は花神社コレクション『金子兜太』から)
青野に眠る黄金の疲労というもので
鉄と緑の散乱わずかな休暇を得て
どれもロ美し晩夏のジャズ一団
遠い一つの窓黒い背が日暮れ耐える
沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて
紫陽花の夜にうずくまる善意の妻
屋上バレーの手挙がる超高空の空
   竜飛岬二一句
乳房掠める北から流れてきた鰯
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
霧の村石を投(ほう)らば父母散らん
石柱さびし女の首にこおろぎ住み
さんさんと人を転がし消毒する
髪なびかせ生殖急ぐ地平の馬
稲妻に切られ斬るべき書に向かう
鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し
蝌蚪つまむ指頭の力愛に似て
   秋田・男鹿半島
男鹿の荒波黒きは耕す男の眼
   北海道二一句
唐黍かじる若き記者らに東方曇曇る 
俺が食う馬鈴薯映して友の眼鏡
三日月がめそめそといる米の飯
船窓を醜(しこ)の魚過ぎ目覚め荒し
谷に陽が入り水漬く紙片が土となる
  下北・尻屋崎・五句
風圧のわれよ木よ海に鰭の交(こう)
最果ての赤鼻の赤魔犀の岩群(いわむれ)
海流ついに見えねど海流と暮らす
青天枕に彼も宇宙飛行士のほほえみ
梨の木切る海峡の人と別れちかし
眼の大きな汗かき男の漫画終わる
鈍く鰈を打ちすえる男濃霧の中
軟着感トンネルの中じゆう続く
   赤城山
山幾山膝は鈴より光るなり
   東北・津軽二句
津軽満月足摺り輪となりこの世の唄
人体冷えて東北白い花盛り



『蜿蜿』後記      金子兜太

◆昭和三十六年(一九六一年)四月より四十二年(一九六七年)七月までの約六年間の作品から
三百句を選んだ。配列は、だいたい作った順になっている。
 この間、東京にいる。安保問題の年にあたる昭和三十五年五月に長崎から東京に転勤し、まさに十年振りで地方暮しに終止符を打ったわけである。以来ずうっと杉並区の沓掛町(途中で今川一丁目というツマらない名称に変った)にいて、四十二年七月、埼玉県熊谷市に家を作って移った。

◆この句集とともに、私は四十代に入った。この句集の六年は、私が四十代に足を踏み入れてからの六年である。
そして、自分の肉体を強く注目するようになった六年でもある。たしかに、四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。健康に恵まれていただけに、不健康が人一倍こたえる。ひどく自分の体を気にするようになったのである。作品も、だんだん脂気(あぶらけ)が抜けて漂白されてゆくように思えた。それがはじめは不安だった。

◆自分の肉体の変化に注目しはじめると、能率や感情は勿論、思考の内容までが、体調によって大きく左右されることにも改めて気付いた。
人間とはコンディションの動物なり、と思いはじめる。他人の作品や文章を読んでいても、これはどんな体調のときに書いたのかな、と考えたりすると、もういけない。明日は体調も変り、文意もころりと変るかもしれないと思うと、バカバカしくて読めなくなる。実際にも、政治の季節の変化に、動物的な敏感さで順応する文化人とか知識人とか称する人が案外多いので、私のバカバカしい思いは、ますます募るばかりだった。
                      
◆つまり、肉体を無視あるいは軽視する人の面(つら)がみたいという気持であり、それだけに(精神)の難しさ、貴重さを、
切実に思うわけでもあった。

◆次第に、私は、自分の肉体の管理に長じてきた。伸びること
おそく、収縮の早くなったわがいちもつのボヤく声も聞こえるし、内臓の嘆きを察知できるようにもなる。そのうちに、自分の肉体を徐々に抽象化し、そのなかを透視することもできるようになる。眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていること
に気付く。青空が自分の体内の細胞の一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。突然、遠い時代の祖先が、髭むしゃで草原を走る。神楽歌がとびこむ。

 だから、たとえば(自然)と言っても、こうした、自分の
肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き鼻でかぐだけの自然では十分ではない。まして約束としての有季などという条件付のものなど、不自然きわまりない。

 伝統についても同じだ。たとえば、伝統論者たちの言う
わが国の伝統なるものは、湿っぽく、幽暗な世界が基調になっているが、私の肉体は、もっと明るく、藁のようなふくらみを持った暖色を基調におく。
そのせいふ、岡本太郎が、宗達でなく光琳を推賞したとき、氏ほど光琳を認めてはいないのだが、気持のどこかで快哉を叫んでいたものである。
この句集の始まる昭和三十六年頃からとくに、伝統尊重の論が押しっけがましく行われていた。しかし私が、その殆んどを認めることがなかったのは、自分の肉体をよく見、そこから承知してゆくことにますます執着するようになった時期と、それが重っていたせいもあると思う。

◆ところで、私は、今までも、これからも、(自由)を求める。
肉体の自由か精神の自由かと言った、小賢しい区別はしない。それらすべての自由を願う。そして、自分の自由が他から侵(おか)されるときは自由を守るために闘うことも辞さない。
その代わり、他の自由を侵すことは絶対にない。本当の自由とは、自分が絶対に自由であるとともに、他の自由も絶対に侵してはならないものと思う。

 それにしても、自分の肉体が分ってくるにつれて、自分の
本能の姿もますます見えてくるわけだが、じつさい、自我(エゴ)のごうのふかさを痛感することが多い。
それはたえず本能の生(なま)の欲求に突きあげられ、生(なま)な感情によって揺すられているのである。
それだけに、自由の実現は、エゴを馴致することのできる精神の成熟を待つしかないと思うのだが、それを一人一人の内部に熟成させるためには、どうしても一定の社会条件が必要であるとも思う。それくらい人間は身勝手なものだ。

今日侵されているものが、明日は侵すものにならないと
いう保証はどこにもない。いや、
侵さないということは侵し合うことによって得られる、
いわば戦闘的均衡のようなものかもしれないのだ。

 私自身、四十歳を越すとともに、その身勝手さが募るの
に気付く。肉体の下向と反比例に、むしろそれを補強するかのようにエゴは横暴になるようだ。それにもともと、私はエゴの赤裸々な振舞いを、人間臭くて美しいとさえ思いつづけてきた。
たとえば、勝負事が好きだし、勝負師が好きだ。それも、劇的なものでないと興味がなく、その意味で、将棋の升田幸三、囲碁の宮下秀洋、プロ野球の三原脩などは大好きである。

ただ勝つのではなく、勝っても負けても、そこに劇が残る
-彼等はそれをやる勝負師なのだ。自分でやる場合でも、普通に勝つことに興味がなく、碁なら大殺教、麻雀ならマンガンをつねに考えているためほとんど勝つことがない。
升田たちほどの力も才もないのに、劇を楽しみすぎるためだが、そのためか、このところ
すっかり自分でやることには興味を失ってしまった。

そのかわり見る方には前以上に情熱を燃やす。 ともかく、
勝負事には赤裸々エゴの格闘があり、劇的勝負では、その格闘は強度の緊張を示し、それがまことに美しいのだ。私はそれが好きだ。

ことに、本能不在のような装いの蔭で、人一倍本能を潜行させている風景のなかに立つと、私はますますむきだしのエゴの本能に憤れるのである。自分を自然児と自認し、とても出来上った組織には安住できないとしみじみ分ってきたのも最近だが、どこかで、それこそ最上という自惚れがあることも事実である。

 別の目からみれば、だから、私は真の自由にとっては敵であるわけなのだ。侵されることには過敏だが、侵すことには相当に鈍感な、文字どおり利己的な自由の徒なのかもしれない。

それが逆に、自分のなかにエゴ馴致の精神を形成しょうとする意思になっているのかもしれない。しかし、いまのところ、私は整序された内的秩序の美しさを思いつつ、一方では動物的な利己の美観にひかれているーいやその接触面に発光する人間の劇にひかれている、まことに曖昧な男にすぎない。

◆この句集を編みおわって、私は(一人の連句)と
いうことを思った。
(最短定型のイメージ)を追い、それの豊かな(形象)を求めて、むしろ一句一句の独立に執心して作句してきたわけだが、一冊にまとめてみると、あたかも、連句の席に会した人たちが激しく付け合ったように、私は、自分びとりのなかで、自分の句に向って、ときに反撥し、ときに響和しながら、気合いをもって相対し相関わりつつ、次ぎつぎと句を作りだしていたことを知るのである。その痕跡が、六年という時間の流れのなかに、瘡のようにゴツゴツともり上っている。だから、この句集は、その時間のなかの単なる生活記録のようにみえながら、じつは、それ以上のもののようでもある。
(形象)への努力が、そんな印象を残すのであろうか。


『蜿蜿』解説・程同人   安西 篤

『蜿蜿』三青社 昭和43年4月刊

付・「後記」(「兜太教訓集」)、絵頁・190頁、
判型・B6判、造本・並製機械函入、
発行1968年4月25日初版、発行所・三青社

『蜿蜿』は、昭和36年(1961)4月より42年
(1967)7月までの約六年間の作品から300句を選んでいる。「海程叢書」として刊行されたもの。
この時期の兜太は後に「前衛派の闘将」と異名をとるほどの活躍期にあった。俳 誌「海程」の創刊、『短詩型文学論』『今日の俳句』等の出版があり、俳壇ジャーナリズムでの特集も相次ぎ、この句集に収められた作品の数々は多くの話題を呼んだ。

 ところが「後記」では、意外に沈潜した感想を述べている。
まずこの句集とともに四十代に入ったのだが、それにつれて肉体の変化に注目しはじめ、体調によって感情や思考が左右されることに気づくようになったという。「そのうちに、自分の肉体を徐々に抽象化し、そのなかを透視することもできるように」なり、さらには肉体が自然のなかに息づいていることに気づくようにもなる。

そして「こうした、自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる」として、(自然のもの)の主体的把握に転ずる。
次いで、おのれの生に即した(自由)への希求をいう。自分の肉体がわかってくるにつれて、自分の本能の姿もみえてきて年とともにエゴの業のふかさを思いしらされる。
それだけに自由の実現には、エゴを馴致することのできる精神の成熟がもとめられる。そして「私は、整序された内的秩序の美しさを思いつつ、一方では動物的な利己の美観にひかれているーいやその接触面に発光する人間の劇にひかれている」と書く。
(自然のもの)と(自由)は、兜太がようやく肉体でたしかめ得た表現と生の方法であった。『蜿蜿』の後記はその方法の宣言をしていたのだ。



 

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