2014年11月20日

『金子兜大全句集』

句碑が皆野町立沢にあります

第6句集『金子兜大全句集』1975年刊行 (昭和五十年)  
立風書房 (句集は387句)
句は花神コレクション「金子兜太」から

『金子兜太全句集』所収・第  田園歌・7句 

雄猫ありき棗の実を見上げ

雄猫ありき平原に稲妻幾夜
農薬撒布のヘリゆき毛虫は死なざりき
黒猫ありきらきらの眼は菱の実
黒猫あり麦秋の野には太蛇(ふとへび)
黒猫あり幹を走れば降る朝星
宅地造成のブルゆき蛙は逃げたりき
焼鳥やしずくのような日暮れ鳥
温くもればはしやぎ寒ければ萎え芹の家
髭のびててつぺん薄き自然かな
  飛騨6句
昼の僧白桃を抱き飛騨川上
雨の日の蹠(あうら)散らして飛騨川沿(ぞ)い
竜になりそう雨に降られて梅干たべて
飛騨紅葉人体もつれ合う隣家
晩秋や通訳ひとり韓紅(からくれない)
人嫌いの婆追いつめる秋の旅
玄冬平野夜明けの枕も雲も白
冷雨に濡れる百頭の歯を剥く牛馬
河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく
ぎらぎらの朝日子照らす自然かな
童貞の石頭あり野の昼月
夜は朝日の光消えがち山の酒
  詩経國風によせて5句
日の夕べ天空を去る一狐かな
一日見ざれば三秋のごとしかの猟人
わが世のあと百の月照る憂世かな
谷に妻あり男ぱらぱら涙ぐせ
風夕べ牛と羊は下るかな
横の子が転げて鼻血緑野行(こう)
この魚の赤き尾対岸栗の花
直(ひ)た照りの痩身倒れ夏が来るな
霧深(きりぶか)の秩父山中繭こぼれ
山峡に稲の音あり秋まぼろし
人影に蚕飼の疲れ霧の家
霧の蚕飼鳥がばさばさ近づいて
飼屋に置く鏡ひかれば夕月あり
男女のことはすべて屈伸虫の宿
酔い漂い水光無韻の秋の旅 


後記 『金子兜太全句集』 金子兜太

全句集を出す話があったとき、私のなかで、出したい気持と渋る気持が押しあい圧しあいして、しばらくは決着がつかなかった。いまでもすっかり割りきっているとはいえないのだが、出し渋る気持の中心は、なんといってもまだ早いということである。もともと全句集といったものは、その人の死後か、あるいは生前にでるとしても、あらかた仕事をしてしまったあとの集大成のはずである。私の場合はまだピンピンしているし、自分では、いまだ人生半ばとおもっている。


それに、句業となれば、むしろこれからが、と自分に言いきかせている昨今でもある。自分が晩生のせいか、完成などということは、あまり意識しないで作ってきたし、だいいち、俳句という七・五調最短定型にふさわしいのは、中年以後の詩的結実かもしれないのである。

 しかし、一方では、出したいという気持があった。それは、完成などということはあまり意識しないで作ってきた、といま書いたばかりだが、そういう現在までの自分の思うままの作品を、総ざらいに提示してみたいという考えに重なるからである。思うままに作っ
たものだから、冒険や実験があり、破綻と成功の玉石‘混淆があり、俳句の限界を予測させるものがあり、同時にまた、俳句の可能性を予知させるものもあるだろう。いろいろあるにちがいないが、とにかく、全部を曝して、俳句愛好者、あるいは、若い俳句作者の批判
を待ちたい気持だったのである。

 私が俳句というものに出会えたのは、田舎医者で俳句好きの父・伊昔紅のおかげである。炬燵のうえには、いつも俳句雑誌があったから、小学生のころから眺めていた。中学生になると、読みもし、集ってくる俳句好きの話に耳をかたむけるようにもなった。そして旧制高校の俳句会で作句しはじめたのである。

 以来、私は俳句から離れたことがない。第二次大戦直後の一時期、離れようとおもったこともあるが、俳句自体の牽引力で、すぐ引き戻されてしまった。そしていつか、俳句専念をこころざすようになっていたのである。俳句は魔女のごとし、と私はよく人に話す。


 つまり、私と俳句は相性がよいのだ。私の肉体は俳句に親しみ、七・五調最短定型から、土俗と精神の混和を享受している。だから、俳句を通ずる人との関係までが懐しく、忘れがたく、しだいに「俳諧」の世界にひきつけられている。

 その相性のよさに安心して、私は自由かつ無礼に、俳句作りをしてきたのである。俳句の特性を先ず考え
ようとする人たちにとって、そういう私の作句姿勢は、あれこれ苦情のいいたいところにちがいなく、現にかなりの批判を受けてきた。しかし私には、どうしても、作り手とは本来そういうものであって、その現実の表現要求と伝統詩形との取組みのなかで、しだいに表現内実と言葉が練られ、なめされてゆき、いつか、伝統の重みと現実の新とが融けあってゆくもの、とおもえてならなかったのである。

 ところで、そういう私の俳句のすべてを読んでもらうためには、句集がなかなか揃えにくい現状である。やはり一度、全句集をまとめておく必要があった。それに、句集に入れてない作品がかなりあるので、同時にそれも加えておくほうがよいとおもえた。全句集を
奨めてくれる人たちもそう言ってくれるので、第一句集『少年』未収の作品中、最初期から昭和二十一年末(戦地から帰国した年の終り)までのものIつまり私の青春期の俳句、約四百句をまとめて、未刊句集『生長』として加わえた。この『生長』という題は、敬愛する堀徹が、私の俳句ノートにつけてくれた題名である。堀は昭和二十三年三十代で死んだ。すぐれた国文学者だった。

 また、第六句集『狡童』を新たに上梓して、これも加えた。これによって、最初期から昭和四十九年秋、私が日本銀行を定年退職した年の秋までの、ほぼ全作品を揃えたことになる。

 新たに加えた二冊をいれて、七冊の句集をまとめた
わけだが、句集収載作品の時期は、年譜でだいたいの見当がつくはずである。
念のため簡単に説明を付けたせば、第一句集の後半は戦後俳壇を風摩した「社会性」論議に積極的に参加した時期の作品であり、第二句集は、そのなかから、方法論「俳句造型」を書き、それを契機に高まってくる、いわゆる「前衛俳句」 の渦中にいての作品である。その後、伝統回帰の思潮のなかで大いに揉まれ、ときには無視されつつ、私は自分なりに古典を消化していった。

しかし、あくまでも、現在ただいまの自分に執しっづ
けたわけで、第三句集『蜿蜿』以後は、そういう苦心と模索のなかのものである。だから、一方からは、欧詩模倣、今様談林といわれつつ、他方からほ、兜大変節、伝統追随の非難を浴びもした。しかし、まだ
変化が足りない、もっとやれ、と激励されたこともある。

 そういう私の歩行の裏付けのつもりで、年譜をいれた
のだが、じつは、これにも内心抵抗があった。生きているあいだに、自分で作る年譜などというものは、まことに痴(おこ)がましいものである。
それに私は、昭和三十二年以来日記をつけている。資料がありすぎて、かえって整理がつかず、自分の甘さにほとほと閉口するしまつだった。

 以上のようなことだが、はじめから了りまで、利彦
酒井弘司宗田安正諸氏の御世話に与り、氏からは解説の文まで頂くことになった。
また、山口誓子、飯田龍太、佐佐木幸綱氏から好文を頂き、高井有一氏は、第四句集『暗緑地誌』月報の氏の文章の転載をこころよく承知して下さったのである。これらの方々に、この場を借りて、こころから感謝の意を表したい。

三十年来の友・村上一郎自刃して旬日、春闌わの夜に。
                   金子兜太
 

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