2015年8月1日

金子兜太句集『詩経国風』 

第10句集『詩経国風』 
角川書店  昭和60年6月刊  
2,500円 
句は花神社コレクション「金子兜太」より






麒麟の脚(あし)のごとき恵みよ夏の人
抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昂(すばる)
良き土に淑(よ)き女(ひと)寝かす真昼かな
流るるは求むるなりと悠(おも)う悠(おも)う
南谷(なんこく)にわが馬鈍し木木ぞ喬(たか)し
葛を煮て衣となす女(ひと)を恋いけらし
おびただしい蝗の羽だ寿(ことほ)ぐよ
人さすらい鵲(かささぎ)の巣に鳩ら眠る
そして日本列島の東国
人間に狐ぶつかる春の谷 
   同邶風(はいふう)1 
日と月と憂心照臨葛の丘
弑逆(しいぎゃく)あり流れゆく黄裳(しょう)緑衣
そして日本列島の東国・三句
利根流域美女群浴に出会う
春憂う美女群浴の交交(こもごも)
月が出て美女群浴の白照す
     同邶風 2
つばな抱く娘に朗朗と馬がくる
流離(さすろ)うや太行山脈の嶺嶺(ねね)に糞(まり)し
草笛のげに明(あか)し王ら乱れたり
まつりごとみだれて夏の石女(うのずめ)たち
そして日本列島越前三国・三句
越前三国葭切に僧の妻くれない
鉄線花と鵜とぐんぐんと近づきたる
桐の花河口に眠りまた目覚めて
同ようふう(漢字が無いので書き換えています)
ペガサスは南に美しきは少女
夏の王駿馬三千頭と牝馬
鼠を視(み)るに歯があり毛がある山家かな
   衛風(えいふう) 
黄河の夏洋洋と活活(かつかつ)と北へ
一葦もて黄河渡らん子に会わなん
そして日本列島東国房総・二句
朝の馬笑いころげる青坊主
芙蓉咲く風音は人々が聴いて



   衛風 2
かがみ草頑な子の朝影痩せ
緑隂に王あり征きし伯(つま)はあらぬ
雨降れよと言うに日が照る伯(つま)恋し (伯は夫のこと)
そして日本列島若狭・五句     
晩秋の日本海暗夜は碧(へき)
主知的に透明に石鯛の肉め
魚臭しみる壁や股間や初時雨
朝寝して白波の夢ひとり旅
若狭乙女美(は)し美(は)しと鳴く冬の鳥
    王風(おうふう)
羊と牛は日暮を下る明(あか)きかな
夫還らぬ帰るかな帰るかな夕碁の家畜
切岸を真葛ぞ被う流離かな
そして日本列島大和・三句
白樺老僧みずみずしく遊ぶ
馬酔木咲く向うで欠伸夢の僧
春寒の老僧ちぢみやまぬかな
幽風(ひんぷう)・七月
岐山の北鋤整うる睦月かな
址(あし)を挙げて」耕さざるはなし如月
(「址を挙げて」は耕作の動作)
冬の神「司寒」に捧ぐ韮の青さ
氷室開く暁光に牡(にえ)の黄の小羊
弥生卯月と遅遅たり籠に自よもぎ
皐月なり蝉鳴きいなご弾みたり
水無月や庭梅(にはうめ)野葡萄に鈴虫
文月や野に瓜食めば火は流(くだ)れり 
(「火」はサソリ座のアンタレス。「流」は西方に下がること)
ふくべをちぎり棗をたたく葉月かな
粛(しじ)まる霜の長月薪には樗(ちょ)の木
子らに衣を麻の実拾おう苦菜(にが)摘もう
禾稼(かき)を納むこおろぎ床に入り来れば
室(あな)を穹(ふさ)ぎて鼠を燻す神無月
霜月や狸にも会う狢(むじな)獲り
師走かな屋根の修理でおつこちたる
そして日本列島秩父・十句
東にかくも透徹の月耕す音
木天蓼(またたび)初夏真蛇(まへび)さすらいやまぬかな
麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな
赤棟蛇(やまかがし)躍つていたる墳墓かな
どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ
歩みゆくや稲妻片片(へんぺん)と散りぬ
晩夏一峯あまりに青し悼(いた)むかな
霧にいる狐の青さ散華とや
しんじつの草の根沈み蛇は穴へ
狐火なり痛烈に糞(ふん)が臭う

後記  『詩経国風』   金子兜太

 『詩経』は、いまさら説明するまでもないことだが、中国は周の時代に、孔子によって編まれた極東最古の詩集で、その成立は、ギリシアでホメーロスの叙事詩が実りつつあった時期と重なる。わが国の記紀歌謡よりさらに千年以上も前のものなのである。  
                                             
 現存するものは三百五篇「風(国風)」、「雅」、「頌」に分類され、「風」百六十篇、「雅」百五篇、「頌」四十篇となっている。
「風」は黄河流域を主とする北方各地方の歌で、北方黄土層地帯の民の、恋を歌い農事を歌い、暮しの苦しさを訴え、あるいは、為政者の反省をうながす等々の喜びや悲しみの歌謡である。「雅」は周王朝の宮廷の歌で大雅小雅の区別がある。


「頌」このうちの「風」、つまり『詩経国風』に私の関心を集めてくれたのは、近世後半期の俳諸師小林一茶だった。一茶は四十一歳のとき、一年がかりで『詩経国風』と睨めっこしながら俳句つくりをしていて、「園風」 が終ると「雅」 にまで手を
のばしていた。狙いは俳譜修業にあったのだろうが、一茶一流の好奇心の旺盛さも手伝っていたものとおもう。彼の日録によると、かうえん当時の江戸町内には 「詩経講筵(かうえん)」がひらかれていて、そこに聴講にいって勉強した様子である。むろん訓読だが、ときどき中国式の字音まで記していた。

 その一茶の句を理解するためには、原典を読まないわけにはいかない。そこで、もっぱら、吉川幸次郎、目加田誠両氏の著作におすがりして読んだわけだが、読むほどにミイラ取りがミイラになってしまったのである。そして、私も『詩経国風』を俳句にしてみようとおもうようになった。

 理由は、「国風」 が北方黄土層地帯の古代の民の(地方の歌)であり、その (ことばの大空間) に限りない魅力を覚えたということで、いいかえれば、大空間に育った古代中国の民のことばを堪能してみたかったということなのである。そこには、私自身が六十代半ばまできて、なんとなく涸渇感を覚えている語感を、む]しろこれを機に大きく潤沢な語感に飛躍させたい、という願いもどこかにある。伝統というとき、記紀歌謡をおもい、古代古国にまで遡ろうとする、私の本能的といってもよいほどの指向のはたらきもある。

 とにかく、私は妙に 『詩経国風』 にひきつけられてしまって、朝日カルチャーセンターが 「わたしの古典発掘」という講座を設けて、お前もなにか喋れといわれたとき、盲(めくら)蛇におじずで、この本を選んでしまったほどなのである (光村図書『わたしの古典発掘』所収)。ただ、俳句にする場合、一茶がやっていたような、『詩経国風』の各篇を発想源として、それを意訳するようなつくり方には興味がなかった。狙いはことばにある。あくまでも、句づくりを通してことばをしゃぶって
みたかったのだ。

 とはいっても、中国語を知らない私は訓読しかできない。もっとも、吉川氏は、「これらの歌は、三千年前の、われわれとは甚しく異った生活環境の中で、しかも現代の中国語とは甚しく距離のある古代言語で、綴られているから」漢の時代においてさえ、「すでに一定した解釈はなかった」と書いておられる。中国語ができたとしても、そう簡単にはしゃぶれないことばの世界なのだ。


私は、日本語としての訓読み、音読みの範囲で、堪能するしかないのだが、それでも中国にだけ発達した表意文字はしゃぶりでがある。漢字というやつはじつに楽しい。

 そんなふうにしてつくりあげた句群をこの句集にまとめたのだが、とても十五巻(十五国風) 百六十篇全部を対象にするほどの能力は私にはない。そこで、自分勝手に選択して、まず、周王朝創業期の歌である、「周南」「召南」そして「ひんぷう
(漢字無し)」 の三巻を取りあげ、つづいて、BC七七〇年周が異民族犬戎に追われて洛陽に都を移したあと(東周時代のはじまり)の周王室の歌である「王風」を選び、それに加えて、周王室の諸侯の一つである衛の国の歌三巻「はいふう(漢字無し)」「ようふう(漢字無し)」「衛風」を対象とした。

 選択の理由は、『詩経国風』の特徴がこれで掴める(しゃぶれる)とおもったからである。吉川氏は、「周南」「召南」 の創業期の歌篇を「正風」とし、それ以外を「変風」とする通説を首肯しておられたが、要するに素朴平和な時代の歌は「正風」であり、乱世にはいってからのものは「変風」なのである。その「変風」-「そうした環境のうちに成立した抒情詩のさいしょのものとして」衛の国の歌三巻三十九篇がある、と庵書いておられた。私がこの三巻に執着した事情はそこにある。

 それ以外の 「ひんふう(漢字無し)」 (とくにそのなかの一篇「七月」) と「王風」は私の自分勝手な理解で、前者を「正風」の一態として選び、後者は「変風」 のなかでも異色の歌巻として選んでいる。ひん(漢字無し)は駅西ひん(漢字無し)州で、周の最初期(「周南」「召南」 の時代より以前の農耕期)の地だが、
そのなかの「七月」は一年間の農事暦を歌ったものなのである。


日加田氏によると、「ひかぷう(漢字無し)」のすべてが 「農村に伝わる一種の笛に合せて、農村収穫の祝いの時に歌ったものではないかと思う。しかも(中略)七月の詩だけが本来のひんぷうで」あとは付け加えたものなのだそうである。私が「陶風」の「七月」こそ、正風中の正風と受けとる所以なのだ。

 「王風」は洛陽に移って、いちじるしく衰微した周王室の歌である。周王室の歌だから本来は「雅」 にはいるべきなのだが、そうならなかったのは、すでに諸侯のいくつかよりも小さくなってしまった (まるで一諸侯並みになってしまった)周王室の歌は、(地方の歌)でしかなかったからだろう。私はこの歌巻十篇の歌に、盛大なものの衰えゆくすがたを読み、変風の異色として味わう。 古代中国の歌のことばをしゃぶりながら、私は歌の背後の現実と人々の哀歓愛憎にまで感応してゆき、俳句にことばを移しつつ同時にその感応を書きとろうとしたのだが、そうするうちに、心情はいつか日本列島の現実に戻ってしまうのである。

列島での自分の日常の句を、結末を全うする気持で添えたくなる。「長歌を歌い終わったぁさめとして、くりかえす添え歌」としての「反歌」(中西進)といった『万葉集』のなかの 「反歌」ほどの大袈裟なものではないが、それでもどこかに反歌として、の気持が動いていたようだ。

 以上が、この句集のささやかな、自分勝手な試みについての補足の言である。歌から移したことばについてほ、自明なもの以外は簡単な注を付しておいた。
 終りになったが、これらの句を一年ちかくも「俳句」誌に連載して、励ましてくれた前編集長石本隆一氏、出版にあたって多大な尽力をいただいた現編集長福田敏幸氏に感謝申しあげたい。
            昭和六十年(一九八五)春
                          金子兜太

解説 海程同人     (安西篤)
付・「あとがき」、総五・二三八頁、判型・四六判、造本・上製貼函入、装幀伊藤錬治、発行二九八五年五月三十日初版、発行所・角川書店、「現代俳句叢書」シリーズ7

 この句集の成り立ちは、これまでの句集とはまったく異なっている。普通句集は日常詠の堆紡積として成るものだが、この句集は一貫したテーマのもとに、約一年にわたり角川の「俳句」誌上に連載された連作の集積であった。

中国最古の詩集『詩経国風』から素材を得て連作を作り、各章の末尾に日本列島での日常の句を「反歌」 のようなかたちで置くという構成になっている。全体で一九九句のうち、一一二句が国風に素材をとったもの、八七句が日本列島の日常詠となっている。

 「あとがき」 で作句動機や素材とした『詩経国風』について述べているが、この詩集に兜太が関心をもったのは一茶の影響によるものだという。一茶が四十一歳のとき一年がかりで『詩経国風』を勉強し、俳藷の糧にしていることに注目し、その一茶句を理解するために原典を読んでみたのだが、「読むほどにミイラ取りがミイラになってしま」い、自分も『詩経国風』を俳句にしてみようと思い立った。しかし、「俳句にする場合、


一茶がやっていたような、『詩経国風』 の各編を発想源として、それを意訳するようなつくり方には興味がなかった。

狙いはことばにある。あくまでも、句づくりを通してことばをしゃぶってみたかったのだ」という。しかも「私自身が六十代半ばまできて、 なんとなく涸渇感を覚えている語感を、むしろこれを機に大きく潤沢な語感に飛躍させたい、という願い」を
込めたものであった。

 ある意味では、『詩経国風』の世界を書くことで、『詩経園風』に並び立とうとする意気込みすら感じさせるところがある。これに「日本列島」の風景から触発された作品を並べたのも1 その対照と唱和のなかに響き合うものを感じようとする試みともいえよう。


これまで書いてきた句集のように自分の自然成長的な句作りでなく、その上に立って何かを創作してみたいというものだった。その意味では、処女句集『少年』に次ぐ節目の句集ともいえる実験的意欲に富むものだった。
     『詩經國風』  周南、召南

  
 

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