2015年5月22日

海程合同句集の序   金子兜太

海程創刊号

 海程合同句集の序   金子兜太
 風 樹  金子兜太
 沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて
 霧の村石を投うらば父母散らん
 どれも口美し晩夏のジャズー団
 育つ樅は霧中に百年の樅は灯に
 打音のビル耳にみどりの昆虫いて
 無神の旅あかつき岬をマ。チで燃し
 風樹をめぐる托鉢に似た二三の子



 昭和三七年(一九六二年)四月、約四〇人の同人によって『海程』が創刊されてから、早くも三年たった。その間、隔月刊のたて前を崩すことなく発行されて一八号に達し、同人も一三〇人ほどになっている。
このアンソロジーは、その満三才を記念したささやかなスーヴニールであるが、三年間の発表作のなかから七句を自選した同人たちの気持のなかには、ここに一本の道標を立てようとする意欲なしとしない。
永久保存のスーヴニールでありたいと願う気持もあろう。続く・・・・・

 意欲―『海程』は素朴簡明な意欲のもとに創刊された。それは、いま表現したいものを、可能なかぎり俳句として書き現わしてゆきたいということ、つまり、思い切って俳句の内容を拡充してゆきたい、ということであった。
 
 私たちは、俳句という伝統詩形に関わっているということが、古き良きものへの愛着を離れては考えられないことを承知している。また、才月に磨かれてきた最短定型詩形としての俳句にあっては、云葉に対する厳格さが、きびしく要求されることも理解している。


しかし、そのことは、この定型詩形と、それが養ってきた云葉に対するリゴリズムを尊重することではあっても、従来的な美趣や云葉に、単純に奉仕することを意味するものではないと思っている。現在の念願を盛り、その念願を盛るための云葉に対する冒険も―それが定着への願望を根に持つかぎり許されてよいはずである。


いや、時には、伝統詩形は、そうした意味での積極的な美と云葉の試みを持だなければ、陳腐化し、埋没するおそれさえある。
私たちはそう考えて、潔ぎよく、自分たちの表現意欲を、まず正面に据えた。

 その意味での内容の拡充は、手法の拡充によって、俳句として稔る。私たちが、昔から集積されてきた手法に加えて―従来の手法を大いに活用しつつ、しかも、それ以外の手法の開拓に努めてきた理由はそこにあるわけで、ただ徒らに新を競って技法を誇示するわけではない。手法としてのイメージに執着する理由もそこにあり、私たちの関心の多くが、その形象に払われてきている。

 「物の微」と「情の誠」の相関に、俳句作法の根本を置く見方に従うならば、いわゆる伝統的作法は、物に即しつつ物の微に情の誠を納める方向を辿ってきたといえるが、イメージは、その逆の方向、つまり、情の誠に物の微を納めるものであると云えよう。そこでは、主体の強い表現意欲があからさまに首肯されているわけであるが、それだげに、ともすれば物の微を粉々に砕いてしまって、誠の姿のみ一意に示す結果を導きかねない。いわゆる抽象過度を惹起しかねないのである。

 私たちは、その行き過ぎを防ぎつつ、イメージを攻めてきた。そして、そこに体感されたことは、イメージのなかで、いかに物の微(これを本姿あるいは自然の質と云いかえたい)を生かすか、ということであった。
いうなれば、それは、伝統の作法を裏、加えしつつ、伝統の作法を活かすことに他ならない。抽象を経た具象という云い方もそれを意味する。その体感を踏まえることによって、私たちの関心は、大きく、イメージの具象化の問題に傾いてきているのである。

 イメージにとって、いま一つの問題は、それがもともと形象であるということ、従って、最短定型詩形たる俳句の韻律と相反の関係にある、ということである。桑原武夫「第二芸術論」の最大の穴は、俳句が韻律詩であることを見落していることであると考えている私たちは、俳句の韻律を重く受取っている。それだけに、イメージの形象と、それをどう融合させてゆくかということは、重大な実作上の課題とならざるを得ない。

 内容と手法の拡充に伴うそうした難問と取組みつつ、ともかくも纏め得た、これは中間の成果である。従って、試行の空転もあり、その反面に思わぬ完成もあろう。その面白さを云う読者もあろうし、それ故の不毛を語る読者もあろう。それはその人の自由というものである。

 ただ云えることは、ともかくも、私たちは、日常生活を尊重し、おのが肉体の声に忠実ならんと努めてきた、ということだ。私たちは、生活のなかに開華する肉声の俳句を育てようとしてきた。その意味で生活派なのだ。決して派手なモダニストなどにはなれない代物である。

 なお、最後に、くどいようだが、私たちが固持していることを挙げておきたい。一つは、俳句は最短定型詩形であるということ、従って、自由律は認めない、ということ。
いま一つは、季語は尊重し、活用に努めるが、それに拘束されない、ということ。 ともあれ、私たちは、この一本の道標をあとに、すでに、リュックを担ぎ、ピッケルを手にしている。二合目に向って歩く。

 

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