2015年8月1日

金子兜太句集『皆之』

第11句集 『皆之』 2600円 1989年刊 

立風書房

僧になる青年若葉の握り飯
疲れ眼に蜂の呟き一瞬あり
義兄落合文平死去     
流るるはすべて華(はな)なりただ眠れ
とどまるは漂うごとし木苺の径(みち)
朝の馬ついに影絵となる旅立ち
     沖縄那覇      
起伏ひたに白し熱い若夏(うりずん)
      宮崎えびの高原
雲と吾(あ)と韓国岳(からくに)越える夏逝くぞ
蓼科紅葉人間孤となり奇となり

   奥信濃柏原・二句
雪の家房事一茶の大揺(おおゆ)すり
雪の中で鯉があばれる寒そうだ
乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉(しょし)
桐の花遺偈に粥の染みすこし
牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ
濃霧だから額(ぬか)に光輝を覚えるのだ
抱かれし野鯉あかあか鉄砲水
家にいる外(そと)は晴蜻蛉(とんぼ)眩しいので
頭痛の心痛の腰痛のコスモス 
秋谷(あきだに)の戸ごとに怒鳴り酔つぱらい
座礁船ことに遺児たちが見ている
家の真中(まなか)に犬伏していて五月来る
芝桜若きカメラマン沈思
霧の家青大将が婆(ばば)の床(とこ)に
肉体萎(な)えるや窓に鴎の背中見えて
犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀
陽がさせば木の実美(は)し村人よ村よ
返り花頬いつまでも赤しや人(ひと)
痛てて痛ててと玄冬平野に腰を病む
     瓢湖
唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り
人伝てにかさこそかさこそと金縷梅(まんさく)
北風(きた)をゆけばなけなしの髪ぼうぼうす
肉病むとも気は病むまじと梛(なぎ)の茂り
砂漠かなコンサートホールにかなかな
みちのく初冬川の蒼額(あおぬか)人の無言(しじま)
遊びごころに林檎畑に白い雲
大花白豚歩いてゆくぜ白鳥だぜ
マスクは鼻に蜜柑は指に人の前
夜となり吉夢(きちむ)むさぼる寝正月
世を旅して寒紅梅一塵(いちじん)
寒椿おまんまおしんこおまんじゅう
中国放吟(桂林、りょう江)・五句
  
りょう江どこまでも春の細路を連れて 
 (りょう江は漢字)

真白(しんぱく)の瀧を遠目に旅ゆくも
大根の花に水牛の往き来
二江の間(あい)に春寒きかな桂林
蒼暗の桂林迎春花に魚影
れんぎように巨鯨の影の月日かな
谷川岳(たらがわ)南面われとの間に風音(かざおと)一度
  出沢柵太郎死去・二句
夏燕波爛の生というべき死
夏燕谷ゆけり記憶散りゆけり
青葦原汗だくだくの鼠と会う
  秩父山中盛夏・六句
伯母老いたり夏山越えれば母老いいし
夏の山国母いてわれを与太(よた)と言う
老い母の愚痴壮健に夕ひぐらし
たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし
カリン老樹に赤児抱きつく家郷かな
朝日に人山蛾いちめん流れゆく
代満(しろみて)と言い交わしつ中国山脈越ゆ
蜂に追われて眼鏡失くして夏終る
冬眠の蝮のほかは寝息なし

後記 『皆之』後記   金子兜太
 昭和五十六年(一九八一) から六十年(一九八五)までの五年間の句をまとめた。
五年問の句といっても、そのあいだに句集『詩経国風』(昭和六十年五月、角川書店) を出しているので、題名の主題を追った句とともに、その主題に添う内容のものはそちらに収録した。それがかなりの句数になる。

 それらを除いたあとの句をまとめたわけだが、三三六句あった。すぺてが日常吟といえる。つまり、武蔵野の北・熊谷に任して、ときに郷里の秩父盆地は皆野(みなの)町平草(ひらくさ)にゆく、その常住の日々と、しばしば出かける旅次とのあいだで出来たものなのである。『詩経園風』は主題をまとめた句集。この句集は行住坐臥のながれのままのもの。

 句集の題名を『皆之(みなの)』などと造語したのも、そのことに大いに関わる。『皆之』の「皆」は、皆野町の「皆」。「之」は、いま居住している熊谷市上之(かみの) の「之」。しかも「之」は「野」に通じて、「皆野」と読めることが嬉しいのだ。 それに、わが細君の名が皆子(みなこ)なのである。結婚してかれこれ四十年になる。


このあたりですこしは労を犒っても罰はあたるまい、の気持。しかも、「皆(みな)の衆、皆の衆」と手拍子も盛んに唄う歌があるではないか。「皆之衆、皆之衆」と書いてもよかろう。 立風書房宗田安正氏の御好意によってこの句集は出来た。あらためて感謝申し上げたい。

    昭和六十一年(一九八六) 盛夏
                        金子兜太

 解説 海程同人  安西篤 
 付・ 「あとがき」、総頁二九二頁、判型・四六判、造本・上製貼函入、 装帳・前川直、発行・一九八六年十二月一日初版、発行所・立風書房


 『皆之』は、昭和五十六年(一九八一)から六十年(一九八五)まで五年 間の作品三三六句を収めたものである。前年に『詩経国風』を出してい るから、これとは重複しないようにその主題に添う内容の作はそちらに 収録している。時期的にみてこの両句集は対になっていた。「あとがき」 でこう書いている。


「武蔵野の北・熊谷に住して、ときに郷里の秩父盆地 は皆野町平草(みなのまちひらくさ)にゆく、その常住の日日と、しばしば出かける旅次とのあいだで出来たものなのである。『詩経国風』は 主題をまとめた句集。この句集は行住坐臥のながれのままのもの」。「句 集の題名を『皆之(みなの)』などと造語したのも、そのことに大いに関わ る。『皆之』の『皆』は、皆野町の『皆』。
『之』は、いま居住している熊谷市 上之(かみの)の『之』。
しかも『之』は『野』に通じて、『皆野』と読めること が嬉しいのだ」。この句集を出した年の十二月、金子兜太は朝日俳壇選者を委嘱された。

山口誓子、加藤鰍邸、稲畑汀子と並べられたことは、事実上俳壇の重鎮 を公認されたものといってよいだろう。そのことが、多年苦労をかけてきた 皆子夫人へのねぎらいの気持ちともなって、『皆之』の題名を選んだとも 書いている。
 順風満帆の俳人航路にあって、なお『詩経園風』の実験台を仕掛け、『皆之』を次なる飛躍への助走期と位置付けたのである。

パソコン上表記出来ない文字は書き換えています

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