2015年8月21日

第12句集『両神』金子兜太


第12句集 『両神』  金子兜太

『両神』立風書房 平成平成7年12月刊  2,700円 

句は芸林21世紀俳句文庫「金子兜太」

心臓に麦の青さが徐徐に徐徐に
梅雨の家老女を赤松が照らす
   赤城山麓大胡(三句)
大前田英五郎の村黄落す
紅葉原野やつて来ました大村屋
鴨渡る昔侠客いまは石
少年二人とかりん六個は偶然なり (かりんの漢字無)
小鳥来る全力疾走の小鳥も
自我ぐずぐずとありき晩秋のひかり
青き馬倒れていたる師走かな
毛越寺(もうつうじ)飯(いい)に蝿くる嬉しさよ
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
物足りてこころうろつく雑煮かな
気力確かにわれ死に得るやブナ若葉 (ブナの漢字無)
    愚陀仏庵
二階に漱石一階に子規秋の蜂
長生きの朧のなかの眼玉かな
蛇来たるかなりのスピードであった
夏落葉有髪(うはつ)も禿頭もゆくよ
飯食えば蛇来て穴に入りにけり
両神山は補陀落初日沈むところ
    城(五句)
春の城姫蜂落ちて水の音
夏の城魂はいつも鈍く
秋の城武は小心の極みなりき
冬の城文は自己遁辞なりけり
昼の城生きながらえてやがて離散
青春が晩年の子規芥子坊主
樹下の犀疾走も衝突も御免だ
花合歓は粥(しゅく)栗束は飯(はん)のごとし
春落日しかし日暮れを急がない
霧の寺廟に転ぶさくらんぼ
    四川省の旅(四句)
桂花咲き月の匂いの成都あり
月よ見えね青蒼の山河確(しか)とあれど
靄の奥に月あり心象光満つ
燕帰るわたしも帰る並(な)みの家


後記 『両神』    金子兜太                 
                     
 昭和六十一年(一九八六) の初冬、『皆之(みなの)』(立風書房) を上梓してから九年たって、この句集を出すことができた。第十二句集ということになる。
北武蔵は熊谷に住んで、すでに三十年近くなる。猫も同居していたので 「熊猫荘(ゆうびようそう)」などと呼んできたのだが、その愛猫シンも他界した。

シンの死を含めて、ことにこの九年間は俳句仲間の死が相次ぐのおもいがある。旅にも出かけた。中国はじめ海外にも出かけて、すこし長い旅は皆子と同行というかたちも出来上
がってしまった。細君と一緒でないと、なんとなく落着かない気持になったのは、こちらが年齢を加えたせいもあろうか。

さよう、この九年間でわたしは七十の坂を越え、数え年の喜寿を祝ってくれる人まで出現する始末とは相成った。ただし一応は健康である。小病各所に轟くが、未だ大病なし。

 そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。即興即吟が多く、なんとなく頼りないものも少くないので、それらはどしどし削った。しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屡々だった。推敲し熟成させてゆく過程で、かえって観念過剰になって、生き生きとしたものを乏しくすることがけっこうあったのである。

 むろんわたしは、昭和三十年代の中年期に (造型)の名を掲げて書いた方法論をいまでも後生大事にしている。(創る自分)を活動させて、暗喩たり得る映像(イメージ) を形象することは、わたしの句作の基本である。これを推敲ということばで日常化しょうともしてきたわけだ。

 しかし即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興・二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである。 そして、両刀使いでかなり気盛にやるうちに、俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態(てい)をそのまま
曝すしかないものとおもい定めるようになっている。自分を突っ張って生きてきて、この気持ちはまだまだ旺盛だが、同時に、華や木や牛やオットセイや天道虫や鯖や、むろん
人間やと、周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。

 この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっているのである。 この秋、中国を訪れて林林氏にお目にかかったとき、「天人合こ の語に触れた。
造化に対する人間の思い上りは許せない。しかし、「自然随順」などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、このことばが嬉しくて仕方なかったのである。これからの自分の課題はこの 「天人合一」にあり、と以来おもいつづけている。

句集の題「両神(りようがみ)」は秩父の山両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったたわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山頂近い集落平草(ひらくさ)にゆき、この山を正面から眺めることが多い。熊谷にいて、妻君と散歩するときも、蒼暗の台状の山を秩父の山の連なりの上に遠く見ている。

 あの山は補陀落(ふだらく)に違いない、秩父札所三十四ケ寺、坂東三十三ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めてもいる。つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである。
山に甘えて、「両神」 の題をいただいた次第。 この句集上梓に当って、宗田安正氏のお世話に与ったことをこころから感謝している。

   平成七年 (一九九五) 中秋。    金子兜太


解説  海程同人 安西 篤  

付・「あとがき」、判型・四六判、造本・上製カバー装、装帳・芦澤泰偉、発行・一九九五年十二月二十H初版、発行所・立風書房

 『皆之』から九年を経て、『両神』を出した。兜太にとって、次句集との間隔をこれほど長くとったのは初めてのことである。それだけこの間の熟成に内心期するものがあったにちがいない。果たせるかなこの句集により、翌年日本現代詩歌文学館賞を受賞することになる。

 題名とした『両神』は、秩父の高峰両神山からとった。『皆之』がどちらかといえば人間の集いの場を意識した題名であるのに対し、こちらは故郷の自然そのものへの想いが込められている。「あとがき」で次のようにいう。「あの山は補陀落(ほだらく)に違いない。

秩父札所三十四ケ寺、坂東三十三ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの問にかおもい定めてもいる。

 つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである」。ここには、かつてトラック島で九死に一生を得たとき、秩父の山霊の加護を感じて以来、兜太の体感に取付いているものがある。それが 「存在の基本は土」という自己確認をゆるぎないものにしてきた。『両神」の題名に寄せた兜太の想いは深い。

 さらに、この句集の作句方法について二つのことを述べている。一つは、日常の即興即吟について大いに得るところがあり、即興の句には対象との生きた交感があるとおもうようになったこと。いま一「つは、昭和三十年代に構築した(造型)の方法論をもって自作を推敲する手段として日常化してきたことである。そして「造型とともに即興―二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである」という。

 この両刀使いでかなり気値にやるうちに、「俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態をそのまま曝すしかないものとおもい定めるようにな」るとともに、人間を含む「周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもな」り、「この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっ」たと述べている。

 いまや兜太は、おのれの生きざまをいのちの空間にぶちまけ、そのなかで生きものとのこころの通い合いをもとめ.ようとする方法を手にしたともいえよう。そして 中国て触れた「天人合一」なることばを、これからの自分の課題にしていきたいとしている。

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