2015年12月30日

写真で綴る2015年の金子兜太


2015東国抄   金子兜太

福島病む吾妻山(あづま)白雪夜の声

質実剛健自由とアニミズム重なる

葭葦(よしあし)と牛蛙鳴く刈られゆく

朝狩(あさがり)へ渕の目玉の光るかな

山の友冬眠もなくひた老いぬ

秩父困民党ありき紅葉に全滅


2015年年1月 東京新聞「平和の俳句」始まる、作家のいとうせいこうと選者に。
 平和とは噛みしめて御飯食べること    宮本 武子(76) 
 【評】<金子兜太>ゆっくりご飯を噛みしめて食べているとき、ああこれが
  平和だからこんなに旨いんだ。ありがたいなあとおもう。この日常感。
2016年「平和の俳句」は引き続き募集します。

2015年1月29日 BS11宮崎美子のすずらん本屋堂出演
司会・宮崎美子・・・金子兜太さんの敗戦から70年…戦時中の体験談から
死生観信条、そして代表句をご紹介しながら俳句の魅力についても伺います! 
2015年5月31日 「関口宏の人生の詩」のトーク番組に出演

2015年7月3日 平和の俳句が第十二回「みなづき賞」受賞
 選者で俳人の金子兜太(95)と作家のいとうせいこうさん(54)、
 東京新聞に賞が贈られた。
https://twitter.com/seikoito/status/616951399973195777
2015年6月23日 毎日新聞 俳人・金子兜太インタビュー 
  戦後70年:「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 

2015年8月7日 澤地久枝さんが国会正門前で「アベ政治を許さない」 
戦争法案を廃案デモ。金子兜太揮毫です。

2015年8月15日 日経・戦後70年 俳人・金子兜太 戦後70年インタビュー

2015年9月23日 96歳の誕生日を皆野町で祝賀会 
「平和を念ずれば通ず・・・・兜太」

2015年10月24日(土)熊高創立百二十周年記念に句碑が出来ました
金子先生の母校です。

2015年11月30日  下町ノーベル賞受賞

庶民の暮らしと文化、平和と民主主義を守るために貢献した
人々を庶民が選び顕彰する。そんな活動を続けいつしか
下町のノーベル賞と呼ばれるようになった。台東区の市民
グループが主催「下町人間庶民文化賞」のことです。
贈られるのは万年筆と置き時計です。


2015年12月12日
授賞式に駆けつけた金子先生はSEALDsの今村幸子さんと握手。


2015年12月12日

兜太の語る俳人たち 『井上井月』

映画『ほかいびと 伊那の井月(せいげつ)』予告編

舞踊家のが主演、井月になりきっていて素晴らしかったです

 長岡市の金峯神社に井上井月の句碑が建ったので、そこを訪れる。ほかにも数基建てられたのだが、この句碑の句は、

  行暮し越路や榾の遠明り
で、越後望郷の作だった。後ろに欅の大樹があって、これも冬紅葉。さかんに葉を散らせていた。井月は南信伊那の山峡を約30年間、俳諧とともに歩き廻って野垂れ死にした人物である。死んだのが明治20(1887)年、66歳といわれているから、伊那入りは安政年間だったろう。明治維新までたったの10年と迫っていた時代で、私の頭には安政の大獄と30歳の吉田松陰の刑死が浮かぶ。

井月は長岡藩士だった(明証はないが書簡などから推定できる)。そのことが理由となって、井月の句碑を長岡に建てたいという運動となり、ついに実現したのである。

それにしても、なぜ藩を出たのか。俳諧と酒に明け暮れつつ、家をもたないで歩き廻っている、放浪としかいいようのない生きざまをなぜ選んだのか。そしてなぜ伊那の地を選んだのか。そのあたりは謎の部分で、すぐれた郷土史家、研究者もいるのだが、まだまだ推測の域を出ない。

 私は、井月が西行と芭蕉の忌日に句をつくっていて、それ以外の人の忌日の句がないことに気づいてから、一つの推察を組み立ててきた。
 西行忌の句。
  今日ばかり花も時雨れよ西行忌
 芭蕉忌の句二つ。
  我道の神とも拝め翁の日
  明日知らぬ小春日和や翁の日

兜太のエッセー「俳諧有情・時雨」

1992刊 創拓社 1300円
俳句ごよみ
・随想「春」俳諧有情――春の月、虱、餅草、蜂たち、猫の恋、初午、冴え返、春北風 花粉症、春の湾、青い山
・随想「夏」虹、葭切、祭り、青葉潮、泰山木の花、蛍、父の日、鰻めし、俳諧有情――夕顔
・随想「秋」秋和り、星月夜、夜長、終戦日、流星、梨、曼珠沙華、酸漿、高きに登る
・随想「冬」俳諧有情――時雨、冬紅葉、冬至と大晦日の食べもの、忘年、日記買う、恵方詣初泣き、ラクビー、河豚、雪
随想「雑」借金昔話、顔、殴る、感じる、似ている、海暮らしの日々、死から生
・兜太のすべて
   

2015年12月3日

兜太のエッセー「ラグビー」


今年のスポーツの話題は何と言ってもラクビーの五郎丸選手です。  
3勝を挙げたワールドカップでの活躍で一躍「時の人」になりました。

『兜太のつれづれ歳時記に』 ラグビーの項があります
  
 ラガー等のそのかちうたのみじかけれ  横山白虹

 冬はラグビーの季節といいたいくらいに、ラグビーは私の大好きな球技の一つである。ラグビーの試合のない正月なんて正月ではないという気持ちで、テレビジョンに張りついている。

 この俳句は昭和前期の作で、白虹が九大医学部出身だから、九大ラグビ一部の試合後の情景を句にしたものと勘繰っている。しかし、そんな詮索は無用。ラグビーという激しい闘争技とすら感じさせるほどの、それこそ文字どおり男臭い、男らしい球技が見る者に与えてくれる清清しさに惚れ込んでの作なのである。

 その感動の盛り上がりは試合中も続くが、勝負が決まったあとの選手たちの姿からも受けとれる。勝った者たちの「かちうた(勝ち歌)」が長々しくなく、したがっていかにも誇らしげでなく、あっさりと短いところにもそれを感じると白虹は書くのだ。敗れた相手を労る心根もみえて、まことに男らしいとも。

 この俳句の宜しさの一つは、「かちうた」という言葉にあり、これがひびく。「みじかけれ」といいきるところに、作者と選手たちの心情のひびきもある。「格好の好い」句なのだ。しかし、少しもそれが気にならない。 私か冬、ことに正月ともなるとこの句を思い出す。そうしてラグビーの試合を堪能する。いや、いま一句、私の堪向を感動的にしてくれる句があった。

 惨敗のラガーシャワーに燃え移る  竹貫稔也

「兜太」句を味わう「若狭乙女・・・」 「定住漂泊・・・」


若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥            金子兜太
(わかさおとめ はしはしとなく ふゆのり)

冬、若狭湾に臨む小浜に泊ったときの作。湾は波立ち、鴎が、じつにと言いたいほどにたくさんいて、漁港の冬をつよく感じさせられた。そしてその景のなかで働く若い女性たちが美しかったのだが、とくに鴎の鳴き声が「美し美し」ときこえたのは、旅情のせいもある。しかもこのことばをとくに遣おうとしたところに『詩經國風』によって養われた下地
があったためと思ってもいる。     (『詩經國風』)

定住漂泊冬の陽熱き握り飯           金子兜太
(ていじゅうひょうはく ふゆのひあつき にぎりめし)

人は自分たちでつくってきた社会でなんとか生きてゆこうとして(「定住」をもとめて)苦労している。そのためかえって、原始の、アニミズムの世界を良き「原郷」として、そこに憧れて、こころさまよう。「定住漂泊」こそ社会生活を営む人間の有り態と、私は考えていて、いま冬の陽を浴びて握り飯を食いながらも、そのことを思っている。そのせい
か冬の陽ざしが妙に熱い。私自身その有り態にこだわり、いるゆさぶられて       (『日常』)

2015年11月20日

.岡崎万寿著「転換の時代の俳句力」



金子兜太の七十年目 筑紫磐井 (俳句四季11月号より転載)

 この八月、巷にはこんなビラがあふれていた、「アベ政治を許さない」。俳人金子兜太の字だ。奇異な感じを持たれたかもしれないが、兜太は、戦後復員して後、社会性俳句の
中心としてメッセージを発し続けていた作家だ。決して意外な人物のビラではない。た
だ、七十年後の今それを見ることが不思議なのだ。

 戦争の時代の20世紀に、我々は21世
紀とは平和と希望の世紀であると思っていた。いつの時代も世紀初はそうした希望にあふれている。しかし今となってみるとどうも目論見が違ったように思える。21世紀とは、やはり騒然の時代であった。思い返せば、21
世紀はテロで始まった(2001年9月ワールドトレードセンタービル崩壊)。

そして日本にあっては、地震、噴火と戦争の予感
の時代であった。これこそ金子兜太が再登場するにはピッタリの時代であったのである。




岡崎万寿の『転換の時代の俳句力――金子兜太の存在』

(平成27年8月15日/文學の森刊。(1600円十税)は、こうした時代にうってつけの本であった。兜太には、すでに、牧ひでを、安西篤など兜太と寄り添った人たちが書いた名評伝があり、我々は、事実も伝説もすべて知っているように思っている。しかし、上述のように進展し続ける兜太には、常に現在からフラッシュバックした評伝が必要なのだ。岡崎の本はまさに最新の事実から兜太を浮かび上がらせる。

 一言でいえば、この本は、①震災俳句、②
戦争俳句の両岸から橋をかけ、そこに③リア
リズムという虹を浮かび上がらせている本である、と言えようか。

 第1部の震災俳句にあっては、定点分析と
して、「その年」「1年目」「2年目」「3年目」と軌跡を追っている。
 第2部の戦争俳句にあっては、長谷川素逝・三橋敏雄・渡辺白泉、富澤赤黄男・鈴木
六林男、金子兜太の三つのパターンをあぶり出す。

 第3部の両者をつなぐリアリズムにあって
は、新興俳句、人間探究派、プロレタリア俳
句、戦争俳句、戦後俳句、根源俳句、社会性俳句、兜太の造型俳句という見事な系譜がた
どられるのである。

2015年11月17日

金子兜太句碑  埼玉県熊谷市

10月24日(土)熊高創立百二十周年記念に句碑が出来ました。
金子先生の母校です。

実の窓若き日の夏木立   金子兜太





天台宗別格本山常光院・・・ここは中条氏の館跡(県指定史跡)。
http://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/jokoin.html

たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし    金子兜太



2015年11月3日

句集「黒猫」金子皆子


黒猫  昭和五十六年卜六十年

つらら剣(つるぎ)もまんさくの花も透明
芽明りと灯りとひとつ姉妹のような
附下の孫ら眠りに花か水鳥か混る
木の芽たち黒猫もの言って老いる
まんじゅしゃげ亡母(はは)に身近な時間の赤の
紅葉山朝日は孫の獅子頭
黒猫と松毬(まつかさ)羽をおとしてみる
山繭の薄緑の時間なのだから
夏星よ黒猫百歳の耳立て
むかしむかしがありぬ令法(りょうぶ)の花盛り
蒿雀(あおじ)を追ってみよ友よ失いしもの
魚みている静かな黒猫と草の実
土佐は不思議天上に豆の花溜める
照葉樹林帯に青貝を煮る囗
山襞にあり巡礼の鈴怖し
走って分れる茜夕空姉妹と思う
旅近し葱の匂いの冬月と思う
臣木ユーカリ旅のねむりに白葉騷
梨花巨木あひるといて泥の老婆よ
木綿花(もーめんほわ)の花夕焼の五臓なのか
水牛と少女水牛と青年の広漠
疲れ寝すこし滴江の春の水になる
菜の花大陸曳船に裸火と男
黄濁は日常林檎赤き小粒
ジャスミン茶口中にあり私は休む
桐の花仏身に呼びかけるかな
うっぎ咲く黒猫うっぎの夢の中
帰郷(きごう)とはりょうぶの花の白房にあり
 犬チャーの死
犬死にゆきひぐらしの帽みなかぶる


2015年11月2日

兜太の語る俳人たち 『小林一茶』 

 これがまあ 終の棲家か 雪五尺


 一茶最晩年(1827)の夏、北国街道柏原宿一帯が大火に見舞われ、母屋を焼失。その年の11月19日、焼け残ったこの土蔵で妻に看取られながら息を引き取りました。 享年65才。翌年に遺腹の次女ヤタが誕生しています。
金子先生は一茶にのめり込み生き方に共感しました。
一茶論です。

2015年11月1日

金子兜太句碑  埼玉県長瀞町


写真は、長生館にゆかりのある埼玉県を代表する俳人、

「金子兜太先生」の句碑です。

猪(しし)が来て空気を食べる春の峠      兜太

長生館の中庭にございます♪
http://www.jalan.net/yad329295/blog/entry0002851625.html


長瀞町野上下郷2868  洞昌院
関東36不動霊場のひとつ、秋の七草寺としても知られる。ちょっとした高台にあり、秩父産の山萩のほか複数の品種の萩を見ることができます。 紅白のかわいらしい花がところ狭しと咲いています。



2015年10月30日

兜太の語る俳人たち 『芭蕉』 

 (奥の細道・千住旅立ち:元禄2年3月27日)

 栗山理一先生の『俳諧史』は今でも私にとってはバイブル的な本でございます。あのなかで先生は、芭蕉の基本の考え方を「物の微と情の誠」というタイトルで書いています。

ものの微妙なところ、デリケートなところ、それに情の誠が触れ合う。ものの微とこころの真実が触れ合う。この時点がいちばん大事だと書いているのです。これが表現論の基本である。先生はそんなことは言ってませんが、私はそう受け取った。つまり、これが実現できればいい俳句ができる。そういうふうに私は受け取っています。

 そうしたら、ついこの間も、こういうところでデタラメを言ってもまずいと思ったから、少し調べてみたのですが、芭蕉が最後に「軽み」に来て、「軽み」で考えたことがものの微と情の誡、ものと心のバランスというふうに私は自分なりに訳しているんだが、ものと心のバランスということを芭蕉は考えていた。

それがうまく行ったときに「軽み」が実現する基本ができる。それをやるためには初心に帰らなければいけない。三尺の童子に作らせたほうがいいとか、あれもそれですね。あるいはものの見えたる光が消えないうちにつかまえろと警視庁の役人みたいなことを言ったのも(笑)、そこなんですね。

ものと心のバランスの瞬間をつかまえろ、それが第一だ。物の微と情の誠が触れ合った瞬間をつかまうろ、それが第一だ。ものの微と情の美が触れ合った瞬間、それをつかまえろと言っておる。

 今の学者の方も「軽み」について大体その考え方をお持ちなのではないかと思うのです。しかし、表現論ということを考えたとき、ものの微と情の誠の触れ合い、それを捉えていくことが非常に大事だということを私はしみじみ思います。

2015年10月29日

兜太の語る俳人たち 『種田山頭火と尾崎放哉』 

山頭火
  山頭火の放浪は、すでに早大在学中にはじまっている。小川未明と併称されたこの才能は、いつも泥酔のなかにあった。そして、帰郷後は、しだいに行乞のくらしにはいり、一生の大半を放浪のうちにすごしたが、その間、荻原井泉水に師事して自由律の俳句を作りつづけた。短唱にすぐれたものがある点、ほぼ同じ時期、漂泊のうちに死んだ尾崎放哉と
似ている。漂泊者の詩は短いものか。
 
 山頭火の放浪を、幼年期から青年期にかけての挫折経験(父の女狂い、母の自殺、家の没落)から理解することは容易いが、それが決定因であったかどうかはわからない。本性顕現への、ちょっとした契機にすぎなかったかも知れない。
放哉

2015年10月28日

兜太の語る俳人たち 『蛇笏・龍太』

ホトトギス主観派と蛇笏・龍太

 その後も、何度も龍太を中心に語られるという時代が続きました。
ちょうど、高度成長期の始まりと東京オリンピックがあったあのころ、
そして今でも、ずっと龍太時代が続いているように思うんです。
飯田隆太

飯田龍太という俳人は、相当にしぶとくて根強い作者ですな。しかも、いい後継者がいるということは、めったにない話ですね。

「ホトトギス」という雑誌が、大正の初めに出ましたね。高浜虚子が有季定型をスローガンに掲げ、今、稲畑汀子さんが三代目です。「ホトトギス」を愛している方が全国にたくさんおられます。

2015年10月27日

兜太の語る俳人たち 『原子公平』

「俳句研究」平成2年3月号口絵より

「寒雷」の同期生     原子公平 (1919~2004)

 敗戦のあとトラック島(現チューク)から還ったときも、そこへ出発したときも、小生は、当時小石川の原町に老母と二人でアパート暮らしをしていた原子公平の部屋にいた。そこから出発し、そこに帰ってきたと言ってよいほど、小生にとって原子は頼りになる同年の友人だったのだが、その原子が先ず小生に見せたのが、
 
 戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ

だった。アパートをでると直ぐ爆撃で、死木となったこの欅の大樹があり、その向こうは一面の焼野原たった。

 健康すぎると思いつつ、いつのまにかこの明るさに引かれていたことは間違いない。小生は原子の代表句の一つにしてきたが、少し世代の後の人の評判はよくない。それも分かるのだが、しかしいまも小生はこの句を好んでいる。

 この健康で楽天的な一面があって、「良く酔えば花の夕べは死すとも可」のような句もつくる。「俳句と社会性」で山本健吉とやり合い、戦後俳句不毛説の飴山賓と論争もした。

 彼が死んで骨となったとき、その骨の白く逞しいのにおどろいて、小生は思わず次の句を含む五句をつくったことを忘れない。

「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ  兜太

   
 (注)同期生とは同年齢で同じ年に「寒雷」に入会した者。

2015年10月26日

兜太句を味わう「霧に白鳥白鳥に霧というべきか」

http://matujii.exblog.jp/17104751

霧に白鳥白鳥に霧というべきか        金子兜太

 ことしの三月から七月末までで、体重を六キロ減量することができた。以来いままで変化がないので喜んでいる。

 減量した理由は、糖尿の兆候があるから太りすぎを解消しなさい、と医師からいわれたのがきっかけだが、自分でも気にしはじめていたときだったので、さっそく実行に着手した。なによりも、同居している息子の嫁さんの食事管理がありかたかった。加えて、細君が横でにらんでいて、チェックする。

 運動は、俳句のことであちこちに出歩き、しゃべることが多いので、それだけで十分とはおもっていたが、さらに意図して、おしゃべりも立つたままでやるようにしたり、目的のところまで歩くようにしたりした。駅で列車を待つあいだもホームの上を歩く。なにをはじめたか、とけげんな顔で見ていた人も、しばらくするとニコニコする。   
         
 機会をみては歩く、ということに、毎日の散歩と同じ効果があると話したところ、俳人の川崎展宏いわく、「ぼくは歩くと手が重いので散歩はしないのだが、それはいいや。まねをしよう」――歩くと手が重いとはおそれいったことで、なんのことやら分からない。いや分かる気もする。

 朝の目ざめぎわの夢に、白鳥と霧のとけ合った幻想風な美しい映像を見ていた。ずいぶん前にこの句ができて、その後もときどき夢に見るのだが、こんなときは体調がよいのである。

                          (老いを楽しむ俳句人生)

2015年10月1日

「中山道物語」金子兜太 


中山道物語 金子兜太 吉野ろまん文庫1981刊
目次
一 肩にとまって中山道
二 旅のはじめの加賀屋敷
三 一里塚。そして、榎と玉虫と・・・
四 むさし野を行く中山道
五 やってきました熊谷宿
六 たえさんの手毬唄
七 桑畑のなかの家
八 定助さん、倉さんの市場の話
九 お蚕さんと無宿者
十 国定忠治の息子
十一 上州路の町と山と
十二 碓氷を越えて
十三 東餅屋のたみさん
十四 天狗党通過
十五 和宮のお行列
十六 春――‐
帯より
 東海道が「表街道」であるとすれば、中山道はいわば「裏街道」で
あった。文字通り山の中をぬうようにして走っているこの街道ぱ地
の利に恵まれず、沿道の村々はけっして豊かではなかった。――
江戸から熊谷、碓氷、追分を経て近江草津に至る道中に出没する、
ぶらり旅を楽しむ俳人・小林一茶、無宿者の国定忠治を父に持っ千乗
時あたかも、拾れ動く江戸 後期。倒幕の血気にはやる天狗党の
一群が、皇女和宮降嫁の行列が 中山道を通過していく。ひっそり
と生きる宿場の人々にも。容赦ない時代の嵐が吹きつける・・・

2015年9月20日

加藤楸邨の語る金子兜太 (金子兜太・安西篤著)


加藤楸邨の語る金子兜太 (金子兜太・安西篤著)

 兜太は、一見豪放磊落な態度の内側に、温かく繊細な感情をたっぷりと湛えていた。それは、一度会った人の心に強い印象を与えずにはおかないものである。

よく兜太の作・論にはついてゆけないという大でも、その人間的魅力には抗し難いという大は多い。兜太とかんかんがくがくの議論をした後、囗もききたくないほどの不快感を持続できる大は少ない。


晴朗で男らしい気っ風と、滲み入るような愛嬌に気持ちを開かされてしまうからだ。これは、片き囗の兜太のタソな論理を、広く浸透させる上でも有力な武器となったはずである。しかもその論理は、決して弱者に向かうものではなく、自らの内面にある敵に向かう。

 彼は何かに挑みかかってゐるときは、決して対者を罵倒してゐるだけではないやうである。
 自分の内側に自分の敵をはっきりと感じとり、それを圧服するために、始めは冷静に、論理的に、やがて心裡の敵を強力に意識するにつれて、気息を加えて一気に圧倒し去ろうとする。だ から、彼は決して弱い者を叩かうとはしない。彼が叩かうとするのは、それに対してゐると、心裡の敵を意識せざるを得なくなるときであるらしい。

金子兜太といふ男が珍しい存在だと思ふのは、さういふ知性とか、論理性の卓抜してゐる正にその裏側に極めて感性的な、煮えたぎった溶鉱でも見るやうな原始的な力の存在が感ぜられることだ。これは多かれ少なかれ誰にでもあることにちがひないが、金子兜太といふ男には、それが極端に近いまでに内包され、しかも殆ど見分けられないくらゐ緊密に重層的に存在してゐるのである。

 だから、非凡な社会や時代に対する新しい感覚に驚かされると同時に、極めて律義な、一徹な、古風な義理人情から出たのではないかととまどひを誘ひだすやうなところがとびだしてくる。これは彼の教養と、その底に培はれて来た郷土的なものとが微妙に浸透しあって、金子兜太といふ男を形成してきてゐるためであろう。

楸邨は兜太の文章について次のように述べている。

 金子兜太の文章をよんでゐると、ところどころに妙な継目が見えてくる。しかし、その点にいたると逆にそこにかなり強引な、しかし白熱した気息が加はって、どうしてもひきこまれてしまふ。(中略)その継目からほとばしる原初的気息の力はすばらしい。

(「俳句」昭和四十三年十月号〈金子兜太といふ男〉加藤楸邨。)

昭和26年福島県土湯温泉で加藤楸邨と

兜太は昭和16年に楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。
先生によると、楸邨は弟子たちを自分好みにせず自由にやらしたそうです。
兜太の句が取られずかっかして楸邨に文章を書き突きつけると何も言わず
 「寒雷」に掲載したと言う。
度量の大きかった加藤楸邨の寒雷からは多くの俳人が出ました。

青柳志解樹(「山暦」) 石寒太(「炎環」) 石田勝彦(「泉」)今井聖(「街」) 岡井省二(「槐」) 金子兜太(「海程」)川崎展宏(「貂」) 岸田稚魚(「琅玕」) 小西甚一  小檜山繁子(「槌」)齊藤美規(「麓」) 澤木欣一(「風」) 鈴木太郎(「雲取」) 田川飛旅子(「陸」)照井翠  原子公平 (「風涛」) 平井照敏(「槇」) 藤村多加夫古沢太穂(「道標」)森澄雄(「杉」) 矢島渚男(「梟」) 和知喜八(「響焔」)



「語る兜太」によると  (Amazonにあります)

加藤楸邨(1905-93)と中村草田男(1901-83)
子規以降、楸邨と草田男の右に出る人はいない。楸邨の「真実感合」
は本物で、身心を打ち込んで創る。人間の生の声を吐き出す。草田男は
俳句という文芸形式を、とくに季語を多とし、西欧文学の教養を活かして
創る。その俳句は多彩柔軟、実験を辞さない。私の好きなのは草田男俳句
だが、学ぶべき師は楸邨。お二人の正月句をにこやかに賞味したい。

楸 邨  「初日粛然今も男根りうりうか」
草田男 「何か走り何か飛ぶとも初日豊か」
「金子兜太」安西篤 (読みたい人は竹丸が取り次ぎます)

兜太が楸邨の主宰する寒雷に入ったのは昭和十六年二十二歳の時であったが、
一方で草田男の指導する「成層圏」句会にも顔を出していたから、楸邨、
草田男の両方にまたがって師事していたともいえる。
しかし『わが戦後俳句史』によれば、兜太は自らの戦後俳句の出発に当たり、
「人間としての楸邨」を師とし、「俳句の目標を草田男」に置こうと決めたと
述べている。
楸邨は第三句集『穂高』の自序で次のように言う。

人間を生かし、自然を生かすことは、自然自身の生き方で生かし、人間自身の
あり方で生かさなくてはならぬ、小主観で左右しがたい厳たるものの前に
立たねばならぬ。それが最も正しい人間の俳句である。

兜太はこのような楸邨の「悪くいえば自己中心的、よくいえば自分に対して


厳しい目を向ける生き方、そういう積極性」にひきつけられていた。

2015年9月19日

兜太句を味わう「暗闇の下山くちびるをぶあつくし」

晴れ晴れと笑う金子兜太。写真は蛭田有一氏が撮りました。


暗闇の下山くちびるをぶあつくし     金子兜太   『少年』            

(池田澄子 兜太100句を詠むから)

金子  これは好きな句だ。

池田  これは、昔はよく分からなかったんです。「くちびるをぶ厚くし」の意味が。ごろごろした坂道をドンドンドンドッつて降りてくると、こう唇が膨らんでくるような気分がするのではないかと、ある時気が付きました。そういう感じでいいのでしょうか。

金子  それでいいです。そういう肉体の状態ですね。

池田  この句は一句として面白いと思っていますが、どういうときに作られたかを知ると、一層よくなる句です。

金子  福島支店から神戸へ転勤になった、その福島支店最後の時の句です。

池田  福島支店最後の、送別会をしてもらったときの句、一人で山を走って降りたという。

金子  送別会を安達太良でやった。一人ですけどね、山をぐんぐんと鬱屈し気負った心情で下っていっか。その時の心情の高まりです。

池田  ああ、心情、思いを具体で見せた。映像化した。

金子  なにか鬱屈した、挑む思い、なにかに。次の生活に挑む気持ちで山を降りてきた。一人で、たったったっと。貴女の言ったその状態。

池田  平らな道じゃ、そうは感じませんね。たったったっと下るので体の重みがどんつどんつどんつて、唇がだんだん分厚くなっちゃうという感じ。なにくそって感じ。

金子  ついこの間ね、北上の日本現代詩歌文学館から、「啄木に献ずる詩」というタイトルで開館二十周年記念展をするから、啄木への思いを自分の詩なら詩、短歌なら短歌にして送ってよこせと言ってきたのでね、この句を色紙に書いて送りました。『一握の砂』刊行から百年だそうです。啄木に思いを馳せてね、書きました。ちょうど東京時代の彼の最後、あの鬱屈した挑むような思いというのは私は分かるわけだ。この気持とぴたりです。

池田  追われるような気分。それに負けてたまるかっていう気分、俺はこのままでは終らないぞという気持でしょうか。

金子  何かまた開いてやろうという。挑む持ち。

池田  それで神。神戸にいらして、本当に開けよしたよねえ。

金子  だからその、偶然ねえ、関西前衛の中に飛び込んじやった。あれけ俺にとっちや運がよかったんですねえ。

池田  タイミングというか。待たれていたような、いいタイミング。

金子  そうです。相当いいタイミング。私はねえ、運がいい男だと思ってるんですよ。戦争中に死ななかったしなあ。このタイミングも非堂に運がよかったですねえ。あの関西前衛熱気がなかったら、俺はやめてたかもしれない。違った道になってたかもしれない。

池田  そこで本当に金子兜太が出来上がったということでしょう?気持ちの上でも。

金子  その通りです。その通りです。

池田  その中でこんなかわいいの句があるんですね。

蛭 田 有 一 オフィシャルサイト
http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/10-1gall.html

2015年9月14日

谷佳紀の「東国抄鑑賞」


東国抄は海程に掲載されている、金子兜太の俳句作品です      谷佳紀の東国抄鑑賞    
 長生きせよと庭のあちこち初明り  兜太(俳句2005年1月)

 「庭のあちこち」という景の把握の確かさ。狭くはないが庭園というほどでもなく、すっと見渡せるさ、常緑樹も多いそれなりに広い庭であることが一目瞭然に読み取れる。裸木の影の濃さ、葉陰を洩れる初明りの眩しさ。健康に自信があり、長生きに自信があり、成すべきことをさらに進めるのみという決意が伝わってくる表現だ。

野に住みて木々と眠りて三日過ぐ  兜太(海程391号)
 健康そのもの。悠々たる気分を、悠々と書いている。俳人は「棲む」と書きたがるが、これではしつこく隠者の趣になる。さらりと「住む」と書き、生活の忙しさを離れた正月の気分、日常の軽やかさが感じられるようになった。

 森の奥鶴ほどの影拉致される  兜太(海程391号)
 森で実際に感覚したというよりもイメージの感が強い。それと言うのも、森というものが私たちの生活になじみが薄いためだろう。山なら民話でいつも出てくる世界であり、林ならやはり生
活の場で、共に村と一体化された身近な存在である。ところが森で浮かび上がってくる民話と言えば赤頭巾や眠れる森の美女、白雪姫のように西洋の物ばかりで、日本の森には生活の匂いがない。奥深い山の森、またぎや修験の世界、神の領域なのではないだろうか。だからこそ「拉致」という語に危険な匂いがなく、神秘な匂いがするのだ。光の一瞬の変化をとらえる感覚の鋭さと感性の透明感を感じるのである。

 長野は雪関東平野夜泣きの子  兜太(海程409号)
 夜泣きの子の傍にいて長野に思いを馳せているのではなく、長野にいて関東平野に思いを馳せているのだ。そうでなければ「長野」の具体感が失われ、表現の奥行きもなくなってしまう。
長野へ旅をする。深夜眼が覚めると雪であった。暗がりに降る雪の静けさの中にいて関東平野の

広漠さに思いが至る。ここまでは普通だ。不思議なのは「夜泣きの子」である。どのようにして夜泣きの子を発見したのだろう。雪から関東平野をイメージし、さらに夜泣きの子へイメージを膨らましたとも読み取れるが、それではイメージの連想に寄りかかりすぎているように思える

。そうではない実体感が夜泣きの子にはある。降る雪に和するように聞こえてくるかすかな夜泣きを実際に聞き、関東平野に思いが至ったと推測するのだがどうなのだろう。いずれにしろ「夜泣きの子」によって関東平野がイメージではなく生活の場として具体化された。またそれは長野

であることの必然性をも生み出した。関東平野に隣接した地であることによる肌の感じ、表現の具体性は、地名が九州や北海道であった場合、肌の感じが失われ、イメージの抽象性が強まることで明らかである。

2015年9月13日

兜太句を味わう「海流ついに見えねど海流と暮らす」

海流ついに見えねど海流と暮らす  金子兜太 (老いを楽しむ俳句人生から)

 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅半ば、紅花の咲く尾花沢に到着し、立石寺、大石田を経て新庄に二泊、そこから本合海にでて、最上川を下る舟に乗った。
 「本合海エコロジー」(会長木村正)の人たちは、この地の自然と歴史を愛してまず芭蕉の句碑「五月雨をあつめて早し最上川」を建て、この秋には、斎藤茂吉の歌碑「最上川いまだ濁りてながれたり本合海に舟帆をあげつ」を建立した。そして同時に、名勝矢向楯の前、最上川渦巻く川岸に、「郭公の声降りやまぬ地蔵渦」(兜太)、「ひぐらしの網かぶりたり矢向楯」(皆子)の二句を刻んだ碑を建てた。
わたしたち夫婦の句がお役に立ったしだいで、望外の光栄というほかはない。

 除幕式には俳句仲間とともに参上した。川岸での祝宴には、有機栽培米の味噌のにぎり飯、くず米と塩餡の餅、最上川の川蟹、鮎、ナスの丸漬が並んだ。まさにこの土地の昔からの暮しのもの。

帰り、新庄駅で待つあいだ、なんとなく大った構内の映画館で、浅田次郎原作『鉄道員』に出会う。シナリオは、1999年に他界した岩間芳樹が書いたものでぜひ見たいと思っていたのである。岩間は若いころからのなつかしい友。この偶然にあきれる。
 海流の句は中秋の下北半島尻屋崎での作。海流は遠く沖合いにあって目には見えないが、しかし太く生き生きと流れている。人の縁のつながりも海流のごとし。

矢向楯の句碑

淺田次郎   1951年(昭和26年)生まれ
陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い。

淺田氏のエッセーを読むのが好きで見かけると買う。
彼は一日のうち半日は読書に費やす。資料よりもお楽しみのようです。
アパレル会社を経営していたのでお洒落でスーツからパンツまでブランド
好き、買ったばかりのブランドパンツにお漏らしをしたなんて書いてます。
面白くて笑ってしまうが、読者サービスのしすぎじゃないかと・・・。
氏は神田の老舗カメラ屋の息子として生まれたが家が倒産、苦労の割に
朗らかモードの人です。是非エッセーをおすすめします。


金子兜太先生を、そして海程会員の応援ブログです。 
管理人竹丸メール endo.hideko@gmail.com

兜太句を味わう「三日月がめそめそといる米の飯」



三日月がめそめそといる米の飯   金子兜太  (老いを楽しむ俳句人生から)

 少年期(昭和初期)、三食に一度はかならず麺類だった、というと、いまの時代信用しない人がいるかもしれない。しかし事実であって、わたしの麪類好きはそのためだといってもよい。田のある平野部ではそんなことはなかったはずだが、わたしの育った山国秩父では田が少ないから、どうしても、うどんやそばで補うしかなく、残る二食も麦飯だった。米麦の割合はさまざまたが、開業医のわが家ではどうやら米のほうが多かった、というてぃどである。

 秩父音頭(むかしの盆おどり唄)の歌詞に、「いとし女房と麦茶漬」といった言い草があるが、農家の昼どきのこと。冷えた麦飯に、出がらしの茶をかけてかき込む。おかずも漬物くらいだからたくさん食べる。夏などは裸で一とときの昼寝をむさぼるのだが、仰向けの体の胃ぶくろのところだけがぷっくりふくれていたものだった。

 そんなしだいで、東京で勤め人をしている親戚などを訪ねたとき、米の飯が当りまえのように食卓に並べられると、ひどく贅沢な感じをもったものである。こんな贅沢をして、無理をしているなあ、とおもい、とても気のどくな気持になったことを覚えている。

 そうした少年期の記憶のせいか、飯というものに対する思い入れがいつもあって、旅先などではことに、しみじみと米の飯をのぞき込むことがある。そして、妙に哀しい。

兜太句を味わう「二階に漱石一階に子規秋の蜂」

 
2004年1月刊 海竜社1500E
第1章 俳句と遊ぶ<春夏秋冬・暮しの一句>
第2章 人間にこだわる<人間のおもしろさをよむ>
第3章 いのちをいたわる<生きものをうたう句>
第4章  自然をじかに感じる<日本の風土・再発見の旅>

二階に漱石一階に子規秋の蜂         金子兜太    (老いを楽しむ俳句人生から)

 四国は松山のか愚陀仏庵(ぐだぶつあん)での句だが、この小さな木造二階建ては、「近・現代俳句」の元祖・正岡子規にとっては忘れることのできない家なのである。

 明治35(1902)年、子規は35歳でこの世を去った。2002年が百年忌あたり、子規の評価はさらに高まった。さまざまな記念行事が企画されたが、それに先駆けて、2000年9月初めには、正岡子規国際俳句賞の第一回大賞が、フランスの詩人イヴ・ボンヌフォア氏に贈られた。氏の記念講演「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」は、一流詩人にふさわしい格調高い内容だった。
  
 庵とはいうが、この家は漱石の下宿だった、伊予尋常中学校に奉職した漱石は、明治28(1985)年から翌年まで、約十か月ここにいたのだが、その途中に子規が同居して晩夏から中秋までの二か月を過ごしたのである。
 子規は、日清戦争に従軍し、大連から帰国する船上で、フカを見ていて喀血した。東京に帰るまでの療養のためだったが、地元の教師たちの句会、松風会を指導し、漱石もそれに参加して、本格的に俳句をつくるようになる。漱石にとっては俳句そして俳諧への開眼の機会だった。二人とも28歳。
秋の庭をうろついて句づくりしていると、日当りのよいところに蜂がいた。秋ですこし大人びた蜂に、わたしは二人を思い合わせていた。

子規と漱石が同居していた愚陀仏庵は昭和20年の松山空襲で焼失し、跡地には石碑が建っています。現在、愚陀仏庵は松山藩主久松家の別邸萬翠荘の敷地裏に復元されています。


2015年9月10日

金子兜太句碑  埼玉県皆野町

埼玉県皆野町に金子兜太句碑が町の有志にによって建立されています。町では句碑巡りが出来ますので観光にお出かけのさいは是非ご覧ください。

お勧めコースです
皆野駅 → 円福寺 → 皆野椋神社 → 円明寺 → 萬福寺 → 皆野駅



よく眠る夢の枯野が青むまで  金子兜太 (句集『東国抄』)

この句、出来たあと少しして、芭蕉最後の句、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の本歌取りということになるのかな、と微笑したのだが、つくった前後には芭蕉の句はなかった。
しかし気付いて、八十代にちかい自分の夢と、五十二歳で没した芭蕉の求めるものへのきびしい夢の違いに恐れ入った次第である。それはともかく芭蕉は芭蕉、兜太は兜太、ゆっくり生きてゆこうの心意。  (自選自解99句より) 

句碑場所・新井武平商店みそ工場 
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野573-2 



夏の山国母いてわれを与太と言う 兜太  (句集『皆之』)

母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちでトウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。
 (自選自解99句より)   

円明寺(明星保育園) 埼玉県秩父郡皆野町皆野 1331-1 


日の夕べ天空を去る一狐かな  金子兜太 (句集『狡童』)

秩父事件の中心地帯である西谷は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。
いやそう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。 (自選自解99句より)

皆野町営バス 立沢バス停(本当に山の中という場所です)


山峡に沢蟹の華微かなり   金子兜太 (句集『早春展墓』)

郷里の山国秩父に、明治十七年(一八八四)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投人されるほどの大事件だった。その中心は西谷と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。
しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。 (自選自解99句より)   

萬福寺  埼玉県秩父郡皆野町皆野 1807


曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太 (句集『少年』)

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いはない。 (自選自解99句より) 

札所34番 水潜寺
埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3522


僧といて柿の実と白鳥の話 金子兜太   (『旅次抄録』)

禅僧大光は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのがふつうで、あの生ぐさい昧が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。
しかしみょうに練れた昧があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。                (俳句人生より)

大黒天円福寺 埼玉県秩父郡皆野町皆野293






おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太 (句集『東国抄』)

椋神社  埼玉県皆野町皆野238
新井武平商店みそ工場の斜め前の神社です。

2014年4月20日、皆野町の椋神社に、金子先生の句碑が建立されました。石は紫雲石だそうです。俳人の黒田杏子さんがお見えになっていました。、記念祭事として獅子舞と秩父音頭の奉納が行われました。

金子先生の挨拶で、出征のさい、椋神社のお守りを母上が千人針に縫い込み、持たせてくれた。多くの死者がでたが守られ生きて帰ることが出来た。椋神社のご恩の感じている。
熊谷を拠点にし秩父は産土として通い、土への親しみからこの句が生まれた。
両神山は龍神山とも言われ、オオカミは龍神と言ったが絶えた。秩父を思うとき、オオカミが出てきてその時光を感じた。光の正体は蛍だ。それはトラック島での戦争体験から来ている。気持を鎮めていたら光の中に連山が見え空想が浮かびこの句になった。椋神社の右奥に句碑があります。


ぎらぎらの朝日子照らす自然かな    金子兜太

句碑は秩父長瀞町野上の總総寺にあります。
ここは金子家の菩提寺で夫人の皆子さんが眠っています。


裏口に線路の見える蚕飼かな  金子兜太
皆野町皆野 飯野家個人住宅

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