2021年11月9日

兜太自選自解99句・霧の村石を投らば父母散らん

 



霧の村石を投らば父母散らん   金子兜太


「霧の村」は、私の育った秩父盆地(埼玉県西部)の皆野町。山国秩父

は霧がふかい。高度成長期と言われている昭和三、四十年代のある日、

私か訪れたときの皆野も霧のなかだった。ホーンと石を投げたら、村も

老父母も飛び散ってしまうんだろうなあ、と、ふと思う。経済の高度成

長によって、都市は膨らみ、地方(農山村)は崩壊していった時期だ。

山村の共同体など一とたまりもない。老いた両親はそれに流されるまま

だ、と。                       (『蜿蜿』)

2021年10月12日

兜太自選自解99句・日の夕べ天空を去る一狐かな

 

皆野町に句碑があります


日の夕べ天空を去る一狐かな      兜太


秩父事件の中心地帯である西谷は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向

かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっ

ている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび

去ってゆくのが見えたのだ。いや、そう見えたのかもしれない。急な山

肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。

                            (『狡童』)

2021年10月11日

兜太自選自解99句・曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 

角川学芸出版 2012年






曼珠沙華どれも腹出し秩父の子     兜太

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧く
ように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しに
した子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会
った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と
言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものこ
ろの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思
ったことに間違いはない。          
                        (『少年』




2021年4月14日

金子兜太略年譜




金子兜太略年譜  

1.誕生から30歳

1919 大正8年9月23日
(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父
盆地皆野町の父の家。父・元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。
父は東亜同文書院校医として上海に在住。

上海むで父と



1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。

母と兜太

2020年9月16日

『金子兜太の句を味わう』   池田澄子

 管理人ブログ「竹丸通信」にもお寄り下さい



霧の村石を放(ほ)うらば父母散らん    兜太    『句集・蜿蜿』

  (霧→秋の季語です)

                            

 池田 「父母散らん」で「投うらば」ですから、この「らば」のあとは、

    だから石は投げない、ですよね。

 金子 はい。そのとおり。それぐらい、はかない存在になっちゃってると

    いうことだから。いたわりの句ですよね。

 池田 これは目を閉じて考えた、思い描いた世界でしょうか。

 子 ええ、ちょうど郷里の皆野の駅に降りた時に出来た句なんですけ

    ね。やっぱり私に映像が溜まっていたんでしょうねえ。ぽっと出た、

     まとまったんです。

 池田 ほっと出るんですか、これが。

 金子 そうなんですよ。それまで映像があったんですよ。両親も歳とって

    きたし。どんどんほれ、高度成長期で都市に人が出てるときでした

    から、田舎は駄目になってきてるでしよ。父母がかわいそうたとい

    うことと、集落そのものも石でもなげたらなくなっちまうだろうと。

    時代への思いと父母への思いとが重なってましたね。

 池田 私はこの「父母散らん」の「父母」が、作者自身の父母から始まっ

    ているとは思いますが、作者だけの父母、または妻の方も加えて四

    人だけが父母ではなくて、先祖代々というか、村じゅうの累代の父

    母が思われます。霧の村ですし、人間の形がはっきりしていなくて、

    もう霧の粒子みたいにね、累代の父母が、ぼーーっと立ち込めてい

    る。霧の粒子が無数の父母たちそのもの。そんなイメージが、私。

 金子 それはそれでいいんじゃないですか。それはこっちとしちゃあ望外

    の喜びです。そこまで読んでもらえれば。

 池田 二人、自分の父母だけじゃなくって。自分の父母だけだと石投げて

    も当たる率も低いし。(笑)もう霧の粒子が全部累代の父母である

    と読むと、本当に、石投げたらばーっと散っていってしまいそうな

    感じがします。

 金子 うんうん、それはもう池田流の読みでいいですよ。否定する理由は

    まったくないな。

2020年9月9日

金子兜太の出版資料 

2020.9.9「金子兜太の出版資料」更新しました。
今日は、重陽の節句で「高きに登る」という日でもあります。
金子先生は、「高きに登る」という季語がお好きだった。 管理人竹丸

金子兜太略年譜リンク 詳しい略歴はリンク先へ


金子兜太追悼特集
兜太 tohta  VO11 VO12  藤原書店 
 
2018.9刊 1800+税

【創刊の辞】
創刊のことば  黒田杏子(編集主幹)/筑紫磐井(編集長)
創刊に寄せて――編集顧問のことば  瀬戸内寂聴/ドナルド・キーン/
芳賀徹/藤原作弥

【兜太の句、兜太のことば】
辞 世 コメント=黒田杏子
「なぜ戦争はなくならないのか」

【兜太レクイエム】
追悼 十二句
有馬朗人/安西篤/稲畑汀子/宇多喜代子/大串章/後藤比奈夫/高野ムツオ/
鷹羽狩行/中村和弘/深見けん二/星野椿/宮坂静生
兜太哀悼  佐佐木幸綱
金子兜太さんを悼む  関悦史/長谷川櫂/宮坂静生/金子眞土/黒田杏子
兜太追悼歌仙 爆心地の巻  連衆=宮坂静生・黒田杏花(杏子)・長谷川櫂〈捌〉

〈特集〉一九一九 私が俳句
金子兜太氏 生インタビュー(1)
〈聞き手〉黒田杏子 井口時男 坂本宮尾 筑紫磐井 藤原良雄

【兜太と時代】
誰にも見えなかった近・現代俳句史――虚子の時代と兜太の時代 筑紫磐井
三本のマッチ――前衛・兜太  井口時男
〈コラム〉大花火  下重暁子
     日銀と金子兜太  藤原作弥
     兜太さんの背中  澤地久枝

【兜太と先人たち】
詞に寄せて――伊昔紅、そして兜太  橋本榮治
兜太と草田男――共感と反撥と  横澤放川
まつろはぬ民の血――楸邨・兜太の原郷  中嶋鬼谷
兜太と珊太郎――月光仮面のように  坂本宮尾
〈コラム〉火星と国王と野糞  高山れおな
     春を吐く兜太先生  夏井いつき
     金子兜太氏が訴えた危機  窪島誠一郎

【兜太と世界】
海外における金子兜太の俳句について  
アビゲール・フリードマン(中野利子訳)
世界を魅了する「俳諧自由」[兜太と一茶、「俳句弾圧不忘の碑」、
そして兜太の国際性……]  マブソン青眼
TOTAL――紛争と国境を越えて[アンネ・フランク・ハウス財団
『兜太三十六句十二カ国語訳プロジェクト』]  伊東 乾
“存在”ひとすじに――金子兜太の生涯  宮崎斗士




2019.3刊 1800+税

「私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を
捧げたいと思っています」
(金子兜太) ――昨年98歳で他界した俳人・金子兜太の「現役大往生」の
秘訣とは?
〈編集主幹〉黒田杏子 〈編集長〉筑紫磐井 〈名誉顧問〉金子兜太
〈編集委員〉 井口時男/坂本宮尾/橋本榮治/横澤放川/藤原良雄
〈編集顧問〉瀬戸内寂聴/ドナルド・キーン/芳賀徹/藤原作弥
〈執 筆〉 小泉武夫/夏井いつき/下重暁子/上野千鶴子/宮坂静生
/いとうせいこう/河邑厚徳/マブソン青眼/細谷亮太 ほか
兜太をめぐる人々(2)

句集『百年』金子兜太

金子兜太最後の九句(2018年1月26日〜2月5日)

   雪晴れに一切が沈黙す

    雪晴れのあそこかしこの友黙まる

 友窓口にあり春の女性の友ありき

 犬も猫も雪に沈めりわれらもまた

 さすらいに雪ふる二日入浴す

 さすらいに入浴の日あり誰が決めた

 さすらいに入浴ありと親しみぬ

 河より掛け声さすらいの終るその日

 陽の柔わら歩ききれない遠い家


句集『百年』金子兜太  朔出版

発行 2019年9月23日

編集 「海原」俳句会・句集『百年』刊行委員会



◆内容紹介

2018年2月に、惜しまれつつ他界した俳句界の巨星、金子兜太。

2019年9月に生誕100年を迎えるにあたり、最後の句集(第15句集)が

ついに刊行。2008年夏から絶筆句まで、最後の10年間の作品をほぼ

収載した渾身の736句。

素っ裸の人間・金子兜太が俳句となってここに居る!


◆『百年』15句抄

昭和通りの梅雨を戦中派が歩く

初富士と浅間(あさま)の間青し両神山(りょうがみ)

裸身の妻の局部まで画き戦死せり

津波のあとに老女生きてあり死なぬ

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

雲は秋運命という雲も混じるよ

白寿過ぎねば長寿にあらず初山河

(しな)の花かくも小さき寝息かな

干柿に頭ぶつけてわれは生く

死と言わず他界と言いて初霞

朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ

戦さあるな人喰い鮫の宴(うたげ)あるな

雪の夜を平和一途の妻抱きいし

秩父の猪よ星影と冬を眠れ

河より掛け声さすらいの終るその日






「海程」と金子兜太  海程編集長 武田伸一

  俳句あるふぁ」2018春号から転載させて頂きました。

海程終刊号 2018/7

 海程編集長 武田伸一

  「海程」は、昭和三十七年(一九六二)四月一日に金子兜

 太を中心とする隔月刊の同人誌として創刊された。表紙 は、

濃紺一色の上部に海程と大きく白く横に抜き、右下に 創刊号と

小さく白く抜いている。


  この号の巻頭で、金子兜太は「創刊のことば」として、

 「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛し

 ている。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好

 きだからだ、と答えるしかない。(略)ともかく肌身に合

 い、血を湧かせるからだといいたい。まず愛することを率

 直に肯定したい。(略)何よりも自由に、個性的に、この

 愛人をわれわれの一人一人が抱擁することだ。愛人はその

 うちの誰に本当のほほえみを送るか、それは各人の自由さ、

 個性度、そして情熱の深さによることだと思う。


(略)最高の愛し方は、。純粋に愛するということだ。愛人を 

 取り巻く、いわゆる俳壇政治なるものは、いつの世にも愚劣で

 あるが、いつまでも絶えることがない。われわれは、この

  政治や政略の外に愛人を置いてやりたい。俳壇政治を無視して、

純粋に愛してゆきたい、と願う」(以上、抜粋)と、俳句を愛人と

いう言葉に置き換え、述べている。これらのこと、「海程」創刊

から半世紀以上経たいまも古びていたいことに驚きを禁じ得ない。


また、この号で加藤楸邨は「僕はいつも人間が自分が生きたといふ

証明をするところに俳句が生き、俳句が生きるところにはじめて

結社なり雑誌なりが成り立つのだと考えてゐる。(略)兜太が兜太の

間に徹した句を詠み楸邨が楸邨の人間に徹した句を詠む

とき、始めてお互を尊敬しあふことができるのだ」とエー

ルを送っている。次号からも兜太より年配の村野四郎・岡

井隆・林原耒井・栗山理一・村上一郎など、ジャンルを越

えての助言が続き、また同年配の原子公平・沢木欣一、森


澄雄・石原八束・赤城さかえといったところと対談を行い、

独善に傾かないように心くばりをしている。これらは兜太

の交友の広さを示すとともに、好評の連載でもあった。

2020年9月8日

俳句四季 2017年(平成29年) 

 俳句四季11月号・12号  大特集、100人が読む金子兜太 前編 後編




▼編集後記に「大特集・100人が読む金子兜太」は二号連続企画。

今月号で前編、次号で後編として、歌人の岡井隆さんを含め、延ベ

100人を超える皆さんに、一番好きな金子兜太さんの句を鑑賞して

いただいた。

一番多く取り上げられる句は「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」だろ

うと予想していたら外れ、「おおかみに螢が一つ付いていた」。

今月号では六人の方が取り上げた。ちなみに私の最も好きな句は

「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」。井上弘美さんの鑑賞の

最後の一文に深く頷いた。 (佐)


▼二号連続の大特集「100人が読む金子兜太」のゲラを読みながら

感じたのは、金子兜太という俳人の茫洋として捉えどころのない大き

さであった。取り上げていただいた句は誰もが知る有名句から、その

筆者しか知り得ない一句まで色々だが、特集を読み通してみても金子

兜太とはこういう存在である、と定義できない、そんな底知れない

大きさを改めて感じた。   (佐)


管理人・竹丸(海程同人)

金子兜太アーカイブの資料として掲載させて頂きました。    

兜太は 2018年(平成30年)2月20日)に死去、俳句四季のこの1年前の

企画で歌人・俳人に鑑賞頂き先生も嬉しくご覧せなったでしょう。

皆様、ありがとうございます。

一番好評の「おおかみに螢が一つ付いていた」 の鑑賞をアップさせて頂きます。


                     浅沼 璞        

 おおかみに螢が一つ付いていた    兜太

 今年度の『連句年鑑』にはベテラン連句人による鼎談「金子兜太俳

句の連句的鑑賞」が掲載されている。各作品は三行書きにされ、その

付けと転じが語られていく。結論から言えばネガからポジ、暗から明

への転じが兜太的俳諧性のようだ。掲出句にも、絶滅種の狼から生存

する蛍への転じがみられる。そういえば兜太は自著『荒凡夫 一茶』

で「犬どもが螢まぶれに寝たりけり」の一茶発句を引き、俳諧的アニ

ミズムへの志向をみせていた。けれど同著では「原始信仰をあらわす

アニミズム」を「生きもの感覚」と換言し、「現代の概念」として受

け取りたいとも述べている。掲出句にはそんな作者の屈折した思いが

潜在していはしないか。俳諧的アニミズムとは別に、現代俳句として

の鑑賞もまた一方でなされることを、この句は望んでいるように思う。

 

                      大串 章

 おおかみに螢が一つ付いていた   兜太

 兜太には重厚な佳句が多いが、この句は簡潔で奥行がある。アニミ

ズムの単純化の極地と言ってよい。「狼」と「螢」の合一に兜太の産

土・秩父が想われ、「土がたわれは」の兜太が顕れる。

 掲句は『東国抄』所収の句だか、同句集には次の句もある。「小鳥

来て巨岩に一粒のことば」この二句は見事にひびき合う。「おおか

み」は「巨岩」であり「螢」は「小鳥」なのだ。蛍の火は「一粒のこ

とば」に他ならない。

 『東国抄』のあとがきに「わたしはまだ過程にある。母は二十一世

紀を百歳でむかえた」とある。金子兜太が長生きをして好きな本能と

遊ぶことを願う



2020年9月2日

句集『日向灘』疋田恵美子



著者略歴

1940年 高知県生まれ

2000年 登山始める

2002年 俳句始める 同年「海程」入会

2006年 宮崎俳句研究会「流域」入会

2009年「海程」同人

2010年「青銅通信」入会

2017年「錆」入会

2018年「海程」終刊

現在 「海原」同人

現代俳句協会会員・九州俳句作家協会会員・宮崎県俳句協会会員


 金子兜太

 煮凝りの亡母のクローンと思わずや    疋田恵美子

 「煮凝り」を「亡母のクローン」と見る、あえてそう見てみせる、 

   作者の大胆さがおもしろい。しかも大胆無頼を 好しとするばかりでなく、

 亡母への思いの深さ熱さが、それこそ逆説的に伝わるところが嬉しいのだ。

 煮凝りに箸をつけながら 亡母を恋ういま。


 著者自選句

 目玉むきだし踊るマオリや秋の星座

 月載せて谷に群れなす孕み鹿

 汗とばしり柤母山傾山のきりぎし

 初日の出吾は達磨のブロッケン

 道祖神だんだん似てくる母はさくら

 磔刑のごと夕焼けに一本松

 阿蘇五岳虹の片足ズームして

 月光に母を泛べる日向灘

 累卵のしずけさ初秋のフクシマ

 夫の間に夫の手植えの椿盛る

 ジュゴン今冬の辺野古をさまよえり

 師の生家イロハモミジの種賜う

2020年8月17日

金子兜太さん一周忌会見2019/02/22

2019年 2月20日は俳人の金子兜太さんの一周忌。晩年の金子さんを追った

ドキュメンタリー映画「天地悠々 兜太・俳句の一本道」の河邑厚徳監督と、

俳人の黒田杏子さん、作家の下重暁子さん、嵐山光三郎さんが、金子さんへの

思いを語り合った。

(1周忌の講演会。アップさせて頂きました。 遠藤秀子)


 https://www.youtube.com/watch?v=jO5iILyV3nQ

YouTubeでみたほうが画面が大きいのでリンクでご覧下さい。


 

2020年8月16日

金子兜太俳句の歩みを辿る

 金子兜太俳句の歩みを辿る安西 篤 (俳誌・海原代表)

著書「金子兜太」の要約 金子兜太資料へリンク

  金子兜太は、九十六歳の現在もなお現役並みの俳句活動

  を続けており、今や俳壇のみならず、文化交流のメディア

  としての役割を果たしうる時代の牽引者の位置にあると

  言っていい。兜太自身、自らのアイデンティティは俳句で

  あると言うように、その生涯は俳句の歩みとともにあった。

  その歩みは五つの時期に分けることが出来る。


  第一期は、俳句開眼(昭和十二年)より終戦後海軍軍人

  としてトラック島から帰還するまで(昭和二十一年)の時

  期。兜太十八歳より二十七歳までの期間に当たる。この時

  期の特色は、原郷としての秩父の風土と、戦争体験の中に

  花開いた抒情の原質であった。作品の上では、第一句集『少

  年』(昭和三〇)の前半の時代である。


  白梅や老子無心の旅に住む(昭二二)

  水戸高校時代の処女作であるが、すでにして老成の感が

  ある。これには幼い頃からの俳句環境が下地にあった。父

  伊昔紅は馬酔木の同人で、秩父句会の指導者であったから、

  句会の雰囲気には早くから接していたことが大きい。

  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 (昭一七)


     東大時代、秩父に帰省した時の作。秩父の山野を駆けず

 り回る悪童の姿に、自分自身を映し出す。兜太の原郷感覚

 の典型として代表句の一つに数えられている。

  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ(昭一九)


  トラック島、米軍の空爆で黒焦げになった海軍基地の風

   景。野積みになった魚雷の丸胴に蜥蜴が這い廻っていたと

   いう、戦場の中の日常。


 水脈の果炎天の墓碑を置きて去る(昭和二二

  一年半の捕虜生活の後、最後の復員船で帰国。船の水脈

 の果てに、戦友たちの墓碑を残して別れる。万感の思い。

  こうして兜太は、戦時から終戦にかけての極限状況の中

 で、死者への思いと生への執着を重ねて、人間性の高ぶり

 を充填してゆく。この戦争体験は、原体験として焼き付け

 られ、原郷意識とともに、兜太の叙情体質を開花させていっ

 た。「曼珠沙華」の句とともに「水脈の果て」の句は、兜太

 の原風景を代表する句といえよう。


 死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む(昭和二

 復員後の兜太は、非業の死者たちに促されて生き残った

 生を生きるからには、死後自分の形骸を残そうとするよう

 な未練がましい生き方はすまいと決意する。これが日銀復

 職後の組合活動への挺身につながることになる。戦後俳句

 の志向性を示す一句。

2020年8月13日

兜太をめぐる人々 2




2019 藤原書店 1800E

兜太をめぐる人々 2

(聞き手 黒田杏子 横澤放川 藤原良雄) 掲載させて頂きました。

-言葉というのは、みんな何らかの、作家は作家なりの肉体性というのを持って

いるわけですが、結社の中にいるとだめなんですね、それがわからなくなる。

兜太 イエス、イエス。まさにイエス。エスプリ。

-うん、エスプリ、大事なのは作家精神ですね。そういう意味での結社精神はいい。

しかしそれを欠いた結社意識ほどだめなものはないんですね。


-ただ[中村]草田男先生は「結社精神」と言つてた。兜太先生は、結社意識と

いうのはほとんど持ってなかった。持つてたの。

兜太  全然なし。

-だから金子兜太はそういう意味では、主宰者だったけど主宰者じゃないような。

兜太 それはね、楸邨がそう言ってた。

-先生を。

兜太 うん、俺を。「金子君はユニークな結社人だ」、「ユニークな結社人として

迎えたい」と、そういう言い方をしてた。それでこっちも、これは行けるなと思ってね。

2020年7月18日

「壺春堂記念館」金子兜太生誕100年、実家「聖地」に 




 昨年2月に98歳で亡くなった皆野町出身の俳人、金子兜太をたたえようと同町に一昨年発足した「兜太・産土(うぶすな)の会」は、兜太さんの生誕100年にあたる今年9月23日、町内にある実家の壺春堂(こしゅんどう)を改修して「壺春堂記念館」を開設する。

 壺春堂は兜太の父、秩父音頭の生みの親である故・金子元春が開業した病院。元春さんは伊昔紅(いせきこう)の俳号を持つ俳人で、地元の弟子を集めて病院で句会を開いていた。兜太さんの甥で、同じ敷地で金子医院を営む金子桃刀(ももと)さんによると、文化財の指定の答申に保存活動した人の力が認められた。

かつて、商人らで賑わった秩父往還沿いにあり、延べ70平米の平屋。父の伊昔紅が大正末改装、入口近くに待合室と診療室があった。伊昔紅は客間で句会を開催した。
兜太は「おやじの句会に集まった男たちに憧れていたんだ。知的で野性的なあの無骨な雰囲気が好きだった」と語っていた。


両親の写真とありし日の兜太 (蛭田有一氏提供)


句碑 「おおかみを龍神と呼ぶ山の民」が庭にあります。
先生のエッセーを読むと、父、伊昔紅さんに病いを見て貰った患者が御礼に石を
届けたとか、庭に秩父の緑泥片岩と思われる石がいくつも据えられていました。

見学の問い合わせは、090-7414-0570
壺春堂所在地: 〒369-1412 埼玉県秩父郡皆野町1168番地



2020年6月24日

兜太オリジナル「立禅」

 
蛭田有一オフィシャルサイト(蛭田氏から金子兜太写真を提供)
                  http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/


金子 近ごろね。いろいろと人にもよくたずねられるんですよ。私の「立禅」についてね。
 それで、ここでそのありのままのことをお話したいと思って、よく考えてみたらね、黒田君。あなたがまとめてくれた歌人の佐佐木幸綱氏との『語る 俳句短歌』ね、藤原書店から出た。九十歳の私と七十歳の幸綱氏が、秩父の長瀞の長生館で一晩泊まりがけで語り合って出来た本だが、あそこで、佐佐木氏の質問にこたえる形で、とても具体的にしゃべってますな。あの本のあの部門を再録してもらうことがいいんじゃないかなあ。

佐佐木 立禅だから、立ってやるんですか。

金子 ええ。名前のとおり単純です。立ってやる。車中で坐ってやることもある。黙って突っ立っているから禅みたいなものだという程度のことです。どうやるかというと、長年の間に亡くなった人で、自分にとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろ、つまり私にとっての大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言ってゆくのです。今、二百人くらいになっているかな。数えませんけれど、あまりふやしても覚え切れないし、時間をとっちゃうからね(笑)。

佐佐木 最初は何人くらいから始められたんですか。

金子 えーっと、最初は二十人くらいのもんだね。

佐佐木 最初その名前は、リストアップというか、書きだしたんですか。

金子 いや、はじめから頭の中だけです。

佐佐木 そのリストは亡くなられた順ですか。

金子 でもないです。とにかく、最初に言うのは私の郷里の、皆野の本家の菩提寺、円明寺の坊主です。今の前の代、つまり先代の倉持好憲和尚を私はえらい好きでね。彼とは「肝胆相照らす」という関係があったんです。彼が死んだとき、この男の名前は言い続けたいという気持ちがあったんだなあ。背が高くて、坊さんの大学があるでしょう、そこの剣道部の主将をしていた。全国優勝をした。

剣道の達人です。鋭いです。恐らく幸綱さん好みです。私か銀行を退職して家へ帰ったとき、ちょうど好憲和尚が来て、「おお、よく野垂れ死にしねえでな」と言われたのを覚えています。いきなりこのオレにそう言いやがった。そういう男ですけど、何だか好きでね。その彼が一番。


2020年6月23日

金子兜太の忘れえぬ人々





三橋敏雄
(1920-2001)
 ずいぶん昔になるが、長崎に住んでいたとき、この人から手紙を貰ったことがある。長崎港に近い海を航行中だが、寄港しない。元気に。という簡単なものだったが、南支那海の海の匂いが、この人の体臭を込めて、たしかに小生に伝わってきたのである。海の男三橋、どこか飄然と、おとぼけ気味の敏雄。

  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
 この美しい抒情の韻律に触れたときもまた。

 三橋は十代の「新興俳句」のときから、その才能が注目されつづけてきた。ことに初期の山口誓子の推輓は記憶に残る。その三橋の、どことなくとぼけつつ、反戦の意思を刻んでゆく句作りに、小生は注目してきた。

  死の国の遠き桜の爆発よ
 被爆の広島、長崎を抱え、惨憺たる敗戦の桜の国日本。そして、「戦争にたかる無数の蝿しづか」は言いすぎて緩いが、

  戦争と畳の上の団扇かな
になると、おとぼけが効いて、思わず「団扇かな」を見詰めることになる。
 2001年われわれは「戦後俳句」の才能を失ったのである。



金子兜太の忘れえぬ人々


伊昔紅と兜太

金子伊昔紅(1898-1977)
 父・元春(俳号伊昔紅)は、秩父盆地(埼玉県西部)皆野町の開業医。自転車で往診していた。民謡・秩父音頭を楽しみ、俳句は水原秋櫻子に共鳴して支部句会を催していた。集ま

る者多く、人呼んで「皆野俳壇」と言う。戦前は男性のみ。戦後、馬場移公子のような傑出した女性も出現。集まる者、伊昔紅の「往診の靴の先なる栗拾う」を口にし、〈暮らしのうたえる俳句〉を求めていた。山国は貧しく、人々は息を詰まらせていたのだ。


波郷(1913-69)と友二(1906-86)
 戦前の皆野俳壇の人たちにいちばん人気があったのは、石田波郷で、主宰誌「鶴」に入会する人が多かった。夏など、ぶらりとやって来た波郷を囲む会は、すぐ盛り上がり、白地の

浴衣に長身長髪の人は、徳利と猪口だけの独酌で、ぼつぼつと喋る。まさに「女来と帯纏き出づる百日紅」たった。二代目の主宰石塚友二は逆の野趣満々。わが家に泊まって大酒し、夜中に横の男をゴロゴロ乗り越え、翌朝また乗り越えて戻っていた。父は友二を好んでいた。

竹下しづの女(1887-1951)
 珊太郎に勧められて、「高校学生俳句連盟」の機関誌として、九大生の竹下龍骨たちにより福岡で発刊されたばかりの俳誌「成層圏」に参加したのが、昭和十三年四月。龍骨の母

は、当時すでに「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」で有名だったしづの女。入会してすぐ「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」を見て、この男尊女卑の戦時下で、よくも、と目の洗われる思いだった。雑誌は昭和十六年五月、短期間で終わるが、小生の受けた影響は大。



2020年6月1日

兜太の一句


合歓の花君と別れてうろつくよ 兜太

 みな子他界のあとは、生前の細かい言葉遣いや仕種が、何彼につけて思
い出されて辛かった。どれほど自分が勝手に振る舞ってきたかと思うこ
とも頻りに。「君」は言うまでもなくみな子。「うろつくよ」がその後悔
を抱えつつ、なんとも頼りない気持ちで暮らしている自分。福井の俳句
仲間と別れ、トンネルを抜けて滋賀に出たとき、車窓に合歓の花が覗い
たのである。そのとき「うろつくよ」の言葉がとび出す。  (『日常』)

君と言うのは、奥さんの皆子さんです。10年あまり癌を病み亡くなりま
した。トラック島から帰り、お見合いながら可憐な皆子さんに恋した兜太
でした。
皆子夫人の実家は有名な眼科で、今でも皆野にあります。
金子先生は昔の男ですから、やはり亭主関白で仕事に俳句に忙しかった
夫を支えたのは妻でした。
甘え放題だった妻がいなくなり心に穴があいたのでしょう。
「君と別れてうろつくよ」と妻恋の金子先生です。
合歓のピンクの煙るような花は老いても、美しかった皆子夫人そのものです。

2020年5月12日

NHK アーカイブス 金子兜太



 1/2 【 金子 兜太/かねこ とうた 】/文化講演会・わが俳句人生(1)(1998(平成10)年3月15日放送)


2/2 【 金子 兜太/かねこ とうた 】/文化講演会・わが俳句人生(2)(1998(平成10)年3月15日放送)


NHK  アーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010555_00000

平成30年2月に亡くなった俳人・金子兜太さん。季語や花鳥諷詠といった伝統的な形式にとらわれず、戦争の悲惨さや社会問題を題材にして自由な俳句の世界を築き、人気を集めた。金子さんは大正8年埼玉県生まれ。旧制高校時代、友人に誘われて句会に参加したのをきっかけに俳句を始める。大学卒業後、海軍中尉として赴任したトラック島で悲惨な消耗戦を体験。復員後は日本銀行で働きながら反戦・平和の句を読み続けた。昭和58年から17年にわたって現代俳句協会の会長を務め、テレビの俳句番組にも数多く出演、俳句の普及に貢献した。平和への祈りを17音に込め魂の自由を詠い続けた98年の生涯だった。


2020年5月9日

兜太の「愛句百句から」大き背の冬の象動く淋しければ  

大き背の冬の象動く淋しければ  芦田きよし

  この句をつくったときの芦田きよしは、神戸の高校生だった。
港にむかって傾斜した街をおりてゆくときの白っぽい空気が感じ
とれ、眼鏡をかけた色白の芦田の細めの首筋が見えてくる。

かれはこのあと哲学を学び、京都大学の大学院に籍をおいていたが。
二十五歳で死んだ。腸閉塞の手術台に、「物理的に処理するんや」と
いって上ったのだそうだが、それが最期だった。

死は昭和38年(1963)の暮。もう15年も前のことになる。
 芦田は象を間近に見ていた。しかし、「大き背の冬の象」という
いいかたからは、ただ見ていただけではないことがわかる。
象の背筋を大きいと見上げたとき、ああ、「冬の象」なんだなあ、
とおもっていたのである。そのおもいにとらわれているとき、象の
背がくらりと動く。
おや″とおもい、おもったとき「淋しければ」(淋しいから動いたんだ)
という感応がことばになる。

 すでに高校生のときから、芦田は論理に潔癖だった。こまかな、
きちんとした字を、(ガキいっぱいに書きこんだかれの便りの清潔感が
忘れられない。かれの友人は、「論理の清潔さとは、短命の思想に他な
らない」と書いて、よき才能の夭折を倬んでいたほどだが、私はそこ
に、論弁に明晰であろうとする芦田の誠実さを見ていた。したがって
論弁がくもるときは、それを不誠実として痛く恥じ、その恥じる様子の
卒直さには飄逸ささえあった。誠実な知性こそ、ときに飄逸なりとおも
いつつ、この句を読むと、どこかにその飄逸の気配が感じられてくる。
若い芦田は、神戸の冬景色のなかの象に、はやくもかなしみをおぼえて、
明晰にはなりきれなかったのだろう。

海程歳時記にある句です。

キャバレー裏に玉ネギ積むわが夜の海  芦田きよし