2019年10月5日

DVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道

 金子兜太のDVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道が発売になった。ただ、懐かしく夕べは泣いた。
このインタビューを終えて数時間後、意識不明となりそのまま亡くなった。
そして竹丸は先生の著「他界」を読み信じるようになった。
天上には亡くなった人たちが寄り添い私たちの来るのを待っていると言う。金子先生がまず逢いたいのは両親と妻の皆子さんだそうです。

 きっと天上で大句会が開かれ、海程先輩たちが集い侃々諤々だろうなと思うと可笑しくなる。金子先生の裁く句会に出てみたい。死は怖くないのです。


このインタビューを終えて数時間後、兜太さんは
体調を崩し緊急入院されました。そのまま意識が戻る
ことがありませんでした。
■2018年2月20日 98歳の生涯を閉じる

東西南北若々しき平和あれよかし

金子 それじゃ、若々しき平和とはどんなもんか、要
するに、茹でたての馬鈴薯みたいなものでね、湯気が
立ってて、果肉は非常にこう柔らかく、食べやすくて
ね、誰でも飛びつけると、いう風なそういう内容のも
のであればよいと。そういう風に思ってるってことで
す。そのことを言ったつもりだったんですがね、これ、
ええ。
河邑 この俳句の言葉どおり取りますと、若々しき平
和って書いてありますよ。この平和っていうのを、兜
太さんがまさに若い世代に伝えていきたい言葉じゃな
いんでしょうか。今の平和を。
金子
平和ってのがいちばん基礎、基礎。基礎だと思います
ね。だから、図々しい平和という風なものが基礎に無
いと、本当の平和の時代なんていうのは無いんじゃな
いでしょうかね、ええ。図々しいっていう言い方が必
要だと思いますね。
河邑 図々しいってどういう意味ですか?
金子 腹を据えて、びくともしないという、そういう
集団、そういう人間たちの集まり。それが図々しい。
腹を据えてびくともしない。


   人生は生きている期間流れている
 しかしどこか求めてることがある
 求めてることで強く自分を支えている
 俺はただ流れているだけじゃないと

金子 
あのー、自分の人生ってものは、生きている期
間だけ流れてるんだ。しかしどっかで求めてることが
あって、そうなってるんだと。逆に、求めてるってこ
とを剌激して、さらに強く求めてると思って自分を支
えてるんだと。俺はただ流れてるだけじゃないと。そ
ういう弁証法を一種、自分の中で用意して、悠々と考
えてるんだ。

『天地悠々』の欲しい方は、堀之内氏に申し込んで下さい。
4千円です。
メール  horitaku@ka2.so-net.ne.jp






2019年10月3日

句集『遠方』吉岡一三



 ◆自選20句抄◆
父母の写真狐の泊まる家
緑蔭を誰も出られぬやうに塗る
蝉時雨森が重たくなってきた
きちきちばった昔から来た葉書
空海を探しに行きぬ天道虫
をんをんと鳴る春分の火炎土器
半生を象にすればシャボン玉
草いきれ何もしていない怖さ
傷口とカンナは赤ときめている
猫の恋ヤマトタケルが来ているぞ
うつくしい鳥の内臓十二月
新しい莫大小を穿く憂国忌
コロンブスの卵が一つ冷蔵庫
十二月八日燃えないゴミを出す
セーターをくぐり出て海亀である
神を見ず霧の大杉押せど押せど
卑弥呼には樗の花がよく似合う
八月十五日正午まで何もなし
秋風の自転車について行く手ぶら
蝗仲間いなごを取りに行ったきり
 

栗林 浩   句集『遠方』評              

 吉岡さんが第一句集「遠方」を刊行された(現代俳句協会、2019年6月25日刊行)。1998年からの約20年間の作品を入集している。序文は「遊牧」代表の塩野谷仁さん。そこでは、絵画を趣味とする吉岡さんのデッサンカが俳句にも生きている、と言い、さらに、氏の発想の意外性に驚かされるとも書かれている。

 吉岡さんは、俳句教室で俳句を学び始め、伊藤白潮主宰の「鴫」に入会し、2000年から同人。その後、塩野谷仁さん
の柏の俳句教室の縁で、「遊牧」に参加、2009年同人とな
った。

各グループから、その変化が瞭然と分かる句を鑑賞してみよう。
1998年から2008年ころ              
林出て肩より低き冬                 
花水木冷たかりけり姉の頬

               
 情を殺した写生的な作品である。二句目はお姉さんの死のことだろうか? そうだとすれば、「悲しい」はずなのだ、そうは言わず、「冷たい頬」を冷徹に詠む。しかし、一三さんはガチガチの写生派では終わらないであろう。その「地」が一三さんにはある。〈走らない約束の機関車に夜霧〉や〈冬の噴水てつぺんのてんてこ舞ひ〉における「走らない
約束の」とか「てんてこまい」でそれが分かる。この後で、たぶん、諧謔のある句を試行されるのでは、との予感を筆者
(栗林)は抱いた。


2009年から2015年ころ
定位置に氷柱の育つ生家かな
鶏絞めて卵出てくる在祭り
コロセオは穴のかたまり鳥雲に
春雷や神をみごもる火炎土器
夏草のよく出来ている休耕田


「定位置」の句はしっかりした写生句。二句目もそうだが、
腑分けされた鶏に卵を見て、その感動に「在祭り」という季語を斡旋した。「コロセオ」もローマのコロセウムを見て、「穴のかたまり」と喝破した。ざっくりとした写生である。
 五句目の火炎土器は、一三さんの自選句〈をんをんと鳴る春分の火炎土器〉も佳句なのだが、個人的には、こちらの「火炎土器」の方が、筆者は好きである。「わんわんと」の句は則物写生的、「春雷」の句は「神をみごもる」というとてつもない詩的想念の世界を詠んだ。

「夏草」の句は、「よく出来ている」が何とも言えない諧謔・ペーソスーアイロニーを感じさせて、これは、のちの一三さんの作句の骨格となって行くように思える。


2016年から現在まで
夏鶯なろうことなら斑鳩で
専守防衛艦隊のよう浮寝鳥
秋風の自転車について行く手ぶら

 この辺りから現在の一三さんらしい作品が並ぶ。自由な思
い・断定・諧謔の句が多くみられる。「秋風」の句はなんという理由がないのだが、好きな句である。「手ぶら」が、なかなか言えない。実にいい軽さである。
中には、難解句も交じってくる。

消しに行くユーフラテスの大陽炎
花の城石垣の因数分解
五代目の仏壇引き摺る春の泥

など、筆者には解説しがたい作品がある。もちろん、俳句で意味を超越した何かを感じさせられれば成功である。筆者も何かを感じた。これらの、筆者にとって難解な句群は、塩野谷さんが言う「意外性」が効果を収めているのであろう。それが詩的な意外性である場合、成功である。たとえば、〈肺へ落つ木の実もあらん核日和〉や〈地球の速度に青大将止まる〉〈硫黄島帰りの海月かも知れず〉などがある。

 一三さんが、何かに向かって俳句の可能性を試みているさまが見える。だから、今後も一三さんの作品から、目が離せないのである。


2019年9月21日

9/23(月・祝)「金子兜太百年祭 in皆野町」を開催


日 時  2019年9月23日(月・祝)
12時30分開場 13時30分開会
会 場  皆野町文化会館ホール
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423番地

主 催  「兜太TOTA」編集委員会
皆野町、皆野町教育員会、皆野町商工会、皆野町観光協会
問合せ  皆野町観光協会 TEL:0494-62-1462

第一部 映画上映「天地悠々―兜太・俳句の一本道」 13時30分~

第二部 「金子兜太百年祭」リレートーク 15時~

第三部 秩父音頭奉納・フィナーレ 16時~(終了予定16時30分)

http://www.minano.gr.jp/2019/09/05/9400/

2019年9月10日

金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争


金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争。
金子さんの訃報に、改めて、あの戦争について語ってくれた言葉たちを反芻している。

 第439回:24歳が体験した戦争。の巻(雨宮処凛)リンクしています
 https://maga9.jp/180228/








2019年7月18日

句集『狐に礼』 三井絹枝




 三井絹枝さんが7月初めに亡くなったと知らせがありました。
 寒沢川にもご一緒に旅をしました。
 いつも、恥ずかしそうにしていた三井さん、
 柔らかい語るような表現に魅了されました。
 お悔やみ申し上げます


      自選10句

   小春日が流れてきます汲んでおこう

   月光と降る羽衣よわたしはだか

   蚊に刺され小さな水黽(あめんぼ)できました

   泪のよう大切にされ糸とんぼ

   すまないなあ冬菜のような涙出る

   あきらめのひゅう葡萄の木の匂う

   この川や夜の牡丹雪釣れます

   蝶老ゆるようすべらかな抱擁

   寒沢川(さぶさわがわ)夏一番星みつけた  

   狐に礼しみじみ顔のゆがみけり

著者略歴  三井絹枝(みつい・きぬえ)

1947年 長野県上諏訪に生まれ、三歳から東京に
1994年勝村茂美主宰「風景」を経て、「海程」入会、金子兜太に師事 
1996年 海程新人賞候補となり、同人に推挙される
2000年 海程例会大賞受賞
2005年 海程会賞受賞
現在 「海程」同人 「遊牧」同人
現代俳句協会会員

2019年7月6日

志布志市有明町の西光こども園に句碑


園児らは五月の光よく笑うよ  兜太

 戦後日本の俳壇をけん引した俳人で、昨年2月に98歳で亡くなった金子兜太さんの句碑が、鹿児島県志布志市有明町の西光こども園の庭に建っている。生前、園を3度訪れ園児らに「命と平和の大切さ」を説いて聞かせた金子さん。句碑は園が子供たちとの心のふれあいの証しとして今年3月に建てたもので、そこに宿る金子さんの魂は今も子供たちの成長を優しく見守っている。【新開良一】

 句碑の正面には金子さんが揮毫(きごう)した句「園児らは 五月の小鳥 よく笑うよ」が刻まれている。たくさんの園児たちに囲まれた金子さんが、小鳥がさえずるようにしゃべる子供たちの天真らんまんさを詠んだ一句だという。

 金子さんは園を営む西光寺の前住職で園長でもある藤井龍道さん(87)と長年親交があり、その縁でたびたび訪問。2016年5月、西光寺で園児たちと触れ合った半年後には句碑の句とともに「五月の海光 ここまで届く 園児かな」と自書した2枚の色紙を園に贈った。

 園児たちはお返しに園の畑で育てたサツマイモなどを送った。金子さんは「おいしい、おいしい」と喜んで食べたという。

 昨年2月、金子さんが入院したことを知った園児らは「げんきになってまたあそびにきて」と言葉を添えた似顔絵を送って回復を祈った。しかし願いは届かず、金子さんは似顔絵を見ることなく旅立ってしまった。子供たちの絵は棺の中に収められたという。

 今年6月3日、園児たちは例年通り金子さんが好きだったサツマイモの苗を植えつけた。畑に勢ぞろいした30人の園児に藤井さんが「お浄土の金子先生にまたおいしく食べていただけるよう祈って植えてください」と話しかけると、子供らは「またおいしいお芋さんができますように」と願いを込めながら一本一本苗を植えていった。

 金子さんは20代後半の一時期、西太平洋のトラック島(現チューク諸島)に海軍主計中尉として出征。西光寺の講演では悲惨な戦争体験をもとに「私の生涯は戦死した人のためにある、という思いで生きてきた」と語り、生涯、平和への思いと反戦への決意を貫いた。

 藤井さんは「絶対戦争をしてはいけないと最期まで言っておられた。地位、名誉、財といったものを一切考えない人だった」としのび「この句碑を通じて金子先生と園児たちとの心の交流を伝え続けたい」と話した。

管理人から・・・・金子先生は、サツマイモが好物でカルチャーセンターの講義の合間に
生徒が持参した薩摩芋をよくおやつに召し上がっていました。園児たちのおいもも美味しかったのでしょうね、


西光寺にある句碑です
正面に白さるすべり曲がれば人  金子兜太
平成21年4月17日建立
鹿児島県志布志市有明町蓬原1884
西光寺門徒建立

毎日新聞から転載させてもらいました

2019年6月26日

兜太の「愛句百句から」大き背の冬の象動く淋しければ  

大き背の冬の象動く淋しければ  芦田きよし

  この句をつくったときの芦田きよしは、神戸の高校生だった。
港にむかって傾斜した街をおりてゆくときの白っぽい空気が感じ
とれ、眼鏡をかけた色白の芦田の細めの首筋が見えてくる。

かれはこのあと哲学を学び、京都大学の大学院に籍をおいていたが。
二十五歳で死んだ。腸閉塞の手術台に、「物理的に処理するんや」と
いって上ったのだそうだが、それが最期だった。

死は昭和38年(1963)の暮。もう15年も前のことになる。
 芦田は象を間近に見ていた。しかし、「大き背の冬の象」という
いいかたからは、ただ見ていただけではないことがわかる。
象の背筋を大きいと見上げたとき、ああ、「冬の象」なんだなあ、
とおもっていたのである。そのおもいにとらわれているとき、象の
背がくらりと動く。
おや″とおもい、おもったとき「淋しければ」(淋しいから動いたんだ)
という感応がことばになる。

 すでに高校生のときから、芦田は論理に潔癖だった。こまかな、
きちんとした字を、(ガキいっぱいに書きこんだかれの便りの清潔感が
忘れられない。かれの友人は、「論理の清潔さとは、短命の思想に他な
らない」と書いて、よき才能の夭折を倬んでいたほどだが、私はそこ
に、論弁に明晰であろうとする芦田の誠実さを見ていた。したがって
論弁がくもるときは、それを不誠実として痛く恥じ、その恥じる様子の
卒直さには飄逸ささえあった。誠実な知性こそ、ときに飄逸なりとおも
いつつ、この句を読むと、どこかにその飄逸の気配が感じられてくる。
若い芦田は、神戸の冬景色のなかの象に、はやくもかなしみをおぼえて、
明晰にはなりきれなかったのだろう。

海程歳時記にある句です。

キャバレー裏に玉ネギ積むわが夜の海  芦田きよし

サラメシに金子先生が


NHK・サラメシ
俳人・金子兜太の愛した味は??
朝日新聞社での俳句欄の選句に出された昼の弁当は
季節の魚や野菜の松花堂弁当でした。
吸い物もついて美味しそうでした。
とにかく、ゆっくりと食べる。
人の二倍はかかりました。
健康には特に気を遣い、晩年はワインを少々でしね。


ライフワークの一つが新聞の俳壇の仕事。
90を過ぎても電車に乗って選句会へ。
寄せられた俳句を読み込み、選ぶ作業に没頭した。
心待ちにしたのはお昼でした。
中でもなじみの小料理屋の松花堂弁当が大のお気に入りだった。
蓋を開ければ目にも鮮やかな旬の景色。
句を選ぶ間選者たちは皆言葉を交わさず黙々と。
その分昼のひとときは料理をネタに季節の移ろいや表現の在り方など
さまざまな話に花が咲いた。
98でこの世を去るまで毎回5時間。


2019年6月25日

兜太の「愛句百句から」透きとほる熟柿や墓は奈良全土


兜太の「愛句百句から」

透きとほる熟柿や墓は奈良全土   澁谷  道 

澁谷 道
昭和21年平畑静塔に、同42年橋かん石師事。文学的虚実を
表裏として独自な幻想的俳句世界を志向。前衛的な「夜盗派」
「縄」を経て「海程」所属。俳句と連句誌「紫薇」創刊。現代
俳句の女流第一人者、死去


 澁谷道の「全土」は、「国のまほろば」の大和。「柿くへば鐘が
鳴るなり法隆寺」と、柿好きの正岡子規がいささかの愁いをこめて
詠いあげた、柿熟るる「奈良全土」である。
 作者は奈良にきている、いや、いまはきていないのかもしれない。
目のまえに熟柿を見ているJ木についたまま熟れたもので、空のひ
かりに朱の果肉が透く感じなのだ。あるいは、すでに卓上におかれ
てあるものかもしれない。

 それを見ていると、「奈良全土」への想念がひろがるのだ。いま
奈良にいるとすれば、自分を軸にして四方にひろがる。遠く離れて
おもっているとすれば、自分を光点として放射状にひろがる。そし
て、その全域にさまざまな墓が見えてくる。古墳あり、石の墓あり、
かの祖神の霊異と女身のあわれがしみる箸墓(はしのみはか)も
見えていよう。

それらの墓たちは全土を被うがごとくだが、作者澁谷道の想念のな
かでは、死の暗さにつらならず、古く人間的なものへの親しみにつ
らなるのである。
そこに作者のやさしさがある。

 澁谷道は大阪在住の小児科女医。この句は第二句集『藤』所収
のものだが、私は鑑賞しながら、彼女が蜘蛛が風にのって移動する
話をしていたのをおもいだしていた。クモたちは風が吹いてくるの
を待っていて、吹きはじめると、それにのって別のところに移るの
だそうだ。「いく日でも待っているんでしょうね、きっと。吹きは
じめると、一つづつ、肢をひろげるようにして、うまく風にのって
スーイスーイととんでゆくんですって。一つづつ、ね」
――澁谷道にとっては、奈良全土の墓たちも、クモたちも、同じよ
うに、生きて息づいているのではないか、と私はおもう。


山頭火120句 「放浪行乞」  金子兜太



 分け入っても分け入っても青い山    山頭火

 大正15年(1926、45歳)の『層雲』発表句。「山頭火
一代一冊の自選句集」(大山澄太といわれる『草木塔』は事実上
この句からはじまるといってもよいほどである。句の前書に「大
正15年4月、解くすべもない惑ひを脊負うて、行乞流転の旅に
出た」とある。この年の4月7日に小豆島で尾崎放哉が亡くなって
おり、2日後の4月10日に山頭火は味取観音堂を出て行乞流転の
旅に入っている。
この三日の間に放哉の死についての便りが届いたのではないか。

 日頃、この人のことに関心をもち、放浪の句や文をわが身に引
きつけて遊んでいただけに、山頭火には(ツとする思いがあった
のだろう。衝動的に堂を出る。
足は南にむかって歩いていた。そういうことだったのかもしれ
ない。そのせいか、前書から見ても、この句から見ても、山頭火
の心情にはそれほど突きつめたものは見受けられないのである。
むしろかなりに気分的なものすら感じられる。

 私は以前、この句について、「句も若く、ヴァガボンドの感傷
と憧れとでもいいたいような、角笛(ホルン)の哀調がある。心奥
の難に疲れはてている人間の放浪句というよりは、多感な戸惑い
がちな旅感の句として読める」と書いたが、確かに「多感な戸惑い
がちな旅感」といえるものがこの句にはあり、次第にそれが深まり、
心奥の難あるいは疲れの色を帯びてくるわけなのだ。ともあれ放浪
第一発目のこの句は、かなりにロマンチックな、センチメンタルな
句と言った方がいい。

 そのためか、何といってもこの句のよさ、懐かしは、歩いている
人問の姿が見えてくることで、その姿が熊本から宮崎にかけての
いままさに青を深めはしめた晩春初夏の山々に溶け込んでゆくの
である。

45歳、すでに中年だが、気持としては青年のような多感な男の
姿があり、ただひたすらさまよい歩くという「放浪者」という
ものの原型がある。この句が人に好かれる理由はそこにあるのだ。

 ちなみに、尾崎放哉は山頭火より三つ歳下の俳人で、山頭火と
同じく荻原井泉水の主宰する俳誌『層雲』に所属していた。この雑
誌は明治44年の創刊で、その前年に出た理想主義的な文芸雑誌
『白樺』の俳句版ともいえる内容だった。

したがって、俳句のつくり方が自由で、季題制度などというものは
認めないという徹底した考え方を持っていた。季語はなくてもいい
などという曖昧なものではなく、徹底して自由で、一行詩を書くと
いう考え方。それが放哉や山頭火のような放浪者の資質に合って
いたのだろう。

集英社 1987年

2019年6月24日

兜太の「愛句百句から」 



 この「愛句百句」は昭和53年、講談社から発刊された。その頃
金子先生は昭和49年(55歳)日銀を退職後、上武大学教授となり、
長男眞土さんが結婚昭和52年には父の伊昔紅氏が88歳で死去、
昭和53年には朝日カルチャーセンターで俳句講義が始まった。
心身共に力のみなぎった年齢でした。

 あとがきなよると、一般にはあまり知られていないが、自分では
好きでたまらないいわば秘蔵のよろこびを味わせてくれる句がある。
それらの句をまとめて鑑賞したら、どんなに楽しかろうと日頃おも
っていたので、この本の実現はまったくうれしいと・・・・。
 句は近世から身の回りの人たちまで選ばれていますが、海程に絞
りアップします。    管理人・竹丸

透きとほる熟柿よ墓は奈良全土    澁谷 道
大き背の冬の象動く淋しければ    芦田きよし


2019年6月22日

金子真土氏の「家族から見た金子兜太」



2018.6.22(金)金子兜太お別れの会の挨拶の抜粋

 本日は平日の昼頃ということで、皆様、いろいろな御用をお持ちだと思うのですが、父のためにここにお集まりいただきましたこと、まず、このことを最初に御礼を申し上げます。ありがとうございます。
  
 [家族から見た父]ということについて、少しだけお時間を戴きたいと思っております。先ほど、宮坂さんのほうから「存在者」という言葉が何度も父に与えられました。父がみずから、「存在者で、ありのままに生きるんだ」と明言しましたのが2016年1月、朝日賞の授賞式の会場でございました。会場の皆さんは拍手をして歓迎をしてくださいました。ただ、家族としてはちょっと複雑な思いでその宣言を聞いたことを覚えております。

 ご案内のように父は体が丈夫で、父の母親は百四歳まで生きたということもありまして、「自分はあと十年は生きるんだ」ということも申しておりました。その父が「ありのままに生きるんだ」という宣言を皆さんの前でしたときに、これから先、どんな付き合い
方を父とするのかなというのが、世話をする立場の人間として考えざるを得なかった場面でございました。
 私なりに、父の言う[存在者]とはどんなものだろうか、ということを折りに触れて考えてみたのですが、キ-になることは二つかなと思っております。
 
 一つは、先ほど宮坂さんがあっしゃったような戦争体験です。父は工員さんを束ねておりましたが、その人たちは日常においては気に入らない相手はすぐに刺す、あるいは男色の若い青年を奪い合ってヶンカをする、あるいは人殺しが起こる。そういうことを平気でやる人たちだった。ただ、その人たちが手榴弾の実験で即死をした仲間をみんなで担いで病院まで連れて行く。父は一緒に走っていたわけですが、その姿を大変美しいと感じたと言っておりました。

2019年6月18日

『今日の俳句』金子兜太 


金子兜太 「俳句専念」から『今日の俳句』出版経過を転載

 光文社のカッパブックスの一冊として、『今日の俳句』を書いたのが昭和四十年。いままでの俳論の総まとめであり。しかも一般向けの入門書として、引用句をたくさん盛り込んで書いた。第一章が「新しい美の開花」。わたしの俳句人生の一路標である。

 その時期、日銀のほうは、為替管理法関係の許認可事務をやる管理係長に横すべりしていた。歳末もたいした事務はなく、係の人三人と生鯖を肴に痛飲した。わたしは鯖が好物なので大いに食べたのだが、すこし傷みもきていたらしい。元朝からひどい蕁麻疹にやら
れ、癒えたあとも風邪をひきやすくなって、喉が痛い。齢四十六歳、

この辺がタバコの止めどきとおもって、実行した。長年の猛煙のあとだけに未練がない。
それに、これで一生すえない、と悲観しないで、いつでもすえる、すうときは世界最高級のタバコを、と自分にいいきかせたのがよく効いた。いまではタバコをすっている人を見ると気の毒でならない。

『今日の俳句』を書いたのがその年だったので、タバコ代りに緑茶をがぶがぶ飲んだのがよかった。わたしの緑茶好きはそのとき以来で、コーヒーや紅茶、ウーロン茶より緑茶を好む。――なお、サブタイトルの「古池のくわび〉よりダムの〈感動〉へ」は、編集担当
の人が小用中に湧出させたもの。いまでは、「地球の〈感動〉へ」としたい気持だが、いわゆる高度経済成長への人口にあった当時としては止むを得まい。

 その出版記念会に、敬愛する詩人金子光晴氏が出席して下さったのは感激だった。しかし。氏は開口一番こういったのである。「敬愛す人には会わないほうがいいよ。会うとがっかりするからな」。 
                       
管理人竹丸の出版経過です

『今日の俳句』の出版について「ベストセラー全史」澤村修治史は、カッパブックスを出した光文社は新潮社の子会社で、弱小の出版社だった。
戦後最大の出版プロデューサーと言われた神吉晴夫は" 英語に強くなる本 で"ミリオンセラーをなった。
彼はベストセラー作法十か条で
・読者層の二十歳前後に置く。
・若い世代の純粋な感性に訴えるもの。
・この世で初めてお目に掛かったという新鮮な驚きや感動を伝えるもの。
・著者は読者のなかにもやもやしているものを形づくる役割を担う。と述べている。
当時の金子兜太は伝統俳句とは一線を画す俳句の書き手であり俳壇に新鮮に空気をもたらす存在だった。(竹丸)

『今日の俳句』 光文社カッパブックスのち文庫化 1965年9月]定価552円
 1・新しい美の開花 
 2・ドラム罐も俳句になる 
 3・描写からイメージへ
 4・五・七・五と「や」「かな」5・俳句は詩である
平成3年2月 知恵の森文庫で復刊   596円(税込)


2019年6月17日

竹丸写真日記でお待ちしています.

ひめさゆり・南会津に群生地があります

感動とは何か??。
表現について金子先生に教えて頂いたことを書いて見ました。
風景写真に於いても他者に学ぶを通りこして人真似の写真が溢れています。
では、どうやって脱却するか。
それは「感の高揚」を大事にして感動力を高めることで表現は自分のものとなります。
この教えを肝に命じて大事にしてゆきたいと思います。

竹丸写真日記
https://syadanyakusi.blogspot.com/





2019年6月16日

2019年6月15日

1『金子兜太戦後俳句日記』

写真は蛭田有一氏提供

『金子兜太戦後俳句日記』をアップします。
著作権者の、金子真土氏に了解を得ています。


昭和32年1月2日(水)雨 (昭和37年1月から記録されています。)
奥田こうきの遺した俳句を五十句選び、「奥田こうきの手紙」十九枚を書く。

1月5日(土)晴
夜、七兎と女の子。それから六林男、林徹子来る。「現代俳句」を楠本の手で再刊するとか。波郷が顧問。とか。

1月7日(月)曇
休む。岡井隆の歌集「斉唱」の書評を書くが、どうも意に満たない。短いものなのに書けぬとは残念。清潔な、ややアカデミックな歌。観念について! !‥

1月9日(水)睛
「行友」で少年の書評をしてくれる。中島斌雄が「俳句」で小生の句について晝いてくれる。双方共に好意的。

2019年6月7日

句集『共鳴り』小野 功



著者略歴
1939年10月14日(昭和14年)千葉県野田市生まれ
2009年 NHK学園「初めての俳句講座受講、「俳句実作講座受講
2011年 読売文化センター柏俳句教室にて、塩野谷仁氏に師事
     現代俳句協会会員
2012年 「遊牧」同人
2014年 千葉県現代俳句協会幹事
2016年 千葉県俳句作家協会会員

自選12句
懐の刃磨いて雲の峰
十六夜に男階段踏み外す
白さざんか指の先から冷めてくる
潮けむり室戸岬の春慈光
風車まわり過ぎれば嫌われる
しばらくは等身大の春に座す
荷風ならきっと手にしたこぼれ萩
墨染の冬の結界永平寺
共鳴りの滅ぶことなき寒北斗
春愁の阿修羅眉間にある敵意
盟友は今も盟友沈丁花
菜の花のてっぺんを摘み不眠症

2019年6月4日

句集『水脈のかたち』黒澤雅代(くろさわ・まさよ)


著者略歴・黒澤雅代(くろさわ・まさよ)
1940年(昭和15年)東京生まれ
1998年(平成10年)カルチャースクール俳句講座受講
2002年(平成14年)「遊牧」同人
2015年(平成27年)カルチャースクール退会
遊牧」同人・現代俳句協会会員・千葉俳句作家協会会員
 
自 選 十 句

十月の赤牛閂はいらぬ

やわらかき銃弾であり冬鷆

安房上総麦が熟れるどいう日なり

麦秋の肩の重さを午後という

のうまくさんまんだ晩秋に梵字

墨痕に烈しさ一枚は秋思

日の暮れは木の実に戻る木の実独楽

父性とは梟の鳴く距離であり

水鳥の飛んできそうな日暮の部屋

オリオンの加わっている指定席

2019年6月3日

金子兜太戦後俳句日記

 
白水社 定価9000+税
解説「兜太の戦争体験」 長谷川 櫂

 金子兜太は61年間、ほぼ毎日、日記をつけていた。逝去後、18冊の3年日記と8冊の単年日記、計26冊の日記帳が遺された。
この『金子兜太戦後俳句日記』全三巻は日記原本を俳句関係の記述を中心に約三分の一にまとめたものである。

一人の俳人の壮年時代から老年期をへて殼晩年にまで及ぶ壮大な記録である。兜太の『日記』は日本の日記文学の血脈に連なるものだが、注目すべきは61年という長きにわたっていることである。

 日記の書かれた時代は戦後の昭和と平成、二つの時代にまたがる。そして昭和を生きた兜太と平成を生きた兜太は明らかに印象が異なる。単に年齢を重ねただけのものではない。

2019年6月2日

句集『全景』塩野谷 仁(しおのや じん)


著者略歴 塩野谷 仁 
昭和14年(1939)栃木県生まれ。
昭和37年「海程」創刊とともに、金子兜太に師事。第18回「海程賞」受賞。
平成11年「遊牧」創刊代表。
平成19年 第62回現代俳句協会賞受賞。
句集 『円環』『塩野谷仁句集』『独唱楽譜』『東炎』『荒髪』
評論集
兜太往還』
共著 『現代の俳人一〇一』など
現在 「遊牧」代表、「海程」同人。現代俳句協会幹事・研修部長。

  
自選十二句

  太古より雨は降りいて昼蛍


  夏あざみ鳥あつまるを河口という


  昼星の落つ音あらん大枯野


  水のつづきに水のある御慶かな


  あるだけの灯の点されて四月馬鹿


  地続きに落日もあり韮雑炊


  地球から水はこぼれず桜騒


  確実に階段は果つ天の川


  紅茸を蹴り夭折に遅れおり


  一月の全景として鴎二羽


  眠りには泥も炎(ほ)もある小豆粥


  風景のどまん中よりさくら散る

2019年6月1日

海程創刊50周年記念アンソロジー【同人の章・あ行~か行】

さ行~た行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html
な行~た行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/12/blog-post_10.html
ま行~わ行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/12/blog-post_23.html
物故同人
https://kanekotota.blogspot.com/2017/09/blog-post_27.html

「海程句集3」平成24年 金 子  兜 太

左義長や武器という武器焼いてしまえ
差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり
夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く
老母指せば蛇の体の笑うなり
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
定住漂泊冬の陽熱き握り飯
熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
合歓の花君と別れてうろつくよ
言霊の脊梁山脈のさくら
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
マスクのわれに青年疲れ果てている
わが修羅へ若き歌人が醉うてくる
津波のあとに老女生きてあり死なぬ
今も余震の原曝の国夏がらす
被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり
被曝福島米一粒林檎一顆を労わり
泣く赤児に冬の陽しみて困民史
東京暁紅ひたすらに知的に医師たち
樹相確かな林間を得て冬を生く

「海程第2句集」平成14年 金子兜太
梅雨の家老女を赤松が照らす
少年二人と榠樝六個は偶然なり
小鳥来る全力疾走の小鳥も
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
二階に漱石一階に子規秋の蜂     愚陀仏庵
長生きの朧の中の眼玉かな
夏落葉有髪(うはつ))も禿頭もゆくよ
青春が晩年の子規芥子坊主
春落日しかし日暮れを急がない
よく眠る夢の枯野が青むまで
鳥渡り月渡る谷人老いたり
妻病めり腹立たしむなし春寒し
雪中に飛光飛雪の今(いま)がある
暁暗を猪やおおかみが通る
おおかみが蚕飼の村を歩いていた
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
山鳴りときに狼そのものであった
月光に赤裸裸な狼と出会う

2019年5月31日

English translation of Kanetotota haiku

金子兜太の俳句英訳




Twisted and seared
the marathon at the center 
of the atomic explosion

彎曲し火傷し爆心地のマラソン  
wankyokushi kashoushi bakushinchi no marason 

Twisted and seared
the marathon at the center 
of the atomic explosion

2019年5月30日

句集「月球儀」山本 掌(やまもと しょう)


山本 掌(やまもと しょう)
前橋生まれ オペラ、フランス歌曲の演奏活動。
1989年   俳人金子兜太と出会い、俳句を始める。「海程」入会。
1994-2000年金子兜太句、自作によるオリジナル俳句歌曲を花唱風弦〉と題し、世界詩人会議日本大会など各地で公演。
1996年  「海程」同人
2001年一  芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品として企画、構成、脚色する。「芭蕉座」と命名し、声楽、作曲、ピアノと語りによるくうたい語る[おくのほそ道])を公演。
2005-2007年「萩原朔太郎生誕120年」前橋文学館委員。
2006年一  個人誌「月球儀」を編集、発行。
2010年   芸術文化奨励賞(企業メセナ群馬)を受賞。

帯・皆川博子
御作、好きです。選びぬかれた表現も、その身にあるのも。

金子兜太
非常に奇妙な現実執着者、奇妙に意地悪い洞察者というか、
どこかひねくれたと思えるほどにその美意識は常識とは違っている。
混沌をみとどけていこうとする作者である。

目次
月球儀・ノスタルヂアー荻原朔太郎撮影写真
さくら異聞・双の掌・禽獣図譜・危うきは・偽家族日乗・非在の蝶・蝶を曳く・海馬より
空蝉忌・寒牡丹・寒牡丹ふたたび・俳句から詩へ

ノスタルヂアー朔太郎撮影写真

麦の秋破れし海図の少年期
影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより
翼たためる馬かいまみし葡萄の木
霧といて霧を耕し霧となる
忌日まで草の結界泳ぎゆく
霧を裂きゆく言の葉を一花(いちげ)とし
翼たためる馬かいまみし葡萄の木

2019年5月29日

句集「月の呟き」 茂里美絵



著者略歴
1936年7月2日(昭和H年)東京都杉並区生まれ
1985年「風涛」(原子公平主宰)参加のち同人
1993年「海程」(金子兜太主宰)参加のち同人
1996年 海程新人賞受賞
1999年「遊牧」(塩野谷仁代表)創刊・2号より参加
2002年「風濤」退会
2010年 海程会賞受賞
2014年「拓」(前川弘明代表)参加
2015年 海程賞受賞
2016年「拓」終刊により退会
句集「海程新鋭集lV」
共著「現代俳句を歩く」「現代俳句を探る」

自選句

夜の新樹葉っぱそれぞれが個室
子馬らの群れて羽音のすこしある
自鳥帰るまひるの傷のように水
夢想とは自木蓮のゆっくり散る
低く来る蝶よひんやりと未來
草いきれ皮膚は牢のようでもあり
耳鳴りのたとえば秋の灯の波紋
一字一字夕ひぐらしの声かな
火口湖に降る銀漢の水こだま
セーター脱ぐ岸辺に鳥放つごと
人恋うる一瞬昏き昼の火事
蓮ひらくまひるの寝室のようなり

2019年5月27日

句集「夢祝い」 塩野谷 仁(しおのや じん)



自選20句

人麻呂の乗り込んでくる宝船
遠野へ行きだし竹馬で行きたし
水底にとどく星ある寒の入り
如月という真っ直ぐな夜の木々
後の世に辻もしあらば風船売
花過ぎのみずを掬えば水に闇
鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋
竹皮を脱ぐ沼見えるさびしさに
緑蔭という大いなる本籍地
どの木にも生年月日ありて夏至
金輪際海月さびしきとき泛ぶ
また一人影を探しにくる夏野
短夜のどの扉開ければ白孔雀
シースルーエレベーター全速晩夏
蜻蛉より遠いところを日暮とす
帰る道あるさびしさの真葛原
星月夜きっとあふれる沼がある
いつもどこか日暮の地球鳥渡る
たしかなる霧となるまで霧歩く
屯の玉海の色否雌伏の色

また一人影を探しにくる夏野

 塩野谷氏は初心の頃から随分とお世話になり指導して頂きました。この句集に流れるものは心情の濃さであるが柔らかく抑えた書き方がより句を高めていると思いました。夏野の荒々しさはご自分の心情でもあるが中七の「また一人影を探しに」という言葉によって孤独感が表現されていて好きな句でした。
(竹丸の1句鑑賞)

2019年5月25日

句集 「星狩」 清水 伶 (しみず れい)


著者略歴
1948年、岡山県生まれ。「朝」「海程」同人を経て、1999年、同人誌「遊牧」(代表・塩野谷仁)に参加、現在に至るっ現代俳句協会会員1千葉県現代俳句協会幹事。千葉県俳句作家協会会員。千葉日報・日報俳壇選者。
   
  「遊牧」同人の清水伶さんが第二句集『星狩』を上木された(平成29年3月31日、本阿弥書店)。序文は塩野谷仁「遊牧」代表で、多くの佳句を挙げながら、清水さんを「硬質の叙情」の俳人だと賞賛している。
 彼女自身の目指すところは「私の興味は書かれている句意が鮮明で、現実的な細部が感覚という、全体の多義性を深めた俳句を書きたいと願っている」とある。

第73回現代俳句協会賞受賞「星狩」50句   清水 


膕(ひかがみ)の昏きところを夏の緤
父の日の大笑面に逢いにゆく
幾万の蝶を翔たせて夏の空
昼銀河歩きはじめに羅生門
冬の鵙そっと点りて人体図
抽斗のなか紅梅の坂がある
初蝶は真夜にはぐれた花骨牌(はなかるた)
椿闇まぶたあるもの横切れる
胎生の無数の濁り白もくれん
深層の水買いにゆく夕さくら

2019年5月24日

句集「現在」我妻 民雄(わがつま たみお)


我妻民雄(わがつま たみお)略歴
昭和十七年 東京都台東区根岸生まれ
同 四十年 早稲田大学卒業
 大正製薬㈱に入社。在職二十年、広報・宣伝制作に携わる。JARO・    CL10の広告審査委員
現在小熊座同人、現代俳句協会年鑑部
第七回佐藤鬼房奨励賞 第九回小熊座賞
神田川連句会・連句集『午餐』(岡部桂一郎・松井青堂らと共著)
第一句集『余雪』

高野ムツオ十五句選

遥かとは雪来るまへの嶽の色
白雲に秉るべく蕪土を出る
西は被爆東は被曝赤とんぼ
茅花流し人類だけが嘘をつく
墨堤やいまも昔の都鳥
空爆の空につながり冬茜
その上は犇く星座鳥雲に
海からは上がれぬ形して海月
地上から照らされてゐる鰯雲
風花を待つ出稼の裔として
花片の間(あひ)あひに闇石蕗の花
住まふ屋根住まはぬ屋根や春の月
学校に生まれては死ぬ蝉の声
苦瓜に百の涙状突起あり
終着のつぎは始発や雪催
    

2019年5月23日

金子兜太 自選百句

 


  
『語る兜太』より95歳自選百句
  
  白梅や老子無心の旅に住む       『生長』
  裏囗に線路が見える蚕飼かな

  山脈のひと隅あかし蚕のねむり     『少年』
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  霧の夜の吾が身に近く馬歩む
  蛾のまなこ赤光なれば海を恋う
  木曽のなあ木曽の炭馬並び糞(ま)る
   トラック島三句
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
  死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
  朝日煙る手中の蚕妻に示す
  独楽廻る青葉の地上妻は産みに
  墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
    会津飯森山
  罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期
  きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
  雪山の向うの夜火事母なき妻
  暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
  白い人影はるばる田をゆく消えぬために
  霧の車窓を広島走(は)せ過ぐ女声を挙げ
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む

2019年5月21日

句集『聊楽』董 振華(とう しんか)


帯より  金子兜太

春暁の火車洛陽を響かせり        董 振華

 董振華の作品は土地土地の風物を題材として取り入れ、そこで感応し思惟したことを書き込んでゆく、若い感性は、活気とともに多感旅愁にとらわれることも多く、それに逆らわず表現している。
 
著者略歴
中国北京出身、別名櫻井尚史。北京第二外国語学院アジアアフリカ学部日本語学科卒業後、中国日本友好協会に就職。中国日本友好協会理事、中国漢俳学会副秘書長等を歴任。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係修士、東京農業大学大学院農業経済学博士。平成八年慶應義塾大学留学中、金子兜太先生に師事して俳句を学び始める。平成十年「海程」同人。[海程]終刊後、後継誌「海原」同人。日本中国文化交流協会会員、現代俳句協会会員、中日詩歌比較研究会会員。俳句集『揺籃』『年軽的足跡』『出雲駅站』等
随筆『弦歌月舞』。訳書『中国的地震予報』(合訳)、『金子兜太俳句選訳』『墨魚的蛍光灯』、映画脚本、漫画等多数。

平成28年 金子先生宅にて

序  金子 兜太 私の好きな句のいくつかを記しておく。

春暁の火車洛陽を響かせり
微夢半醒の華北平原火車通過
春耕や郷思の影に月の光(かげ)
葉桜となりなお急ぎ足となり
皆既日蝕から日常へ黙契とは
万里の長城でんでん虫振り向いた
仮設住宅の放送聞こゆカナカナカナ
盆の月峠越えれば寝るとする
明月を独り占めして対飲す
朝日燻り夕日燻らせ秋分日誌
初冬の独り居という一行詩
如月の月影少年の猫背来る
 

2019年5月20日

「高木一惠句集」



帯・宇多喜代子
金子兜太から高木一恵に渡されたく日の夕べ天空を去る一狐かな>は、
定住の意志と千里万里を飛ぶ漂泊の自在、加えて「日常で書く」と
いう師弟に通う思想をよく伝えており、この句集を支える強い根太と
なっている。高木一恵の誠実で勤勉な俳句人生への至上の褒美であり
鼓舞であろう。

[自選十二句] 『榧の舟』より

啓蟄や川から畑へ水運ぶ

国生みの矛にもぐらの春の土

みちのくの沈みきれない紙の雛

余震なほ倒木が抱く蝌蚪の水

さよならの無くて薔薇より濃き別れ

夜の噴水菩薩と見しは気の迷ひ

鰹一本ノーネクタイの背広で来

特攻花ゴルフボールを隠しけり

古りしわが五体百態ねむの花

柞紅葉まとひ鬼の子秩父の子

美しい卵が二つ冬の家

定住漂泊おぼろ狐の尾の千切れ

2019年5月19日

句集『秋の道(タオ)』安西 篤

平成29年度現代俳句大賞に、安西篤さんが受賞しました


現代俳句賞の目的
本賞は、現代俳句の視野と展望のもとに広く俳壇を見渡し、現代俳句の発展に寄与され、優れた功績を残された方を顕彰するものです。平成13年度に現代俳句協会大賞を受け継いで設けられました。
◇本名 安齋篤史。
・昭和 7年(1932年)4月14日三重県生まれ(82歳)。
・昭和32年(1957年)職場の先輩、見学玄・船戸竹雄
 両氏の知遇を得て梅田桑孤氏編集の「胴」 同人となる。
・昭和37年(1962年)「海程」入会、金子兜太に師事。
・昭和59年(1984年)より昭和62年(1987年)まで
 「海程」編集長。
・平成 3年(1991年)海程賞。
・句集に『多摩蘭坂』『秋情(あきごころ)』『秋の道(タオ)』
 著書に『秀句の条件』『金子兜太』共著に『現代の俳人101』
・現在、現代俳句協会副会長、海程会会長。


安西 篤 『秋の道(タオ)』 自選五十句

  春霞猫がひきずる寝巻紐
  沈黙の直球が来る桜闇
  火蛾舞うや醜の御楯という言葉
  蟇轢かれやがていつもの土となる
  打ち水やちょっとそこまで逝きし人
  憲法九条座敷に椿象(かめむし)いる気配
  女郎花もう死ぬといいまだ死なぬ
  秋の道(タオ)百をかぞえる間に暮れる
  色即是空紅葉の景をはみ出して
  かもめ来よ餌づけはキスの素早さで
  人日のあたまの下に在るからだ
  犬猫(ポチタマ)の芸めでたしや寿(いのちなが)
  創(はじめ)にことばそしてはじまる初景色

金子兜太一周忌会見


ゲスト / Guest

  • 嵐山光三郎

    作家
  • 河邑厚徳

    映画監督
  • 黒田杏子

    俳人
  • 下重暁子

    作家

2019年5月18日

句集『赤眼の腕』中内亮玄(なかうち・りょうげん)


中内亮玄(なかうち・りょうげん)略歴
金子兜太に師事 主宰誌「海程」同人
俳句結社「狼」同人 現代俳句協会会員
句文集「眠れぬ夜にひとりで読んでみろよ」
句集「青の麒麟騎士団」
随筆「兜太の遺伝子」


剥き出しの心臓である冬の汽車
車掌来て枯野を連れて行くように
黒縁の眼鏡に明朗なる大寒
別れ霜余震のテロップは無音
すれ違う人の傾き冬に入る
雪の夜は彼方の森が近くなる
桜散る僕らはまどろみの魚影
愛といいさくらしくしくと散らん
満開の空混み合うや花篝
桜とは無窮誰もが置いてきほり

2019年5月17日

『造形俳句六章』第一章~第三章

造型俳句六章 金子兜太(『俳句』昭和三十六年一月号~六月号)

第一章 主観と描写
 現在、ぼくらはどういう俳句を求めているのか、という素朴な疑問を考えてみたいと思うのですが、その場合、いままで使われてきた概念で、随分あいまいなものがあって、各人各様の受け取り方をしているため、どうにも話を進めにくいことが多いのです。今回はそのうちで、これから述べようとすることに基本的な関わりを持っていると思われる概念について、ぼくなりの整理と定着を試みたいと思います。その概念とは、主観という概念と描写という概念です。

 基本的な関わりを持っているという意味は、主観と描写という二つの概念が、子規からはじまる近代俳句史(このことも後で明らかになります)の基本――いわば二本の足――になっているということで、これを明瞭に理解しておかないと、現在の問題に入れないことになります。主観はいうまでもなく、俳句を作る人の内実の問題、描写は表現の手法の問題です。子規以降の俳句史のなかで、この概念がどう扱われたかをはっきりさせたいというわけです。(中略)

・・・子規は、俳句(すなわち文学)の美の基準は、固定的な超絶的なものではなく、流動的な時間的なものとみていたということです。そして、そうみていた理由は、あくまでも「各個の感情」の表現こそ俳句の根本の目的であると考えていたからでありましょう。だからこそ、芭蕉を正当に評価し、これを古典として位置付けつつ、同時に芭蕉を絶対視
する風潮に対決したわけでありましょう。また、蕪村俳句の示す流動する心情の姿を――‐必要以上に――高く評価したわけでありましょう。

 子規のこのような俳句観は、明治初期という解放感を伴った時期と照応させて考えるとなるほどと肯けるものがありますが、少なくとも、子規の念頭には、その程度はともあれ解放されてゆく個人(ザーインディビジュアル)の像が鮮明に宿されていたものと思われます。その個人は、それまでの、個人以上のものの所在に対する関心から徐々に離れて、自己の所在に対する関心に眼を向けます。自己の所在についての確認と所在自体の確定に努力することのなかに、個我(エゴ)の世界が形成されてゆきます。

2019年5月16日

『造形俳句六章』第四章~第六章

『造形俳句六章』第一章~第三章リンク

四章 主体
(前略)
 この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。
その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)

 素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)

 新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)

2019年5月14日

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

 俳句は人間不在である」あるいは、「現代俳句にいたって、
ようやく人間が所在するようになった」――という言葉を
よくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なので
ある。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るように
なり、戦後は、ムキになって、とりっいてきた。そして、今
後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。

 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、
まことに奇妙である。軽い受けとりかたで考えても、バカバ
カしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に
従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化
した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、
有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全精力をか
たむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、
まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当たらなくなる
ことはある。

2019年5月12日

「小林一茶」やけ土のほかりくや蚤さはぐ

文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ

火事あとの焼け土はまだほかほかとあたたかいです。蚤もいい気持でさわいでますわい。まだ元気です。

 文政10年、信濃紫にいる門人の久保田春耕にあてだ書簡に書きとめられている。前書に
「土蔵住居して」とある。
 この年の閠6月1日、柏原に大火があって、一茶の家も類焼した。焼け残った土蔵に仮住いしていたのである。妻のやをとは前の年に結婚している。

 この句は、そういう目常のなかでできたものだが、飄逸の風がある。被災をあまり苦にいない感じがある。しかし、湯田中で盂蘭盆を行ったときの句は、「御仏は淋しき盆とおぼすらん」とあって、淋しいということば以上に、しみいるような淋しさがあった。
「焼後田中に盆して」の前書じたいもひどく淋しい。

2019年5月11日

「小林一茶」 旅人や野ニさして行流れ苗

文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

旅人や野二さして行流れ苗

 流れた苗を拾って、田に挿してゆく。その人の影が水田に映りながら
遠ざかった。旅人でる。流れ苗にもこころが寄るのだろう。

 文政5年、一茶60歳の作。『文政句帖』は、句日記としては最後の
もので、[荒凡夫のごとき、59年が問、闇きよりくらきに迷ひて、云
云]と冒頭に書きつけてはいるかそれなりの成熟もある。『享和句帖』
(41歳)を中心に展開した一茶の感性的資質が、七番日記、八番日記
あたりで揉みに揉まれて、やっとここにきて、なんとない熟成をあらわ
すのだが、熟成即ち衰弱ともなる。この句帖の後段はかなりの老衰を感
じさせる。しかし「荒凡夫」の生と表現は、そういうものであって、円
熟などというものとは縁遠いところに魅力があるのだ。

 ところで、この句だが、同時期、「夏山やどこを目当に呼子鳥」という句が別にあって前書がある。それによると、隣国越後に選明という人がいて、自分を訪ねるといって出掛
けたのだが、行衛がわからなくなってしまった。そのため、その子が探しに出て、自分のところに尋ねてきたというもの。夏山の重なりを分け、越えて、父を探ナ子、また、その
重畳の山なみのどこをうろついているのかわからないその父の流浪-それが一茶のなかにずっと残ったのではないだろうかい北国街道をゆく旅人は多い。一茶は、あの人が、その父ではないか、と普段以上に気を使っていたのだろう。

2019年5月10日

「小林一茶」雀の子そこのけく御馬が通る

八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

雀の子そこのけく御馬が通る

そこをどきなよ 雀の子 ひんひんお馬が通るじやあないか うっかり
してると踏まれるぞ

 ――文政二年の作。「雀の子」は『歳時記』では晩春の季題で、巣立
ちのとき、地におちて、子供や猫に捕えられたりする。嘴が黄色いとき
なので「黄雀」ともいうが、燕の子は、巣のなかで大きな囗をあいて餌
を待っているところを題材にされやすいが、雀のほうは、この巣立ちの
時期がねらわれるんだね。一茶には別にも、有名な、「我と来て遊べや
親のない雀」があるが、この「親のない雀」が「雀の子」ということに
なって、無季の句ではなくなるんだよ。ちょっと、くるしいところだ。

2019年5月9日

「小林一茶」 痩蛙まけるな一茶是ニ有

七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

痩蛙まけるな一茶是ニ有

お前の味方はこの一茶だぞ。さあ、負けるなよ痩蛙。

 ――文化13年の作で、有名な句だが、内容は、軽い呼びかけ、いさ
さか戯れ気味の呼びかけととるべきものだ。この年には「時鳥なけなけ
一茶是に有り」もある。「一茶是ニ有」は軍記物にでてくる名乗りの調
子で、これがおもしろくて作っている節もある。

 ――この句は真面目すぎる受けとられかたをしていますね。前書にも
あるように「蛙たたかひ」を見にいって作ったもので、別の前書ではも
っとくわしく「武蔵国竹の塚で蛙のたたかいがあるというので見にい
った」と書いてあります。竹の塚は、奥州街道を千住から草加のほうへ
少しばかり入ったところで、現在は東武線の駅があります。蛙のたたか
いには二説あるんですが、一つは、蛙合戦ともいわれて、蛙がたくさん
集って生殖行為を行うことなんですね。雌は一匹で、雄が大勢だから、
どうしても雄どうしのたたかいになる。痩せたやっは分がわるい、と
いうわけです。いま一つは、一匹の雌に数匹の雄を向かわせる遊びで、
金銭を賭けることもあるそうです。どうも最初の説のほうが、この句
にはふさわしいようにおもいます。高調子で、戯れて呼びかけるには
蛙合戦のほうがいいですよ。

2019年5月8日

「小林一茶」 初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

ことしはじめての蝶がとぶ。ひらひらとやさしいが、けだけしいほどの勢いがある。春がきたのだ、勢いにみちて。

 文化元年の元日から、句日記『文化句帖』を書きはじめている。けじめに、「今歳革命
の年と称す。つらつら42年、他国に星霜を送る」(原文は漢文)と書きとめているが
この年の干支は甲子にあたり、いわゆる革命の年とされる。享和四年を文化に改めたのも
そのためで、辛酉の年が革命の年とされ、ともに改元などがよくおこなわれた。

 こういう干支への関心は、一茶が、詩経とともに易に食指を勁かしていたことによる。
四十歳をすぎて、なお独り江戸暮しをしている自分の命運を見定めようとする気力が、湧
きはじめていたのかもしれない。交際も広くなり、故郷柏原の人たちとの交流も増えてい
る。そして秋には、本所相生町5丁目に家をもつ(借家だが)。家をもつと、さらに訪問客も増えて、業俳のほうも、なんとなく安定してくるようだ。

 そんな時期の句である。父と立砂の死後の〈放浪〉期が、ようやくおさまってゆく感じ
もある。漂泊の月日にかわりはないが、放浪に窶れていた身が、なんとなく鎮まってゆく
のだ。

 その復調の気力-それが、この句の根にあり、一茶は時季の勢力を蝶にみている。彼に蝶の句は多く、この『句帖』中にも好句が多い。しかし、

  手のとどく山の入日や春の蝶
  町囗ははや夜に入りし小蝶哉
  蝶とぶや狐の穴も明かるくて
  かつしかや雪隠の中も春のてふ
  初蝶の一夜寝にけり犬の椀

 と挙げてみても、これらの蝶が、一つとして「いきほひ猛に見ゆる」もののないことが
わかる。可憐な、優しい、明るみをおびたものである。その点、掲記の句は一茶の蝶俳諧
のなかでも特殊なものといえようし、それだけに、彼のこのときの気持をあらわしていて
おもしろいわけなのだ。

 何桜かざくら銭の世也けり
なんだかんだと桜に名をつけて、稼ぎにかかってる。銭の世だなあ。

 文化2年の作。世相をズバリうたっている句だが、先ほど挙げた「辻訊ひ」や「和尚
顔」の句のように直接に情景を描くのではなく、情景全体の印象を、やや観念的な映像に
仕立てあげるのだ。

 この種の作品は、この後もずいぶん作っているが、貨幣経済丸浸りの江戸に住んで、一
茶の〈銭の苦労〉も並大抵ではなかったのだ。おもしろいエピソードがある。

 この句から5年あとのことだが、一茶は夏目成美の家の留守番をしていた。成美は井筒
屋八郎右衛門といい、父祖代代、浅草蔵前で札差業を営んでいる金持で、一茶のことは、
早くからよく面倒をみていた。一茶も何かといえば成美のところに転がりこみ、晩年、柏
原に帰住してからも、じつにしばしば文通し、句の添削まで乞うている。

 その成美なのだが、ちょうどそのとき、金箱の金がなくなったのだ。留守をしていた人
たち全部が足どめをくうことになり、とうとう8日もとめおかれることになった。結局、
金は出ないで、一応無罪放免ということになったわけだが、一茶の心中はおだやかではな
かったようで、『七番日記』(この『文化句帖』の次の句日記)に、「我モ彼党ニタグヘラレテ不‘に許こ=他出(おれも連中同様ものとりの一人に疑われて、外に出してもらえなかった)と、うらみがましく書きっけていた。

 こういうきびしさが、銭金についてはあった、ということで、親友も知己もあったもの
ではない、という感じが、一茶にはカチンときていたにちがいない。
 だから、銭については、似たような句が多い。どれ一つ、あまり好句とはいえないが。

  羽生へて銭がとぶなりとしの暮
  町並や雪とかすにも銭がいる
  御仏や寝てござつても花と銭
  二三文銭もけしきや花御堂
  今の世や蛇の衣も銭になる
  朝顔を花にまでして売るや人
  土一升金一升や門涼み


初霜や茎の歯ぎれも去年迄

茎漬を歯切れよく食べることができたのも去年までだった。もういけない。歯が言うことをきかないわい。初霜だなあ。

 文化3年、44歳にして、一茶の歯は茎漬をさりさりと噛めなくなったのだ。歯の弱まり。茎漬は、訟や大根の茎を葉とともに塩押しして漬け、寒い季節の食用とするもの。歯切れの感じが味の大きな要素だから、これではいけない。一茶はがっくりしている。

 「初霜や」は、はじめて霜のおりた朝の体験ととってもおかしくはないわけだが、いやはや、自分にも初霜がきたわい、という思い入れを加えて読みたい。思い入れが入ってもなお、理屈倒れしないところがよいわけなのだ。つまり、思い入れが、初霜という語のひびきになっているところがよい。

 一茶の歯は51歳で全く抜けてしまい、「すりこ木のやうな歯茎も花の春」ということになる。また、この44歳のときには、「梅干と皺くらべせんはつ時雨」という句もあるから、梅干婆さんならぬ梅干爺さん的皺の寄りぶりを呈していたのかもしれない。一般的にいって、当時の人が当今より年をとりやすかったことに間違いはない。(一茶は、彼の記録類から窺うと、皮膚病の関係以外は、頑健だったようだし、だいいち、じつによく自分の健康に気を配っていた。薬類についてもなかなか知識がある。その男にして然りである。)


2019年5月7日

「小林一茶」 吹かれく時雨来にけり痩男

吹かれく時雨来にけり痩男
享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

時雨のなかを男がやってくるんだが、風に木の葉の感じ。からだは団扇のようにへなへなしている。痩せ男のあわれさ、おかしさ

 「時雨」はさっと降って、さっとあがり、断続して降るかとおもうと、しばらく降りっづいたりする。ときには山から山へ移動し、野をわたる。「鷺ぬれて鶴に目のさすしぐれかな」(蕪村)のように、ひとところは時雨れて、ほかのところには陽が当っていることもある。

 『歳時記』では冬だが、一茶『寛政3年紀行』では、4月(旧暦)の半ばごろ、「いせ崎の渡り」(今の群馬県伊勢崎市と埼玉県本庄市とを結ぶ利根川の渡しだった)で出あった雨でも、この土地の人たちはしぐれというと書きとめ、「人に見し時雨をけふはあひにけり」の句を作っている。土地によって、移動して降る雨を、季節にこだわりなく時雨というところもあるということで、一茶の句は、移りゆくものとの〈出会い〉の縁にひかれてぃるのである。孤独者のこころに映る運命というものの翳なのだ。

 掲記の作品は、あきらかに初冬の季感を土台にしているが、時雨の移りゆくぃきおいを
無視できない。双方が一緒になって、いかにも苛苛としている。痩せ男に降りかかり、降
りつのり、やがて去ってゆく、運命のような時雨。痩せているだけに骨身にこたえること
だろう。


2019年5月6日

「小林一茶」 ひとりなは我星ならん天川

ひとりなは我星ならん天の
歴裏句稿(1802年)――40歳

はるばると空をながれる天の川。そのそばにいっもひとりでいる星。ぼんやりと、にぶくいる星。あれがおれの星なんだ。いや、あれがおれの姿なんだ。

 よき先輩立砂につづく父の死。そのあとの遺産相続問題、そして、40歳になる一茶。
一茶の〈修業時代〉は終った。
 この1年間、一茶の消息はよくわからない。江戸に帰っていたことには間違いないが、なにをしていたか定かではない。この作品も古暦の裹に書き連ねてあったものの一つで、
一茶はこころの荒みに耐えていたのだろう。

 そのため、古暦裹の句句は、孤愁に沈んでいて、それまでの、なんといっても、どこと
なく弾みがあり、哀寂といっても感傷の甘さを主調にしていた時期とは違ってくる。じっ
と見るすがたがあらわれてくる。この句も、陋居にあぐらをかいて、上眼づかいに江戸の
夜空を見つめている感じがある。むろん、やもめ暮しで、茶碗が膝の辺に転がっていたろ
う。あるいは、ひとり巷に出て、頭の上の天の川を追いつつ、歩いていただろう。そのと
 きも、眼は妙にしっかりしていて、ひとつの星を見定めていたのだ。

 正月早早、一茶はこんな句を作った。「門松やひとりし聞けば夜の雨」。七夕のとき、たまたま洪水があった。「助け舟に親子落ちあふて星むかひ」。私の好きな次のような句もある。「有明に躍りし時の榎かな」、「鴫どもも立尽したり木無し山」。みな、中年にして肉親を失った、ひとりものの句だ。

 星といえば、一茶には星の句が多く、「わが星」も多い。この頃から小動物や昆虫たち
の句も増えるが、星への関心にも似たものがある。わが星の句を並べてみよう。

  我星はどこに旅寝や天の川         (41歳) 
  我星は上総(かづさ)の空をうろつくか   (42歳)
  我星はどこにどうして天の川       (50歳)
  我星はひとりかも寝ん天の川       (60歳)

 このうち、第1句の「どこに旅寝や」が、第3句の「どこにどうして」に改められたら
しい。義太夫節の一節が入ってきて、すっかり余裕をつけた印象である。第4句の「ひと
りかも寝ん」も、冒頭掲記の「ひとりなは我星ならん」を改作したもので、万葉集巻11
゛異本゛の゛足引きの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む」からの本歌どりである。

 なお、大正から昭和期に活躍した高浜虚子に「われの星燃えてをるなり星月夜」という
作品があるがヽ一茶の作品と対蹠的である、自信と気力があるから、天の川の流離感では
なく、星月夜の絵画的な空間を好むのである。一茶は終生、この虚子の句のような、ぐっ
と構えた作品を作ろうとはしなかったようだ。

2019年5月5日

「小林一茶」 足元へいつ来りしよ蝸牛

足元へいつ来りしよ蝸牛
(あしもとへ いつきたりし かたつむり)
父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

足元に来ている蝸牛に、いままで気づかなかった。気持が父のことに囚われていたせいだ。
 立砂の死んだ翌々年の四月、一茶は久しぶりに柏原に帰ったが、その帰郷中に父の死に
会う。病気は悪性の傷寒(今のチフスのような熱病)といわれ、一ヵ月ほどわずらって他界した。享年69九歳。祖母既になく、父も死に、一茶には故郷に頼るべき人がなくなる。
それに加えて、継母とその子仙六(異母弟)を相手とする遺産相続問題が残る。しかも、
一茶もようやく四十歳に入る。老後を考える年齢になってゆくのだ。
 この文章は、父が突然倒れた日から初7日までの日記風の記録だが、心理や感情への眼
くばりといい、ドラマチックな筆のはこびといい、むしろ短篇小説の印象で、しかも、虚
構や誇張にしても、修辞にしても、ずいぶん個性的になっている。一茶独自の表現が展開
する、その出発点にあるものとおもう。

 この作品、倒れた父が小康を得たときのもので、安堵感が表現されている。この日記に
は少ないが、大方が技巧的にも完成したもので、充実感がある、むろん完成したもの足りなさもあるが――。

2019年5月4日

「小林一茶」君が代や茂りの下の耶蘇仏

君が代や茂りの下の耶蘇仏
寛政句帖・寛政4年~6年 (1792-1794 30歳-32歳 )

木の茂りのかげにキリシタンの「耶蘇仏」があった。こうして無事なのも、御時勢でござんすよ。

 寛政5年の作。秋ごろ大坂から四国に渡って、讃岐観音寺(今の観音寺市)の専念寺にゆき、五梅和尚を訪ね、それから九州へゆく。この年の正月は肥後八代(熊本県八代市)正教寺で迎えているんだね。やはり君が代で「君が世や旅にしあれど笥の雑煮)という句を作っているが、これは『万葉集』有間皇子の歌のもじりだ。正確ないいかたではないが、まあ、本歌どりといっておこう。皇子の歌は、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」――
 ――この寺の住職西天庵文暁は、有名な『花屋日記』の著者でしょう。

2019年5月3日

『小林一茶』蓮の花虱を捨るばかり也



蓮の花虱を捨るばかり也
 (はすのはな しらみをすつる ばかりなり)
   寛政3年紀行・寛政3年(1791・29歳)

蓮の花がきれいですね。でも、私は虱をひねっては捨てるばかりなんです。こんなのを、「景色の罪人」とでもいうのでしょうか。自分ではそうとばかりもおもっていないんですが。


2019年5月2日

『小林一茶』はじめに 金子兜太

はじめに

小林一茶は、宝暦13年(1763年)5月5目、北信濃の柏原に生れ、文政10年(1727年)11月19日、その地に65年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約40年、徳川幕府も終りに近い時期で、今からみれば約150年以前に当る。息をひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに一軒前の伝馬屋敷をかま
える本百姓で、その地位は村内で中の上」(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑百姓の出ではなく、いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのままそこに止って、家督相続できる立場にあったということである。晩年、「世が世なら世ならと雛かざりけり」と作っていたが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起囚する離郷、江戸住い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが28歳(寛政2年、1790年)
だが、それまでの十余年は不明のことが多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりし
ない。ただ、下総馬橋(今の千草県松戸市)で油屋をやっているかたわら、柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在が示談な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者に恵まれていたのである。

2019年5月1日

『小林一茶』金子兜太  一茶トップページ


句による評伝小林一茶 小沢書店

句による評伝小林一茶 はじめに 金子兜太

蓮の花虱を捨るばかり也
 寛政3年紀行・寛政3年(1791)29歳

君が代や茂りの下の耶蘇仏 
  寛政句帖・寛政4年~6年(1792-1794 )30歳-32歳

足元へいつ来たりしょ蝸牛
  父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

ひとりなは我星ならん天の川
 歴裏句稿(1802年)――40歳

・ 吹かれく時雨来にけり痩男
 享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
 文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

是がまあつひの澄栖か雪五尺
七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

雀の子そこのけく御馬が通る
八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

旅人や野ニさして行流れ苗
文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ
文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳







2019年4月30日

金子兜太略年譜



金子兜太略年譜  1.誕生から30歳

■1919 大正8年
9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父盆地
皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。父は東亜同文書院校医として上海に在住。
上海むで父と
■1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。
母と兜太

2019年3月1日

金子兜太生家句碑「おおかみを龍神とよぶ山の民」

おおかみを龍神とよぶ山の民  金子兜太


撮影の帰りに皆野町に出て長瀞方面へ、金子先生の実家の
金子医院の前を通るので、句碑見たさに寄ることにしました。
去年の暮れに甥の桃刀(ももと)氏が建てました。
兜太先生、桃刀(ももと)さん、真土(まつち)さん、みんな名前が
変わっていますね。先生の父上の伊昔紅さんの命名とか。
今で言う"キラキラネーム"の先駆けです。

句碑は庭にあった石に彫ったそうです。
先生のエッセーを読むと、病いを見て貰った患者が御礼に石を
届けたとか、庭に秩父の緑泥片岩と思われる石がいくつも
据えられていました。