2020年6月24日

兜太オリジナル「立禅」

 
蛭田有一オフィシャルサイト(蛭田氏から金子兜太写真を提供)
                  http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/


金子 近ごろね。いろいろと人にもよくたずねられるんですよ。私の「立禅」についてね。
 それで、ここでそのありのままのことをお話したいと思って、よく考えてみたらね、黒田君。あなたがまとめてくれた歌人の佐佐木幸綱氏との『語る 俳句短歌』ね、藤原書店から出た。九十歳の私と七十歳の幸綱氏が、秩父の長瀞の長生館で一晩泊まりがけで語り合って出来た本だが、あそこで、佐佐木氏の質問にこたえる形で、とても具体的にしゃべってますな。あの本のあの部門を再録してもらうことがいいんじゃないかなあ。

佐佐木 立禅だから、立ってやるんですか。

金子 ええ。名前のとおり単純です。立ってやる。車中で坐ってやることもある。黙って突っ立っているから禅みたいなものだという程度のことです。どうやるかというと、長年の間に亡くなった人で、自分にとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろ、つまり私にとっての大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言ってゆくのです。今、二百人くらいになっているかな。数えませんけれど、あまりふやしても覚え切れないし、時間をとっちゃうからね(笑)。

佐佐木 最初は何人くらいから始められたんですか。

金子 えーっと、最初は二十人くらいのもんだね。

佐佐木 最初その名前は、リストアップというか、書きだしたんですか。

金子 いや、はじめから頭の中だけです。

佐佐木 そのリストは亡くなられた順ですか。

金子 でもないです。とにかく、最初に言うのは私の郷里の、皆野の本家の菩提寺、円明寺の坊主です。今の前の代、つまり先代の倉持好憲和尚を私はえらい好きでね。彼とは「肝胆相照らす」という関係があったんです。彼が死んだとき、この男の名前は言い続けたいという気持ちがあったんだなあ。背が高くて、坊さんの大学があるでしょう、そこの剣道部の主将をしていた。全国優勝をした。

剣道の達人です。鋭いです。恐らく幸綱さん好みです。私か銀行を退職して家へ帰ったとき、ちょうど好憲和尚が来て、「おお、よく野垂れ死にしねえでな」と言われたのを覚えています。いきなりこのオレにそう言いやがった。そういう男ですけど、何だか好きでね。その彼が一番。


2020年6月23日

金子兜太の忘れえぬ人々

管理人のブログ「竹丸通信」にもお寄り下さい



三橋敏雄
(1920-2001)
 ずいぶん昔になるが、長崎に住んでいたとき、この人から手紙を貰ったことがある。長崎港に近い海を航行中だが、寄港しない。元気に。という簡単なものだったが、南支那海の海の匂いが、この人の体臭を込めて、たしかに小生に伝わってきたのである。海の男三橋、どこか飄然と、おとぼけ気味の敏雄。

  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
 この美しい抒情の韻律に触れたときもまた。

 三橋は十代の「新興俳句」のときから、その才能が注目されつづけてきた。ことに初期の山口誓子の推輓は記憶に残る。その三橋の、どことなくとぼけつつ、反戦の意思を刻んでゆく句作りに、小生は注目してきた。

  死の国の遠き桜の爆発よ
 被爆の広島、長崎を抱え、惨憺たる敗戦の桜の国日本。そして、「戦争にたかる無数の蝿しづか」は言いすぎて緩いが、

  戦争と畳の上の団扇かな
になると、おとぼけが効いて、思わず「団扇かな」を見詰めることになる。
 2001年われわれは「戦後俳句」の才能を失ったのである。



金子兜太の忘れえぬ人々


伊昔紅と兜太

金子伊昔紅(1898-1977)
 父・元春(俳号伊昔紅)は、秩父盆地(埼玉県西部)皆野町の開業医。自転車で往診していた。民謡・秩父音頭を楽しみ、俳句は水原秋櫻子に共鳴して支部句会を催していた。集ま

る者多く、人呼んで「皆野俳壇」と言う。戦前は男性のみ。戦後、馬場移公子のような傑出した女性も出現。集まる者、伊昔紅の「往診の靴の先なる栗拾う」を口にし、〈暮らしのうたえる俳句〉を求めていた。山国は貧しく、人々は息を詰まらせていたのだ。


波郷(1913-69)と友二(1906-86)
 戦前の皆野俳壇の人たちにいちばん人気があったのは、石田波郷で、主宰誌「鶴」に入会する人が多かった。夏など、ぶらりとやって来た波郷を囲む会は、すぐ盛り上がり、白地の

浴衣に長身長髪の人は、徳利と猪口だけの独酌で、ぼつぼつと喋る。まさに「女来と帯纏き出づる百日紅」たった。二代目の主宰石塚友二は逆の野趣満々。わが家に泊まって大酒し、夜中に横の男をゴロゴロ乗り越え、翌朝また乗り越えて戻っていた。父は友二を好んでいた。

竹下しづの女(1887-1951)
 珊太郎に勧められて、「高校学生俳句連盟」の機関誌として、九大生の竹下龍骨たちにより福岡で発刊されたばかりの俳誌「成層圏」に参加したのが、昭和十三年四月。龍骨の母

は、当時すでに「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」で有名だったしづの女。入会してすぐ「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」を見て、この男尊女卑の戦時下で、よくも、と目の洗われる思いだった。雑誌は昭和十六年五月、短期間で終わるが、小生の受けた影響は大。



2020年6月1日

兜太の一句


合歓の花君と別れてうろつくよ 兜太

 みな子他界のあとは、生前の細かい言葉遣いや仕種が、何彼につけて思
い出されて辛かった。どれほど自分が勝手に振る舞ってきたかと思うこ
とも頻りに。「君」は言うまでもなくみな子。「うろつくよ」がその後悔
を抱えつつ、なんとも頼りない気持ちで暮らしている自分。福井の俳句
仲間と別れ、トンネルを抜けて滋賀に出たとき、車窓に合歓の花が覗い
たのである。そのとき「うろつくよ」の言葉がとび出す。  (『日常』)

君と言うのは、奥さんの皆子さんです。10年あまり癌を病み亡くなりま
した。トラック島から帰り、お見合いながら可憐な皆子さんに恋した兜太
でした。
皆子夫人の実家は有名な眼科で、今でも皆野にあります。
金子先生は昔の男ですから、やはり亭主関白で仕事に俳句に忙しかった
夫を支えたのは妻でした。
甘え放題だった妻がいなくなり心に穴があいたのでしょう。
「君と別れてうろつくよ」と妻恋の金子先生です。
合歓のピンクの煙るような花は老いても、美しかった皆子夫人そのものです。

2020年5月12日

NHK アーカイブス 金子兜太



 1/2 【 金子 兜太/かねこ とうた 】/文化講演会・わが俳句人生(1)(1998(平成10)年3月15日放送)


2/2 【 金子 兜太/かねこ とうた 】/文化講演会・わが俳句人生(2)(1998(平成10)年3月15日放送)


NHK  アーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010555_00000

平成30年2月に亡くなった俳人・金子兜太さん。季語や花鳥諷詠といった伝統的な形式にとらわれず、戦争の悲惨さや社会問題を題材にして自由な俳句の世界を築き、人気を集めた。金子さんは大正8年埼玉県生まれ。旧制高校時代、友人に誘われて句会に参加したのをきっかけに俳句を始める。大学卒業後、海軍中尉として赴任したトラック島で悲惨な消耗戦を体験。復員後は日本銀行で働きながら反戦・平和の句を読み続けた。昭和58年から17年にわたって現代俳句協会の会長を務め、テレビの俳句番組にも数多く出演、俳句の普及に貢献した。平和への祈りを17音に込め魂の自由を詠い続けた98年の生涯だった。


2020年5月9日

兜太の「愛句百句から」大き背の冬の象動く淋しければ  

大き背の冬の象動く淋しければ  芦田きよし

  この句をつくったときの芦田きよしは、神戸の高校生だった。
港にむかって傾斜した街をおりてゆくときの白っぽい空気が感じ
とれ、眼鏡をかけた色白の芦田の細めの首筋が見えてくる。

かれはこのあと哲学を学び、京都大学の大学院に籍をおいていたが。
二十五歳で死んだ。腸閉塞の手術台に、「物理的に処理するんや」と
いって上ったのだそうだが、それが最期だった。

死は昭和38年(1963)の暮。もう15年も前のことになる。
 芦田は象を間近に見ていた。しかし、「大き背の冬の象」という
いいかたからは、ただ見ていただけではないことがわかる。
象の背筋を大きいと見上げたとき、ああ、「冬の象」なんだなあ、
とおもっていたのである。そのおもいにとらわれているとき、象の
背がくらりと動く。
おや″とおもい、おもったとき「淋しければ」(淋しいから動いたんだ)
という感応がことばになる。

 すでに高校生のときから、芦田は論理に潔癖だった。こまかな、
きちんとした字を、(ガキいっぱいに書きこんだかれの便りの清潔感が
忘れられない。かれの友人は、「論理の清潔さとは、短命の思想に他な
らない」と書いて、よき才能の夭折を倬んでいたほどだが、私はそこ
に、論弁に明晰であろうとする芦田の誠実さを見ていた。したがって
論弁がくもるときは、それを不誠実として痛く恥じ、その恥じる様子の
卒直さには飄逸ささえあった。誠実な知性こそ、ときに飄逸なりとおも
いつつ、この句を読むと、どこかにその飄逸の気配が感じられてくる。
若い芦田は、神戸の冬景色のなかの象に、はやくもかなしみをおぼえて、
明晰にはなりきれなかったのだろう。

海程歳時記にある句です。

キャバレー裏に玉ネギ積むわが夜の海  芦田きよし

2020年5月8日

金子兜太 自筆100句

入院中食欲があったんですね
蛭田有一氏写真提供

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2020年5月5日

『今日の俳句』金子兜太 


金子兜太 「俳句専念」から『今日の俳句』出版経過を転載

 光文社のカッパブックスの一冊として、『今日の俳句』を書いたのが昭和四十年。いままでの俳論の総まとめであり。しかも一般向けの入門書として、引用句をたくさん盛り込んで書いた。第一章が「新しい美の開花」。わたしの俳句人生の一路標である。

 その時期、日銀のほうは、為替管理法関係の許認可事務をやる管理係長に横すべりしていた。歳末もたいした事務はなく、係の人三人と生鯖を肴に痛飲した。わたしは鯖が好物なので大いに食べたのだが、すこし傷みもきていたらしい。元朝からひどい蕁麻疹にやら
れ、癒えたあとも風邪をひきやすくなって、喉が痛い。齢四十六歳、

この辺がタバコの止めどきとおもって、実行した。長年の猛煙のあとだけに未練がない。
それに、これで一生すえない、と悲観しないで、いつでもすえる、すうときは世界最高級のタバコを、と自分にいいきかせたのがよく効いた。いまではタバコをすっている人を見ると気の毒でならない。

『今日の俳句』を書いたのがその年だったので、タバコ代りに緑茶をがぶがぶ飲んだのがよかった。わたしの緑茶好きはそのとき以来で、コーヒーや紅茶、ウーロン茶より緑茶を好む。――なお、サブタイトルの「古池のくわび〉よりダムの〈感動〉へ」は、編集担当
の人が小用中に湧出させたもの。いまでは、「地球の〈感動〉へ」としたい気持だが、いわゆる高度経済成長への人口にあった当時としては止むを得まい。

 その出版記念会に、敬愛する詩人金子光晴氏が出席して下さったのは感激だった。しかし。氏は開口一番こういったのである。「敬愛す人には会わないほうがいいよ。会うとがっかりするからな」。 
                       
『今日の俳句』の出版について「ベストセラー全史」澤村修治史は、カッパブックスを出した光文社は新潮社の子会社で、弱小の出版社だった。
戦後最大の出版プロデューサーと言われた神吉晴夫は" 英語に強くなる本 で"ミリオンセラーをなった。
彼はベストセラー作法十か条で
・読者層の二十歳前後に置く。
・若い世代の純粋な感性に訴えるもの。
・この世で初めてお目に掛かったという新鮮な驚きや感動を伝えるもの。
・著者は読者のなかにもやもやしているものを形づくる役割を担う。と述べている。
当時の金子兜太は伝統俳句とは一線を画す俳句の書き手であり俳壇に新鮮に空気をもたらす存在だった。(竹丸)

『今日の俳句』 光文社カッパブックスのち文庫化 1965年9月]定価552円
 1・新しい美の開花 
 2・ドラム罐も俳句になる 
 3・描写からイメージへ
 4・五・七・五と「や」「かな」5・俳句は詩である
平成3年2月 知恵の森文庫で復刊   596円(税込)


2020年5月1日

1『金子兜太戦後俳句日記』

写真は蛭田有一氏提供

『金子兜太戦後俳句日記』をアップします。
著作権者の、金子真土氏に了解を得ています。


昭和32年1月2日(水)雨 (昭和37年1月から記録されています。)
奥田こうきの遺した俳句を五十句選び、「奥田こうきの手紙」十九枚を書く。

1月5日(土)晴
夜、七兎と女の子。それから六林男、林徹子来る。「現代俳句」を楠本の手で再刊するとか。波郷が顧問。とか。

1月7日(月)曇
休む。岡井隆の歌集「斉唱」の書評を書くが、どうも意に満たない。短いものなのに書けぬとは残念。清潔な、ややアカデミックな歌。観念について! !‥

1月9日(水)睛
「行友」で少年の書評をしてくれる。中島斌雄が「俳句」で小生の句について晝いてくれる。双方共に好意的。

2020年4月6日

『造形俳句六章』第四章~第六章

『造形俳句六章』第一章~第三章リンク

四章 主体
(前略)
 この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。
その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)

 素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)

 新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)

2020年4月5日

『造形俳句六章』第一章~第三章

造型俳句六章 金子兜太(『俳句』昭和三十六年一月号~六月号)

第一章 主観と描写
 現在、ぼくらはどういう俳句を求めているのか、という素朴な疑問を考えてみたいと思うのですが、その場合、いままで使われてきた概念で、随分あいまいなものがあって、各人各様の受け取り方をしているため、どうにも話を進めにくいことが多いのです。今回はそのうちで、これから述べようとすることに基本的な関わりを持っていると思われる概念について、ぼくなりの整理と定着を試みたいと思います。その概念とは、主観という概念と描写という概念です。

 基本的な関わりを持っているという意味は、主観と描写という二つの概念が、子規からはじまる近代俳句史(このことも後で明らかになります)の基本――いわば二本の足――になっているということで、これを明瞭に理解しておかないと、現在の問題に入れないことになります。主観はいうまでもなく、俳句を作る人の内実の問題、描写は表現の手法の問題です。子規以降の俳句史のなかで、この概念がどう扱われたかをはっきりさせたいというわけです。(中略)

・・・子規は、俳句(すなわち文学)の美の基準は、固定的な超絶的なものではなく、流動的な時間的なものとみていたということです。そして、そうみていた理由は、あくまでも「各個の感情」の表現こそ俳句の根本の目的であると考えていたからでありましょう。だからこそ、芭蕉を正当に評価し、これを古典として位置付けつつ、同時に芭蕉を絶対視
する風潮に対決したわけでありましょう。また、蕪村俳句の示す流動する心情の姿を――‐必要以上に――高く評価したわけでありましょう。

 子規のこのような俳句観は、明治初期という解放感を伴った時期と照応させて考えるとなるほどと肯けるものがありますが、少なくとも、子規の念頭には、その程度はともあれ解放されてゆく個人(ザーインディビジュアル)の像が鮮明に宿されていたものと思われます。その個人は、それまでの、個人以上のものの所在に対する関心から徐々に離れて、自己の所在に対する関心に眼を向けます。自己の所在についての確認と所在自体の確定に努力することのなかに、個我(エゴ)の世界が形成されてゆきます。

2020年2月29日

「金子兜太写真」蛭田有一氏提供

蛭田有一オフィシャルサイト(蛭田氏から金子兜太写真を提供)
                  http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/
朝の立禅の兜太先生
鬼籍の人たち120人以上の名前を称え最後は父、母、妻、犬猫で終えました

2020年1月28日

句集『鶏頭』岸本マチ子



自選12句

かなぶんに好かれて女盛り越す

六月の地軸はことに軋みおり

かやつり草何故かここから出られない

日焼して父より母より生きている

晩夏光まだ変身の途中です

鶏頭のとさかの様に猛り立つ

自萩ゆれ夢の中までどどと兵

さみしさの前後左右を存という

路地裘におぼろの墓ある那覇の街

春惜しむわたしの中にも駅がある

晩夏いま去りゆくものの影をふむ

大寒がどっかと座る壺の中

2020年1月8日

句集『敵は女房』並木邑人



略歴
1948年 千葉県市原市生れ
1986年「海程」入会、金子兜太に師事
1992年 現代俳句協会会員、[海程]同人
1994年 父並木凡生句集『帰燕』編集発行、句集『遊陣』発行、合同句集『海程新鋭集第4集』発行
1999年「遊牧」同人
2012年 共著『|現代俳句を歩く』発行
2016年 共著『現代俳句を探るj発行
2018年 師金子兜太逝去、「海程」終刊。後継誌「海原」創刊同人、「遊牧」同人
現 在
現代俳句協会理事 千葉県現代俳句協会会長、市原市俳句協会副会長

帯            檜垣梧樓

宿敵は  ずっと女房   秋ざくら

 宿敵とは実力が伯仲する競争相手のこと。好敵手ともいい、
相手に対する敬意のようなものが含まれる。邑大と奥様は
文学のみならず人問学の競い合いをして来たのでは。それ
も邑人の学生時代から。照れくさそうな邑人の顔が見える
が、掲句、邑大が気合いを込めて表明する奥様への愛であ
る。句集名『敵は女房』の拠って来たる所以である。
                      
自選十句

一角獣座より伝声管の冬ざくら
満員電巾擬態の青柚子をさがす
洗濯機に入れておしまい邑人句集
星読みによき鯨骨の椅子二脚
MRI画像のあっ風花
熱帯夜この寝室も野辺のひとつ
春昼のフンコロガシになってやる
街も春川もことごとく薙ぎTSUNΛMI来る
憲法は死にますか今朝蕗を煮る
シナモンをさっと振りかけ秋霖デモ

2019年10月30日

文化功労賞受賞、宇多喜代子さんにお祝いを申し上げます




文化功労賞受賞、宇多喜代子さん。精神性も社会性も悲喜も織り込む独自の俳句の方法を見いだし、著作では歴史の隙間に埋もれた無名の俳人も取り上げた。84歳。

宇多さんが文化功労賞を貰い嬉しかった。飾り気の無い人柄と豊富な知識に圧倒されました。
秩父の俳句道場に何回かお迎えして戦争体験など話して頂きました。
このビデオは竹丸が撮りアップしました。

アメリカの従姉妹の家に遊びに行き、そこで元歌手のアメリカ人から一束の手紙を渡された。歌手のメリーアンさんは硫黄島訪問の折、洞窟で手紙を発見、無視するのは忍び難くいつか家族に返したいと持ち帰り保管していたそうです。

メリーアンさんの手紙を託された宇多さんは、椎葉村と住所から伝手をたどり探したがなかなか見つからず、諦めかけた頃、俳人の津沢マサ子さんの母上が椎葉出身で思い出してくれ、手紙の主の娘さんさんと連絡が取れ椎葉まで届にけに行った。親戚、村人に迎えられ法要を営み手紙は故人の家族に返ったそうです。
ひとたばの手紙から」にもその経緯が書かれています。

2019年10月5日

DVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道

 金子兜太のDVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道が発売になった。ただ、懐かしく夕べは泣いた。
このインタビューを終えて数時間後、意識不明となりそのまま亡くなった。
そして竹丸は先生の著「他界」を読み信じるようになった。
天上には亡くなった人たちが寄り添い私たちの来るのを待っていると言う。金子先生がまず逢いたいのは両親と妻の皆子さんだそうです。

 きっと天上で大句会が開かれ、海程先輩たちが集い侃々諤々だろうなと思うと可笑しくなる。金子先生の裁く句会に出てみたい。死は怖くないのです。


このインタビューを終えて数時間後、兜太さんは体調を崩し緊急入院されました。そのまま意識が戻ることがありませんでした。
■2018年2月20日 98歳の生涯を閉じる

 東西南北若々しき平和あれよかし   兜太

金子 それじゃ、若々しき平和とはどんなもんか、要するに、茹でたての馬鈴薯みたいなものでね、湯気が立ってて、果肉は非常にこう柔らかく、食べやすくてね、誰でも飛びつけると、いう風なそういう内容のものであればよいと。そういう風に思ってるってことです。そのことを言ったつもりだったんですがね、これ、ええ。

河邑 この俳句の言葉どおり取りますと、若々しき平和って書いてありますよ。この平和っていうのを、兜太さんがまさに若い世代に伝えていきたい言葉じゃないんでしょうか。今の平和を。

金子
平和ってのがいちばん基礎、基礎。基礎だと思いますね。だから、図々しい平和という風なものが基礎に無いと、本当の平和の時代なんていうのは無いんじゃないでしょうかね、ええ。図々しいっていう言い方が必要だと思いますね。

河邑 図々しいってどういう意味ですか?

金子 腹を据えて、びくともしないという、そういう集団、そういう人間たちの集まり。それが図々しい。腹を据えてびくともしない。


   人生は生きている期間流れている しかしどこか求めてることがある
 求めてることで強く自分を支えている 俺はただ流れているだけじゃないと


金子 あのー、自分の人生ってものは、生きている期間だけ流れてるんだ。しかしどっかで求めてることがあって、そうなってるんだと。逆に、求めてるってことを剌激して、さらに強く求めてると思って自分を支えてるんだと。俺はただ流れてるだけじゃないと。そういう弁証法を一種、自分の中で用意して、悠々と考えてるんだ。

『天地悠々』の欲しい方は、堀之内氏に申し込んで下さい。
4千円です。
メール  horitaku@ka2.so-net.ne.jp






2019年9月21日

9/23(月・祝)「金子兜太百年祭 in皆野町」を開催


日 時  2019年9月23日(月・祝)
12時30分開場 13時30分開会
会 場  皆野町文化会館ホール
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423番地

主 催  「兜太TOTA」編集委員会
皆野町、皆野町教育員会、皆野町商工会、皆野町観光協会
問合せ  皆野町観光協会 TEL:0494-62-1462

第一部 映画上映「天地悠々―兜太・俳句の一本道」 13時30分~

第二部 「金子兜太百年祭」リレートーク 15時~

第三部 秩父音頭奉納・フィナーレ 16時~(終了予定16時30分)

http://www.minano.gr.jp/2019/09/05/9400/

2019年9月10日

金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争


金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争。
金子さんの訃報に、改めて、あの戦争について語ってくれた言葉たちを反芻している。

 第439回:24歳が体験した戦争。の巻(雨宮処凛)リンクしています
 https://maga9.jp/180228/








2019年7月6日

志布志市有明町の西光こども園に句碑


園児らは五月の光よく笑うよ  兜太

 戦後日本の俳壇をけん引した俳人で、昨年2月に98歳で亡くなった金子兜太さんの句碑が、鹿児島県志布志市有明町の西光こども園の庭に建っている。生前、園を3度訪れ園児らに「命と平和の大切さ」を説いて聞かせた金子さん。句碑は園が子供たちとの心のふれあいの証しとして今年3月に建てたもので、そこに宿る金子さんの魂は今も子供たちの成長を優しく見守っている。【新開良一】

 句碑の正面には金子さんが揮毫(きごう)した句「園児らは 五月の小鳥 よく笑うよ」が刻まれている。たくさんの園児たちに囲まれた金子さんが、小鳥がさえずるようにしゃべる子供たちの天真らんまんさを詠んだ一句だという。

 金子さんは園を営む西光寺の前住職で園長でもある藤井龍道さん(87)と長年親交があり、その縁でたびたび訪問。2016年5月、西光寺で園児たちと触れ合った半年後には句碑の句とともに「五月の海光 ここまで届く 園児かな」と自書した2枚の色紙を園に贈った。

 園児たちはお返しに園の畑で育てたサツマイモなどを送った。金子さんは「おいしい、おいしい」と喜んで食べたという。

 昨年2月、金子さんが入院したことを知った園児らは「げんきになってまたあそびにきて」と言葉を添えた似顔絵を送って回復を祈った。しかし願いは届かず、金子さんは似顔絵を見ることなく旅立ってしまった。子供たちの絵は棺の中に収められたという。

 今年6月3日、園児たちは例年通り金子さんが好きだったサツマイモの苗を植えつけた。畑に勢ぞろいした30人の園児に藤井さんが「お浄土の金子先生にまたおいしく食べていただけるよう祈って植えてください」と話しかけると、子供らは「またおいしいお芋さんができますように」と願いを込めながら一本一本苗を植えていった。

 金子さんは20代後半の一時期、西太平洋のトラック島(現チューク諸島)に海軍主計中尉として出征。西光寺の講演では悲惨な戦争体験をもとに「私の生涯は戦死した人のためにある、という思いで生きてきた」と語り、生涯、平和への思いと反戦への決意を貫いた。

 藤井さんは「絶対戦争をしてはいけないと最期まで言っておられた。地位、名誉、財といったものを一切考えない人だった」としのび「この句碑を通じて金子先生と園児たちとの心の交流を伝え続けたい」と話した。

管理人から・・・・金子先生は、サツマイモが好物でカルチャーセンターの講義の合間に
生徒が持参した薩摩芋をよくおやつに召し上がっていました。園児たちのおいもも美味しかったのでしょうね、


西光寺にある句碑です
正面に白さるすべり曲がれば人  金子兜太
平成21年4月17日建立
鹿児島県志布志市有明町蓬原1884
西光寺門徒建立

毎日新聞から転載させてもらいました

2019年6月26日

サラメシに金子先生が


NHK・サラメシ
俳人・金子兜太の愛した味は??
朝日新聞社での俳句欄の選句に出された昼の弁当は
季節の魚や野菜の松花堂弁当でした。
吸い物もついて美味しそうでした。
とにかく、ゆっくりと食べる。
人の二倍はかかりました。
健康には特に気を遣い、晩年はワインを少々でしね。


ライフワークの一つが新聞の俳壇の仕事。
90を過ぎても電車に乗って選句会へ。
寄せられた俳句を読み込み、選ぶ作業に没頭した。
心待ちにしたのはお昼でした。
中でもなじみの小料理屋の松花堂弁当が大のお気に入りだった。
蓋を開ければ目にも鮮やかな旬の景色。
句を選ぶ間選者たちは皆言葉を交わさず黙々と。
その分昼のひとときは料理をネタに季節の移ろいや表現の在り方など
さまざまな話に花が咲いた。
98でこの世を去るまで毎回5時間。


2019年6月25日

兜太の「愛句百句から」透きとほる熟柿や墓は奈良全土


兜太の「愛句百句から」

透きとほる熟柿や墓は奈良全土   澁谷  道 

澁谷 道
昭和21年平畑静塔に、同42年橋かん石師事。文学的虚実を
表裏として独自な幻想的俳句世界を志向。前衛的な「夜盗派」
「縄」を経て「海程」所属。俳句と連句誌「紫薇」創刊。現代
俳句の女流第一人者、死去


 澁谷道の「全土」は、「国のまほろば」の大和。「柿くへば鐘が
鳴るなり法隆寺」と、柿好きの正岡子規がいささかの愁いをこめて
詠いあげた、柿熟るる「奈良全土」である。
 作者は奈良にきている、いや、いまはきていないのかもしれない。
目のまえに熟柿を見ているJ木についたまま熟れたもので、空のひ
かりに朱の果肉が透く感じなのだ。あるいは、すでに卓上におかれ
てあるものかもしれない。

 それを見ていると、「奈良全土」への想念がひろがるのだ。いま
奈良にいるとすれば、自分を軸にして四方にひろがる。遠く離れて
おもっているとすれば、自分を光点として放射状にひろがる。そし
て、その全域にさまざまな墓が見えてくる。古墳あり、石の墓あり、
かの祖神の霊異と女身のあわれがしみる箸墓(はしのみはか)も
見えていよう。

それらの墓たちは全土を被うがごとくだが、作者澁谷道の想念のな
かでは、死の暗さにつらならず、古く人間的なものへの親しみにつ
らなるのである。
そこに作者のやさしさがある。

 澁谷道は大阪在住の小児科女医。この句は第二句集『藤』所収
のものだが、私は鑑賞しながら、彼女が蜘蛛が風にのって移動する
話をしていたのをおもいだしていた。クモたちは風が吹いてくるの
を待っていて、吹きはじめると、それにのって別のところに移るの
だそうだ。「いく日でも待っているんでしょうね、きっと。吹きは
じめると、一つづつ、肢をひろげるようにして、うまく風にのって
スーイスーイととんでゆくんですって。一つづつ、ね」
――澁谷道にとっては、奈良全土の墓たちも、クモたちも、同じよ
うに、生きて息づいているのではないか、と私はおもう。


山頭火120句 「放浪行乞」  金子兜太



 分け入っても分け入っても青い山    山頭火

 大正15年(1926、45歳)の『層雲』発表句。「山頭火一代一冊の自選句集」(大山澄太といわれる『草木塔』は事実上この句からはじまるといってもよいほどである。句の前書に「大正15年4月、解くすべもない惑ひを脊負うて、行乞流転の旅に出た」とある。この年の4月7日に小豆島で尾崎放哉が亡くなっており、2日後の4月10日に山頭火は味取観音堂を出て行乞流転の旅に入っている。
この三日の間に放哉の死についての便りが届いたのではないか。

 日頃、この人のことに関心をもち、放浪の句や文をわが身に引きつけて遊んでいただけに、山頭火には(ツとする思いがあったのだろう。衝動的に堂を出る。
足は南にむかって歩いていた。そういうことだったのかもしれない。そのせいか、前書から見ても、この句から見ても、山頭火の心情にはそれほど突きつめたものは見受けられないのである。むしろかなりに気分的なものすら感じられる。

 私は以前、この句について、「句も若く、ヴァガボンドの感傷と憧れとでもいいたいような、角笛(ホルン)の哀調がある。心奥の難に疲れはてている人間の放浪句というよりは、多感な戸惑いがちな旅感の句として読める」と書いたが、確かに「多感な戸惑いがちな旅感」といえるものがこの句にはあり、次第にそれが深まり、心奥の難あるいは疲れの色を帯びてくるわけなのだ。ともあれ放浪第一発目のこの句は、かなりにロマンチックな、センチメンタルな句と言った方がいい。

 そのためか、何といってもこの句のよさ、懐かしは、歩いている人問の姿が見えてくることで、その姿が熊本から宮崎にかけてのいままさに青を深めはしめた晩春初夏の山々に溶け込んでゆくのである。

45歳、すでに中年だが、気持としては青年のような多感な男の姿があり、ただひたすらさまよい歩くという「放浪者」というものの原型がある。この句が人に好かれる理由はそこにあるのだ。

 ちなみに、尾崎放哉は山頭火より三つ歳下の俳人で、山頭火と同じく荻原井泉水の主宰する俳誌『層雲』に所属していた。この雑誌は明治44年の創刊で、その前年に出た理想主義的な文芸雑誌『白樺』の俳句版ともいえる内容だった。

したがって、俳句のつくり方が自由で、季題制度などというものは認めないという徹底した考え方を持っていた。季語はなくてもいいなどという曖昧なものではなく、徹底して自由で、一行詩を書くという考え方。それが放哉や山頭火のような放浪者の資質に合っていたのだろう。

集英社 1987年

2019年6月24日

兜太の「愛句百句から」 



 この「愛句百句」は昭和53年、講談社から発刊された。その頃
金子先生は昭和49年(55歳)日銀を退職後、上武大学教授となり、
長男眞土さんが結婚昭和52年には父の伊昔紅氏が88歳で死去、
昭和53年には朝日カルチャーセンターで俳句講義が始まった。
心身共に力のみなぎった年齢でした。

 あとがきなよると、一般にはあまり知られていないが、自分では
好きでたまらないいわば秘蔵のよろこびを味わせてくれる句がある。
それらの句をまとめて鑑賞したら、どんなに楽しかろうと日頃おも
っていたので、この本の実現はまったくうれしいと・・・・。
 句は近世から身の回りの人たちまで選ばれていますが、海程に絞
りアップします。    管理人・竹丸

透きとほる熟柿よ墓は奈良全土    澁谷 道
大き背の冬の象動く淋しければ    芦田きよし


2019年6月22日

金子真土氏の「家族から見た金子兜太」



2018.6.22(金)金子兜太お別れの会の挨拶の抜粋

 本日は平日の昼頃ということで、皆様、いろいろな御用をお持ちだと思うのですが、父のためにここにお集まりいただきましたこと、まず、このことを最初に御礼を申し上げます。ありがとうございます。
  
 [家族から見た父]ということについて、少しだけお時間を戴きたいと思っております。先ほど、宮坂さんのほうから「存在者」という言葉が何度も父に与えられました。父がみずから、「存在者で、ありのままに生きるんだ」と明言しましたのが2016年1月、朝日賞の授賞式の会場でございました。会場の皆さんは拍手をして歓迎をしてくださいました。ただ、家族としてはちょっと複雑な思いでその宣言を聞いたことを覚えております。

 ご案内のように父は体が丈夫で、父の母親は百四歳まで生きたということもありまして、「自分はあと十年は生きるんだ」ということも申しておりました。その父が「ありのままに生きるんだ」という宣言を皆さんの前でしたときに、これから先、どんな付き合い
方を父とするのかなというのが、世話をする立場の人間として考えざるを得なかった場面でございました。
 私なりに、父の言う[存在者]とはどんなものだろうか、ということを折りに触れて考えてみたのですが、キ-になることは二つかなと思っております。
 
 一つは、先ほど宮坂さんがあっしゃったような戦争体験です。父は工員さんを束ねておりましたが、その人たちは日常においては気に入らない相手はすぐに刺す、あるいは男色の若い青年を奪い合ってヶンカをする、あるいは人殺しが起こる。そういうことを平気でやる人たちだった。ただ、その人たちが手榴弾の実験で即死をした仲間をみんなで担いで病院まで連れて行く。父は一緒に走っていたわけですが、その姿を大変美しいと感じたと言っておりました。

2019年6月3日

金子兜太戦後俳句日記

 
白水社 定価9000+税
解説「兜太の戦争体験」 長谷川 櫂

 金子兜太は61年間、ほぼ毎日、日記をつけていた。逝去後、18冊の3年日記と8冊の単年日記、計26冊の日記帳が遺された。
この『金子兜太戦後俳句日記』全三巻は日記原本を俳句関係の記述を中心に約三分の一にまとめたものである。

一人の俳人の壮年時代から老年期をへて殼晩年にまで及ぶ壮大な記録である。兜太の『日記』は日本の日記文学の血脈に連なるものだが、注目すべきは61年という長きにわたっていることである。

 日記の書かれた時代は戦後の昭和と平成、二つの時代にまたがる。そして昭和を生きた兜太と平成を生きた兜太は明らかに印象が異なる。単に年齢を重ねただけのものではない。

2019年6月2日

句集『全景』塩野谷 仁(しおのや じん)


著者略歴 塩野谷 仁 
昭和14年(1939)栃木県生まれ。
昭和37年「海程」創刊とともに、金子兜太に師事。第18回「海程賞」受賞。
平成11年「遊牧」創刊代表。
平成19年 第62回現代俳句協会賞受賞。
句集 『円環』『塩野谷仁句集』『独唱楽譜』『東炎』『荒髪』
評論集
兜太往還』
共著 『現代の俳人一〇一』など
現在 「遊牧」代表、「海程」同人。現代俳句協会幹事・研修部長。

  
自選十二句

  太古より雨は降りいて昼蛍


  夏あざみ鳥あつまるを河口という


  昼星の落つ音あらん大枯野


  水のつづきに水のある御慶かな


  あるだけの灯の点されて四月馬鹿


  地続きに落日もあり韮雑炊


  地球から水はこぼれず桜騒


  確実に階段は果つ天の川


  紅茸を蹴り夭折に遅れおり


  一月の全景として鴎二羽


  眠りには泥も炎(ほ)もある小豆粥


  風景のどまん中よりさくら散る

2019年6月1日

海程創刊50周年記念アンソロジー【同人の章・あ行~か行】

さ行~た行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html
な行~た行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/12/blog-post_10.html
ま行~わ行
https://kanekotota.blogspot.com/2017/12/blog-post_23.html
物故同人
https://kanekotota.blogspot.com/2017/09/blog-post_27.html

「海程句集3」平成24年 金 子  兜 太

左義長や武器という武器焼いてしまえ
差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり
夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く
老母指せば蛇の体の笑うなり
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
定住漂泊冬の陽熱き握り飯
熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
合歓の花君と別れてうろつくよ
言霊の脊梁山脈のさくら
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか
マスクのわれに青年疲れ果てている
わが修羅へ若き歌人が醉うてくる
津波のあとに老女生きてあり死なぬ
今も余震の原曝の国夏がらす
被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり
被曝福島米一粒林檎一顆を労わり
泣く赤児に冬の陽しみて困民史
東京暁紅ひたすらに知的に医師たち
樹相確かな林間を得て冬を生く

「海程第2句集」平成14年 金子兜太
梅雨の家老女を赤松が照らす
少年二人と榠樝六個は偶然なり
小鳥来る全力疾走の小鳥も
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
二階に漱石一階に子規秋の蜂     愚陀仏庵
長生きの朧の中の眼玉かな
夏落葉有髪(うはつ))も禿頭もゆくよ
青春が晩年の子規芥子坊主
春落日しかし日暮れを急がない
よく眠る夢の枯野が青むまで
鳥渡り月渡る谷人老いたり
妻病めり腹立たしむなし春寒し
雪中に飛光飛雪の今(いま)がある
暁暗を猪やおおかみが通る
おおかみが蚕飼の村を歩いていた
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
山鳴りときに狼そのものであった
月光に赤裸裸な狼と出会う

2019年5月31日

English translation of Kanetotota haiku

金子兜太の俳句英訳




Twisted and seared
the marathon at the center 
of the atomic explosion

彎曲し火傷し爆心地のマラソン  
wankyokushi kashoushi bakushinchi no marason 

Twisted and seared
the marathon at the center 
of the atomic explosion

2019年5月29日

句集「月の呟き」 茂里美絵



著者略歴
1936年7月2日(昭和H年)東京都杉並区生まれ
1985年「風涛」(原子公平主宰)参加のち同人
1993年「海程」(金子兜太主宰)参加のち同人
1996年 海程新人賞受賞
1999年「遊牧」(塩野谷仁代表)創刊・2号より参加
2002年「風濤」退会
2010年 海程会賞受賞
2014年「拓」(前川弘明代表)参加
2015年 海程賞受賞
2016年「拓」終刊により退会
句集「海程新鋭集lV」
共著「現代俳句を歩く」「現代俳句を探る」

自選句

夜の新樹葉っぱそれぞれが個室
子馬らの群れて羽音のすこしある
自鳥帰るまひるの傷のように水
夢想とは自木蓮のゆっくり散る
低く来る蝶よひんやりと未來
草いきれ皮膚は牢のようでもあり
耳鳴りのたとえば秋の灯の波紋
一字一字夕ひぐらしの声かな
火口湖に降る銀漢の水こだま
セーター脱ぐ岸辺に鳥放つごと
人恋うる一瞬昏き昼の火事
蓮ひらくまひるの寝室のようなり

2019年5月25日

句集 「星狩」 清水 伶 (しみず れい)


著者略歴
1948年、岡山県生まれ。「朝」「海程」同人を経て、1999年、同人誌「遊牧」(代表・塩野谷仁)に参加、現在に至るっ現代俳句協会会員1千葉県現代俳句協会幹事。千葉県俳句作家協会会員。千葉日報・日報俳壇選者。
   
  「遊牧」同人の清水伶さんが第二句集『星狩』を上木された(平成29年3月31日、本阿弥書店)。序文は塩野谷仁「遊牧」代表で、多くの佳句を挙げながら、清水さんを「硬質の叙情」の俳人だと賞賛している。
 彼女自身の目指すところは「私の興味は書かれている句意が鮮明で、現実的な細部が感覚という、全体の多義性を深めた俳句を書きたいと願っている」とある。

第73回現代俳句協会賞受賞「星狩」50句   清水 


膕(ひかがみ)の昏きところを夏の緤
父の日の大笑面に逢いにゆく
幾万の蝶を翔たせて夏の空
昼銀河歩きはじめに羅生門
冬の鵙そっと点りて人体図
抽斗のなか紅梅の坂がある
初蝶は真夜にはぐれた花骨牌(はなかるた)
椿闇まぶたあるもの横切れる
胎生の無数の濁り白もくれん
深層の水買いにゆく夕さくら