2018年7月29日

追悼の一句・金子先生さようなら

2010年 秩父道場句会

「海程544号・終刊」

自然に還る荒凡夫のまなざし      阿久沢長道
風青し秩父の土の重み知る       東 祐子
大向日葵兜太先生笑みたまう      浅生圭佑子
兜太臥すもう一枚の涅槃絵図      綾田節子
褌を忘れ永遠の荒星か         荒井まり子
兜太逝き山毛欅の洞の真暗がり     有村王志
昼寝覚われに手足や兜太亡し      安西 篤
秩父の蚕眠り兜太師とわに在り     安藤和子
人逝きてやさしく青む春の闇      飯島洋子
早春の山ふところへ兜太逝く      五十嵐研三
とこしなえ師は復活す一茶と共に    石上邦子
始まりは兜太選の句春の野良      石川義倫
狼と蛍と子らの秩父かな        石川修治
戒名屹立林問過ぎゆく春疾風      石川青狼
新緑の天辺兜太師が坐す        石川まゆみ
万緑や師の句碑でんと皆野町      石囗光子
梅咲いて天上句会は車座に       石橋いろり
北匂うぬくもりの字で形見の語     市川静子
白鳥の一声ときに霧に蒼む       市原光子
脊梁山脈 雨含み峯ざくら       伊藤 巌
師の逝きて早や青梅の香る朝      伊藤 和
今日もまた鮫が來ている言葉の森    伊藤清雄
ほたる来よ師のてのひらを標とし    伊藤淳子
花辛夷立禅呼称百余名         伊藤雅彦
おおかみの犬歯美しなおもて反戦    伊藤道郎
体温のゆきはぐれのようかたくり咲く  稲田豊子
金子兜太全集と新広辞苑と       稲葉千尋
夏の下駄武蔵野闊歩の師は消えず    井上湖子
牛蛙ぐわぐわ巨星静かに消える     井上俊一
春満月包む両手が寂しくなる      植田郁一
反戦の太き濃き文字春を逝く      植竹利江
永眠と言われ眠りの猪遊ぶ       上野昭子
大海のわが心の帆や造型論       上野有紀子
黄砂晴れ兜太の石碑現るる       上原祥子
大きなる黒き初蝶兜太師や       鵜飼惠子
兜太存る囀の野をただ歩く       宇川啓子
与太与太と兜太やすらか母の辺り    鵜川伸二
道端にたんぽぽひとつ兜太亡し     内野 修
天辺に師の無きふしぎ秩父は夏     梅川寧汪
強き句や手の暖かさ繊細なり      江口華雨
戻り来よほうたる深き水の闇      榎本愛子
雨煙る沖には先生の眼         榎本祐子
師と写る一葉永久に雲の峰       江良 修
師の亡くて夏草を組む祭壇よ      大池桜子
永遠の与太でありしよ花火花火     大池美木
梅咲くや青鮫の気配ここぞ南冥     大上恒子
不死身と書く死水脈立つ初春      大内冨美子
秩父から立山にかかる兜太師のみひかり  扇谷千恵子
梅が散りゆくまっしろな棺です     大沢輝一
極楽鳥花土蜂兜していたり       大高俊一
あの頃はサプライズの日々熊ん蜂    大高宏允
先生はいつもどおりよ蛙とぶ      大高洋子
自由とは問えば確かな声がする     太田順子
先生の笑顔葉桜きらきらす       大西健司
筆太の書産土の精気永遠に       大西宣子
光放ち兜太先生春野ゆく        大西政司
兜太逝く早春なれば連れ多し      大野美代子
凡に生き几に逝くこと葱坊主      大野泰司
富士山の上に露座仏春の雪       大林秋彦
戦争はいやだと兜太蛍こい       大谷 菫
死した師の俳句を読むや風光る     大山賢太
春雷忌即ち兜太の平和主義       岡崎正宏
喪失のわれも訪ねる遠い家       岡崎万寿
冴返る俳諧自由こそ生命        小川佳芳
涙怺え蝶かんかんとふわふわと     小川佑華
春浅し兜太先生道作る         奥野ちあき
蛇淵より秩父の空へ初蟹        奥山和子
熊谷の大きな虹は染みついて      奥山津々子
春一番太き遺筆のありありと      小野裕三
女生徒のフクシマリンゴ味わう兜太師  小野千秋
白滝のしぶきを浴びて師を思う     竹丸・金子兜太アーカイブ管理人

2018年7月19日

蛭田有一氏の兜太写真


 わたしの骨格自由人 
俳句界の巨人・金子兜太(とうた)93歳
の日常をカメラで追ったインタビュー主体
のドキュメント。
本書に掲載されたインタビューの一部を
15点の写真それぞれに振り分けて掲載。


2. 金子先生の最後に寄り添って  篠田悦子

蛭田有一氏撮影写真

 年が変わって今年の一月七口口の朝、先生は三十八度四
分の高熱を出し、すぐに熊谷市内の病院に入院されまし
た。肺炎でした。風邪が流行り出した時期のため、お見
舞いもいちいち病院の許可が必要でしたが、夜ぐっすり
眠るためにも日中はなるべく起きているように話しかけ
てほしいとのことで、こまめに病室に伺いました。先生
はとても病人とは思えないほど冗談なども囗にされ、ま
だまだ大丈夫と安心した次第です。その後病状は着実に
快復し、歩行等のリ(ビリを経て、一月二十五日に無事
退院されました。

 退院後は足腰が弱ってしまったこともあり、夜間は安
全のためにグリーンフォレストビレッジで過ごすことに
し、毎日往復する生活となりました。
 そんな中の二月四日午前十一時ごろ、私は先生からお
電話をいただきました。
 「フォレストの生活にも慣れてきたので句会をしたい。
句会を立ち上げてくれないか」
という嬉しいお話でした。最近はあまり聞けなかったと
てもはっきりした晴れ晴れとした先生の声です。すっか
りお元気になられたご様子で、もう大丈夫と胸を撫で下
ろしました。

 電話をいただいた二日後の二月六日。その日の夕方、
いつものようにフォレストにお送りする途中で先生の息
遣いが何となくおかしいことに気づき、引き返してきた
そうです。先生は「癖だから心配しなくていい」とおっ
しやったそうですが、この言葉が最後になってしまわれ
たと聞いております。

 再入院されて高熱が四、五日続くなど厳しい状況にあ
りました。しかし、九十二歳のときの胆管癌のr術、そ
の前の類天疱瘡、その前の右顔面麻痺、みんな皃服なさ
って来られた超人の先生です。楽観できる状態ではない
としても、明日の朝はきっと目を開けている、と思いな
がら毎日が過ぎていきました。二月ニト囗には皆子夫人
の法事が予定されておりましたが、もちろん延期になり
ました。
          ◇
 二月二十日。今日も先生は目を開くこともなく、お声
をお出しになることもなく、特別苦しそうでもなく、囗
を開けてごうごう呼吸をしているばかりでした。只一つ
痰を吸引するとき駄々つ子のように囗を固く結んでしま
いますので、そのことが意識のある証でした。こちらの
呼び掛けは聞こえていらっしゃる感じはしていて、検査
の数値には気がかりもありましたが、小康状態は保たれ
ているようでしたので、私は夕方五時過ぎに病院を出ま
した。

 その夜です。病院から連絡を受けて、長谷川順子さん
と十二時十分に駆けつけました。先生のお顔は蒼白です
が、重い荷を下ろされたかのように穏やかで何かさっぱ
りとなさっていて安らかでした。揺すぶれば、今にも
「よしてくれ」と言いそうなお顔でした。
 平成三十年二月二十日十一時四十七分、先生は急性呼
吸促迫症候群にて永眠されてしまわれました。

 ご家族と一緒にお顔を拭かせていただきました。それ
から主治医の松井先生たちのお見送りを受けて、午前一
時半ごろにご自宅にお帰りになりました。朝六時のテレ
ビで訃報が流れました。当座の枕花を茂里美絵さんに用
意していただいて二人でお届けに上がると、もう新聞記
者の方がいらしておりました。

 ご子息ご夫妻は一睡もできなかったと思います。病院
での付添いも相当お疲れでしたでしょうに、お若いとは
いえ、よく凌いで來られたと思います。
 ご葬儀は近親者で営み、後日お別れ会を開く旨新聞で
報道されました。しかし、先生は熊谷市の名誉市民で、
皆野町の名誉町民でもありましたので、熊谷市から式場
(メモリアル彩雲)を提供されることになり、この限り
ではなくなりました。

◆三月一日 通夜式 午後六時より
 昨晩からの激しい雨は昼ごろまでには止みましたが、
冷たい風のなか、上田埼玉県知事と県の関係者数十人、
富岡熊谷市長と市議会議員、石木戸皆野町長と関係者、
現代俳句協会の宮坂会長はじめ本部の幹部のみなさん、
埼玉県現代俳句協会の幹事のみなさん、そして先生を慕
っておられた近隣のみなさまも大勢おいでになりました
 顧みて、受付はもちろん、お席へのご案内等大変混雑し
て失礼も多かったのではないかと思っています。どうぞ
お許しください。

◆三月二日 告別式 午前十一時より
 葬儀は先生の菩提寺、総持寺住職の大光和尚によって
執り行われました。
 弔辞で、富岡熊谷市長は「俳句を通じて芸術文化の発
展にご尽力賜り、失ったものの大きさを痛感している」
と。石木戸皆野町長は「先生のご活躍は皆野町民の誇り
でした。今後も秩父音頭と俳句の町づくりに取り組んで
まいります」と。宮坂現代俳句協会会長は「自由と平和
の堅持に嘘偽りを許さない精神で生きてきた。他界して
も人間の魂は消えないという兜太さん、会えるなら化け
てでも出て来てほしい」と。安西海程会会長は「悲しい
というより、寂しい、悔しいです」と述べられました。
 参列者はみな、この期に及んでも先生の死を信じたく
ない様子で佇んでおりました。

 先生のお骨は太くて硬くて白く光っておりました。骨
壷も特別大きいと思いました。
 一月二十五日に退院され、二月六日に再び入院される
卞日余りの間、金子先生は三件のインタビューに応えら
れました。俳句も詠んでおられましたが、その九句は
。海程」四月号に発表されるのを待って、各新聞にいっ
せいに「兜太さん最後の九句」として掲載されました。
原稿用紙に書かれた九句は文字もしっかりしていて、か
つ真っ直ぐで、体調が良かったことがはっきり分かりま
で。私か電話をいただいたのもこの原稿をお書きになっ
た日たったことも分かりました。

 お元気だったら、三月から句会をしていただろうか、
と考えますと、それはなかったのではないかと思います。
悁故ならば、先生は九十八年で人生という時間を遣い切
ってしまわれたと思うからです。
 いま冷静に思いますことは、再入院の前の十日余りの
しやきっとした時間は、先生ならではの、天からいただ
いた時問だったのだと思えてなりません。
 生涯現役だった先生、ありがとうございました。
       
   (写真はすべて堀之内長一撮影)

2018年7月11日

1.金子先生の最後に寄り添って  篠田悦子

 「海程」終巻544号掲載


  海程院太航句極居±1長瀞町野上の総持寺の墓所に
納骨されたことを見届けておりますのに、先生が亡くな
ったとは信じられない日々が続いております。きっと誰
もがそんな喪失感でいらつしゃるのではと思います。

 先生のお宅では、ときにご子息ご夫妻がどうしてもお
留守にせざるを得ないこともあり、昨年、今後のために
も先心がわが家の延長のように安心して過ごせる場所を
探されました。中いにも、サポート体制の整った介護付
施般(グリーンフォレストビレッジ)が熊谷市内にある
ことがわかり、その一部屋を借り切っておく方法をとる
ことになりました。

 先生も当初は、いささか抵抗もあったかと思いますが、
そのときは私たちがいつでも遊びに行かせてもらいます
から、と励ましたりいたしました。その後は、お伺いす
るたびに、お昼をご一緒したり、散歩したり、ただのお
しゃべりをしたり、あるときなどは海程の秀作鑑賞の録
音取りまでこなしました。実は二月十日の土曜日にも、
海程最終号のための秀作鑑賞を予定していたのですが、
先生は二月六日に入院され、叶わないままとなったこと
が非常に残念でなりません。

 私たちは金子先生と同じ地元にいる縁もあり、先生に
多く接する機会がありました。ときには自分たちの身の
丈以上のことを仰せつかる苦労もありましたが、それ以
上に先生とご一緒する至福の時間を与えていただいたこ
とに感謝で一杯です。

 グリーンフォレストビレッジは熊谷市郊外の荒川の土
手の近くにあります。土手の手前は秩父線が走っており、
向こう側には野鳥の森が黝々と広がり、荒川の広い河原
が続いています。この森を塒にして何処からともなく帰
つて来る鴉の大群の乱舞は儀式のようでもあり、いのち
の神々しさを覚えます。そして少し遠くに比企丘陵が
長々と横たわり、緑濃き武州をありありと体感できると
ころです。暖かくなったら先生と歩くことを楽しみにし
ておりました。

 先生の「東国抄」に、昨年の秋ごろから、フォレスト
の部屋でお詠みになった仞が出てきます。最後の九仞と
併せて鑑賞しますと、晩年の淋しさのようなものが滲み
出て参りまして切なくなります。

          ◇
 平成二十九年の六月ごろより、先生は急な発熱に襲わ
れたり、足腰も弱まってしまい、大宮で開かれていた東
京例会も選句をいただくだけにな翩ました。同年一月に
末の弟の洸三さんを亡くされ、前年には千侍先生を亡く
されておりましたので、顔にはお出しになりませんでし
たが、相当気落ちされていたと思います。五月の大会で
懸案の海程終刊を発表なさってほっとされた反面、気力
が萎えてしまったということもあるかも知れません。

 ご自分でも不安を囗にしておられましたが、お話が横
道に逸れたり、言葉もはっきりしないことが目に見える
ようになりました。それでも暇な時間はあまりなく、お
出かけにならない分、自宅で取材などに応じる機会が増
えていたようです。特に憲法九条に関する問題について
は、戦争体験者としての責務だと決めておられ、どんな
に小さな取材でも受けておられたと思います。
 つづく

2018年7月4日

『今日の俳句』金子兜太 

『今日の俳句』 光文社カッパブックスのち文庫化 1965年9月]定価552円
 1・新しい美の開花 2・ドラム罐も俳句になる 
 3・描写からイメージへ
 4・五・七・五と「や」「かな」5・俳句は詩である
平成3年2月 知恵の森文庫で復刊   596円(税込)

2018年6月24日

金子兜太お別れの会

2018.6.22(金) 有楽町朝日ホール


宇多喜代子氏挨拶
黙祷
現代俳句協会会長中村氏挨拶
代表句奉読、海程田中さん
喪主 真土氏挨拶

金子家献花



ハガキ5枚が配られました

金子兜太より御礼    
金子兜太葬儀(2018.3.2)に飾られていました

朝日俳壇の選者に高山れおなさん


同時代の句、共同体の記憶に 朝日俳壇の新選者・高山れおなさん
2月に98歳で亡くなった金子兜太氏を詠んだ、高山さんの追悼句だ。佐保姫は春をつかさどる女神。まかみとは狼(おおかみ)。

さほひめと つれだつまかみ ふりむかず   れおな

筑紫磐井さんは「BLOG俳句新空間」
 ビッグニュースだ。「朝日俳壇」新選者に金子兜太の後を継いで新選者に就任したのは高山れおな、である。愚生はかつて、金子兜太に「高山れおなって、どんヤツだ」、と聞かれたことがあった。「『豈』の若手俳人で、有望な人ですよ、『俳句空間』新鋭投句欄から出てきた有季定型派ですよ」と答えたら(当時、高山れおなは20代にしてすでに大人ぶりの有季定型の安定した、しっかりした句を書いていた)、「オトコか・・・、オンナかと思ったよ」と言っていた。

 また生前の藤田湘子は、或る時、愚生に「君のところに高山れおなって、いるだろ・・」「ええ、何ですか?」、「彼、面白いね。文章もいいね。独特な視点を持っている・・・」と言われたのを覚えている。
 高山れおな、49歳、攝津幸彦が没した年齢と同じだ。二か月に一度、現在も続いている「豈」の句会は、元はと言えば、高山れおなが「ぼくは句会に出たことがないんです。句会というものを経験してみたいので、『豈』で句会をやってもらえませんか」と筑紫磐井に相談したのが切っ掛けで始まったのだ。そして、攝津幸彦もそれによって句会の面白い面を発見していった。
 最年少にして、結社育ちではではない、いわゆる俳句結社に属さず、独学で俳人になった者が、初めて朝日俳壇選者に就任する(攝津幸彦もまた同人誌育ち、独学だった)。朝日新聞にとっても、俳句の未来、将来を見据えた極めて適切な英断を下したというべきだろう。

     雛壇を旅立つ雛もなくしづか         れおな
   秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか 
   果てしなき涼しさといふ夢も見き
   七夕や若く愚かに嗅ぎあへる
   げんぱつ は おとなの あそび ぜんゑい も
   きれ よりも ぎやくぎれ だいじ ぜんゑい も  
   でんとう の かさ の とりかへ むれう で します

2018年6月23日

金子兜太お別れの会・東京新聞より

東京新聞6月23日朝刊より・クリックすれば大きくなります


金子兜太お別れの会・各新聞より

【岳主宰宮坂静生氏追悼】

金子兜太さんしのび 約800人が献花

 2月に98歳で死去した俳人、金子兜太さんのお別れの会が22日、東京都千代田区の有楽町朝日ホールで開かれた。長年会長を務めた現代俳句協会や主宰誌「海程(かいてい)」など俳壇関係者をはじめ、親交のあった各界の約800人が献花し、豪放で温かな金子さんの人柄をしのんだ。

 発起人の宮坂静生・現代俳句協会特別顧問はお別れのあいさつのなかで「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」「彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン」などの代表句を読み上げ、「南洋トラック島の戦場で倒れた青年たちから託された、反戦平和のために尽くす信念が、存在者・兜太に貫かれ、多くの人々に鮮明に記憶された。俳人の枠を超えて国民詩人と呼びたい」とたたえた。【井上卓弥】
毎日新聞2018年6月22日

2018年6月22日

森澄雄さんを悼む 金子兜太

夕べ、「2011ベストエッセイ」を読んでいたら、金子先生のエッセイがあった。畏友であった森氏を悼んだものだった。今日のお別れの会のふさわしいのでアップします。


 森澄雄は十五年前に脳出血で倒れてから、車椅子の生活をつづけてきたが、そのうちに
唸るような発声になった。今春から入退院を繰り返すようになってもへこたれない。眼は澄み、そして多作。

 〈虎落笛けふ美しき月の夜〉
   〈年守るわがしづごころ顧みる〉

2018年6月21日

金子兜太先生 お別れの会


金子兜太先生のお別れの会が明日です。
金子先生の魂もきっと会場に・・・・。
みんな、みんな待ってますよー。

1.日 時:平成30年6月22日(金)12 : 00~13 : 30
2.場 所:有楽町朝日ホール(千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン11階)
3.形 式:無宗教による献花礼拝
4.喪 主:金子眞土氏(長男)
服装は、平服です。
喪主から香奠、供物、供花の類につきましては、固くご辞退申し上げます。 
問い合わせ先:現代俳句協会事務局(電話:03-3839-8190)
海程の同人・会友は堀之内まで  (電話:048 - 788-8380)

金子兜太略年譜

金子兜太略年譜  1.誕生から30歳

■1919 大正8年
9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父盆地
皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。父は東亜同文書院校医として上海に在住。
上海むで父と
■1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。
母と兜太

2018年6月15日

金子兜太自選自解99句


犬は海を少年はマンゴーの森を見る   兜太

ここから五句がトラック島での句。主人公は土着のカナカ族の少年。よく犬を連れて歩いていた。海岸に立って、少年は珊瑚環礁の美しい海を見、振り返ってマンゴーの森を見ていた。米軍機の襲来が頻繁で、マンゴーの大木は爆撃でかなりやられていたし、カヌーで海に出ると機銃掃射を受けることもある。カナカの少年にとって戦争は災害以外の何物でもない。それが腹立たしかった。      (『少年』)      
                

2018年6月9日

『東国抄』金子兜太 2017年~2018年

東国抄〈拾遺2〉 金子兜太  (海程6月号 543号)

夏潮のみちのくの民孤化あるまじ

窓より覗く洒落たホテルの秋去る顔

熊谷や秩父の星影冬深く

奥秩父両神武甲冬の深さよ

片頬に冬日次第にしぼむ老い


東国抄〈拾遺1〉 金子兜太 (海程5月号 542号)

昼月に黒点被曝の福島何処へ

草鳴りの語ありや草莽の人ありき

夕星に母らしき声の韻くよ

父母ありき老いて且つ生き父母ありき

秩父谷桜並木に猪遊ぶや

(「東国抄」拾遺として、現代俳句協会の機関誌『現代俳句』平成三十年二月号に発表された特別作品「望郷」十句を二回に分けて掲載する)





戦争体験が基となり反戦意識を深め復員後、日銀労働組合の専従となるがレッドパージで退かされ、その後俳句に専念。1962年、同人誌「海程」創刊、後主宰となる。戦後、戦争体験を伝えることを念頭に活動してまいりましたが、98歳で2月20日死去しました。



 2月20日に98歳で亡くなった俳人・金子兜太さんの遺作九句が、主宰する俳誌「海程」4月号に掲載された。夜は介護施設で過ごす身の上を、「さすらい」と表現。
施設での様子を
さすらいに雪ふる二日入浴す
などと詠んだ。
 金子さんは本紙「平和の俳句」の選者をしていた2015年秋、認知症の症状が出始めた。昨年8月には選評を書くのが難しくなり選者を退いたが、句作は続けていた。

長男真土さんは「父 は認知症を発症してもコミュニケーションカが際立って残っていて、医者にも驚かれたほど。人の輪の中で過ごしてきたから、施設で孤独を感じていたのでは。句にさみしさがにじんでいる」と話す。

 陽の柔わら歩ききれない遠い家

介護施設は、埼玉県熊谷市内の自宅から車で15分ほど。金子さんの弱った脚では遠い道のりだった。金子さんは今年初め、肺炎になり入院。1月下旬に退院した後は、家族で介護が難しい夜と入浴日を施設で過ごすようになった。原稿は、2月6日に誤飲性肺炎で緊急入院する前に真土さんに手渡された。1月26日から2月3日までの間に書いたとみられる。
 金子さんには死を意識て辞世の句を詠む発想はなかったという。「死ぬことは他界に行くだけの話と捉え、はやりの終活もナンセンスだと割り切っていました」。
遺作は愛用のサインペンで書かれた力のこもったた独特の筆跡。「これだけ整然としている原稿は久しぶりで、復活している感じでした」としのんだ。
俳誌海程は1961年に創刊。金子さんは生前99歳を迎える今年9月にの終刊を明らかにしていたが、7月に終刊することになった。  (東京新聞・矢島智子さん)

東京新聞朝刊2018.4.3掲載 アップさせていただきました。 多謝・管理人


2018年6月8日

金子兜太資料 

1919年(大正8年) 9月23日生まれ
2018年(平成30年)2月20日98歳 誤飲性肺炎で死亡

金子兜太略年譜リンク 詳しい略歴はリンク先へ

金子兜太追悼特集



2018年4 月号俳句あるふぁ』 追悼・金子兜太

「平和の俳句」と金子兜太    加古陽治
「自選12句」鑑賞       武田伸一
「20句鑑賞」         武田伸一
「兜太の宇宙・あきらの宇宙」  宮坂静生
「存在者」への長い道程     黒田杏子
「土のデモン」茂吉と兜太    芳賀 徹
「海程」と金子兜太         武田伸一
「いのち」「大地」「水」の俳句 小川軽舟
「金子兜太アルバム」
「寒雷」時代の金子兜太    石 寒太
「金子兜太に惹かれて」俳句弾圧不忘の碑建立まで マブソン青眼
  これからの「金子兜太」    田中亜美
  人間存在と俳句         石 寒太
  金子兜太句集と後記「少年から日常まで」


2018年4月号『月刊俳句界』  
特集 巨星墜つ! 
哀悼 金子兜太 
追悼文 稲畑汀子 宇多喜代子 高野ムツオ 有馬朗人 他


2018年5月号 『俳句』別冊
■特集 「追悼 金子兜太」
▼兜太アルバム▼秘蔵インタビュー▼絶筆9句+兜太の本音 
▼追悼エッセイ
高野ムツオ・梯 久美子・深見けん二・半藤一利・黒田杏子・宮坂静生・桜井洋子(元NHKアナウンサー)・いとうせいこう・小林恭二・後藤比奈夫・柿本多映・有馬朗人・大串 章・宇佐美貴子(元朝日新聞記者)
▼追悼座談会 これからも兜太と生きていく
安西 篤×宇多喜代子×佐佐木幸綱
▼『日常』以後の100句抄 安西 篤=選・解説
▼全46名による追悼句+おくる言葉

2018年6月号『俳壇』
追悼・澪の果てはるかに 金子兜太

2016年10月号と11月号『俳句四季』100人が読む金子兜太




2018年 04 月号 俳句あるふぁ 追悼・金子兜太


「平和の俳句」と金子兜太    加古陽治
「自選12句」鑑賞       武田伸一
「20句鑑賞」         武田伸一
「兜太の宇宙・あきらの宇宙」  宮坂静生
「存在者」への長い道程     黒田杏子
「土のデモン」茂吉と兜太    芳賀 徹
「海程」と金子兜太         武田伸一
「いのち」「大地」「水」の俳句 小川軽舟
「金子兜太アルバム」
「寒雷」時代の金子兜太    石 寒太
「金子兜太に惹かれて」俳句弾圧不忘の碑建立まで マブソン青眼
  これからの「金子兜太」    田中亜美
  人間存在と俳句         石 寒太
  金子兜太句集と後記「少年から日常まで」
 
「平和の俳句」と金子兜太・加古陽治氏から抜粋させてもらいました。

 人の人生について「棺を蓋いて事定まる」と言うように……こう書きだした原稿が、まさか金子兜太さん亡き後に掲載されることになろうとは思いもよらなかった。
 二月十八日、長男の眞土さんから容体悪化の連絡を受け、病院に駆けつけた。病室で、金子さんは眠るように横たわっていた。耳元で「加古が来ましたよ。『平和の俳句』、夏にまたやりましょうね」と声をかけると、「あー、あー」と絞り出すように声を出した。

東京新聞や中日新聞で、戦後七十年の一月一日から三年間連載した「平和の俳句」は、晩年の金子さんが一番大事にした仕事だった。
だから、私の言葉に反応してくれたのだろう。金子さんの意識は戻ることなく、二日後、大往生を遂げた。

 冒頭の書き出しに続くのは金子さんのことではなく「平和の俳句」のことだった。新聞連載への評価もまた、終わった時にもっとも露わになるからだ。終了を紙面で告知する
と、続々と便りが届いた。そこには終了を惜しんだり、連載に感謝したりする声があふれていた。「平和の俳句」が読者や投稿者に愛された証しである。

 名古屋市の七十歳の主婦は「『平和の俳句』は宝ものです。(略)第一面に一つ。そして、選者の的確な評。その日の『とんでもない大事件』と屹立して、しゃんと、凜と、
立つ『平和』を歌い上げる一人の市民。そんな気持ちで受け取ってきました」とつづった。

『平和の俳句』を通していろいろな方とつながっていられて、励ましてもらったり教えてもらったり一緒に笑ったり」と書いたのは、東京都文京区の四十七歳のウエイトレス。もちろん、金子さんに言及した便りも多い。「中核に兜太先生のどっしりした存在があったと思います」。茨城県鹿嶋市の七十八歳の男性が書いた通り、まさしく「平和の俳句」の屋台骨だった。



2018年6月7日

俳句四季、大特集・100人が読む金子兜太

俳句四季、11月号と12月号、併せて100人が鑑賞します 

11月号の書き手は、浅井愼平、有馬朗人、安西篤、池田澄子。石寒太、伊丹三樹彦、今井聖、宇多喜代子など50名です。12月号に50名が1句鑑賞します。(敬称略)

竹丸は、宇田さんのファンです。秩父道場でお目に掛かり、自分の興味ある稲作について、雲南まで確かめに行ったことを伺った。単なる旅では無くそこに滞在、米に纏わる暮らしの原点を吸収したかったのだと思った。紙では得られない話が面白く聞き飽きなかった。それで宇田さんの語る金子兜太についても知りたいと・・・。
海程の方で特集を知らない方もいらっしゃると思いますのでお知らせしましす。
Amazonにリンクを貼りましたので11月、12月も購入できます。ぜひお求め下さい。
(Amazonは配送料が無料で翌日届きます)


宇多喜代子氏鑑賞

夏の山国毋居てわれを与太と言う    兜太
   
 いくつになっても母親にとって子は子だというが、この句の母親もそんな世間の母親と同じく「われ」なる作者は今も昔ながらのやんちやな子なのだ。なんといってもその子を堂々と「与太」呼ばわりする母親がいい。

 「夏の山国」は母のいる母領、子がもっとも安心して過ごせるところ、母胎につづくところである。子が成長して親の許から逸れたところにいったとしても、母にしてみれば昔とおなじ子なのである。
 初期の句集『少年』に、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」がある。「秩父の子」が兜太自身であるような、すでに十分に与太であるような土の子である。母のいう「与太」は、腹を出した土塊愛児の謂であろう。可愛くてしかたないのだ。


2018年4月17日

「俳句対談」兜太&中曽根



2018年に100歳を迎える中曽根康弘元首相、99歳を迎える俳人・金子兜太さんが2009年に『文藝春秋』で行った「俳句対談」。前編につづく後編では、サミット中に浮かんだ一句の話から、俳人政治家の思い出まで。

金子 中曽根さん、ご無沙汰しております。お元気そうですね。

中曽根 実は先ほどまでテレビでWBCの決勝を観てましてね、韓国との競り合いで興奮して頭が真っ赤になっちゃって(笑)。金子さんと俳句のことを話すには半日ぐらい頭を冷やさないとダメだと思いまして、深呼吸をうんとしたんですよ。

金子 いや本当に、世界一になってめでたいことでした。中曽根さんにお目にかかるのは実に20年ぶりなんです。と言っても私はSPと大勢の女性に囲まれているところに一目会っただけですから憶えていらっしゃらないだろうけど。

中曽根 さて、どの時だろう。

金子 俳人の久保田月鈴子(げつれいし)が主宰していた俳誌「富士ばら」のパーティです。

中曽根 ああ、久保田君か。彼は旧制静岡高校での1年上の先輩で、私が俳句を作るきっかけになった男です。私は日本独特の短詩である俳句にもともと興味を持っておったもんだから、自然と親しくなりました。

リンク先へ・つづきをどうぞ。
前編
http://bunshun.jp/articles/-/5599
後編
http://bunshun.jp/articles/-/5600

ネットで見つけた中曽根康弘元首相との対談です。ご覧下さい。
金子先生が亡くなり俳句を見て頂く先生が居ないさみしさ、竹丸はぼうっとしています。

2018年3月26日

金子先生の句会


今日の東京新聞夕刊の文化面に、関悦史さんの"21世紀俳人が見る金子兜太さん "が載っていました。関氏はさる俳句賞の候補になり選考会で兜太に眼前で面前で評された。
「才気があっていろいろやっているが、韻文になっていない。散文だ。作者が目の前にいたらぶっとばしてやる」

海程の句会でも、問題句から講評した。問題句とは、内容はあるが未完成の句、ぶっとんでいるだけで中身の乏しい句、良い意味でも悪い意味でも問題句の無い句会は海程ではあり得なかった。
竹丸の経験でも自分ではまともに書いた筈なのに問題句となったことも、意識して書いている人からみた次元が低いが・・・・。

問題句の次は、佳作は句としては出来ているがそこそこの句、次の秀逸は中身も有り、完成している句です。選ばれると本当に嬉しかった。出句の1割程度が秀逸でした。
あとは、内容と完成度の薄い句で、一瀉千里で一言触れた。まあ、残ったのは季語だけということもあり、講評が応えた。金子先生ほど、的確な評をする俳人は居ないと思う。誰でも納得させられてしまう、それだけぶれない俳句感の理念があった俳人でした。




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